第183話
ムラサメが再び命を宿してから工房に訪れた静寂は、どこか凛とした余韻をまとっていた。
炉の炎はまだ揺らめいていたが、作業が終わった今、それは安堵の吐息のように見えた。
ヴァンはリタの仕事を、二週間ずっと見ていた。
精密な手元。少しの誤差も許さない集中。誰の助けも借りず、ただ己の知識と技術と信念だけを頼りに、一振りの”刀“と向き合っていた。
壊れたバッシュを蘇らせたその姿に、自然と感嘆の言葉が漏れた。
「……やっぱ、すげぇな」
彼はそう呟いたあと、小さく笑った。
“天才”という言葉が、初めて納得できた気がした。
キャンディスもまた、黙ってリタを見つめていた。
言葉は少なかったが、その眼差しには確かな敬意が宿っていた。
「さすがだな」
それだけで十分だった。
自らの相棒でもある“刀“を預けることがどういうことか、——そのことを、彼女は誰より知っている。
その夜、ヴァンは一人、魔導炉の前に立ち尽くしていた。
揺れる青白い炎を見つめながら、思考を巡らせていた。
——バッシュって、なんだ?
ただの武器ではない。
洞窟で見たキャンディスの戦い。リタの鍛治仕事。
どれもが、バッシュに何か“魂”のようなものが宿っていると感じさせた。
「魂って……なんなんだろな」
ぽつりとつぶやくと、炎が軽く揺れた気がした。
ヴァンには、それがムラサメの息遣いのようにも思えた。
そのとき、背後からリタの声が聞こえた。
「キャンディスと鉱石を取りに行って、なにか収穫はあったか?」
彼女はいつもと変わらぬ口調で、少しだけからかうように言った。
ヴァンは肩越しに振り返り、少し考えたあと、素直に頷いた。
「……まあ、いろいろ、な」
彼の言葉には、単に鉱石の話だけではない何かが滲んでいた。
リタはそれを察しつつも、深くは聞かない。
ただ、薄く笑って一言。
「そうか。ならよかった」
それだけだった。
魔導炉の炎は、まだ静かに揺れていた。
まるで、誰かの返事のように。
◇
ヴァンは、ずっと考えていた。
魂とは、なんなのか。
バッシュに宿るそれは、ただの感傷や幻想ではなかった。
ムラサメが目覚めた瞬間、確かに“何か”が戻ってきたとわかった。
目には見えない「何か」を感じた。
決して手で触れられるものじゃない。
かと言って、“形”がないわけでもない。
まるで──そう、魔導炉の炎のようだった。
輪郭を持たない。けれど確かにそこにある。
揺らめきながら、消えずに繋がっていくもの。
「……炎ってのも、魂に似てんのかもな」
その言葉には誰も応えなかったが、揺れる炎が微かに音を立てて跳ねた。
その翌朝、キャンディスは工房を発つ支度を整えていた。
ムラサメを腰に差し、扉の前でふと足を止める。
「ヴァン」
彼女は振り返らず、背中越しに話しかけた。
「リタも、昔はただの“見習い”だった。それは私も同じだ。生まれてから、何ができるかが決まっている奴なんていない」
ヴァンは無言のまま、聞き入る。
「問題は、何ができるかじゃなく──何をしようとするかだ」
その言葉は淡々とした口調だったが、どこか重みがあった。
刃を振るい続け、命を懸けた者だけが持つ、確かな“気概“のようだった。
キャンディスが扉を開けて出て行ったあと、ヴァンはしばらくその場に立ち尽くしていた。
“何をしようとするか”──その問いが、頭の中で何度も反響していた。
「…ふぅ」
工房の一角で、ヴァンは自分の作業机に向かっていた。
依頼されたオリカ用の“医療器具”は、まだ一部しか完成していない。
精密な加工が必要で、しかもこの世界には存在しない形。
使う者の意図を深く理解しない限り、ただの“金属の棒”になってしまう。
だが、ヴァンの手の動きには迷いがなかった。
「魂があるかはわかんねえけど……でも、やるっきゃねえよな」
そう呟いて、彼は魔素合金の板を一枚、慎重に固定し始めた。
それは“メス”という名の器具になるはずだった。
精密な切断面。滑らかな刃の反り。
職人見習いとして培ってきた技術や経験が生きる時間。
“人を傷つけるため”ではなく、“癒すため”に使われる道具。
「この刃物が、人の体を切るために使われるのか…。ま、でも、これで人の命が救えるんなら…」
誰かのことを考えながら作る。
その想いが、炎のように繋がっていく。
ムラサメのように、命を宿すわけではない。
それでも、自分の作るものが誰かの未来に繋がっていくのだとしたら──
「悪くねぇ」
ヴァンは手元の金属に視線を落とし、小さく笑った。
……
……………
………………………………
………………………………………………
チュン
チュンチュン
チチチチ…
数日後の朝だった。
ロストンの街は海からの風に包まれていた。
商業地区の通りを抜け、ヴァンは小型の荷車を引いていた。
荷台には、手作りの農機具──草刈り用の刃と、硬い土をほぐすための鍬のような器具が丁寧に積まれている。
向かう先は、ロストン東郊の牧場──イーストリッジだった。
昼前の陽光が白い石畳に斜めの影を落とし、港風が潮の匂いを運ぶ。
ヴァンは小型の荷馬車を引きながら、商業区の喧騒を抜け、東の街道へと歩みを進めていた。
通りには露店が軒を連ね、香辛料の香りや焼きたてのパンの匂いが漂う。
エルフの薬師が珍しい草を売る声、獣人の少年たちがじゃれ合う姿──ロストンは今日も多種多様な種族と文化が溶け合う、息づいた街だ。
街外れへと近づくにつれ、石造りの建物は木造へと変わり、道も緩やかな坂を描いて土道へと続く。
見慣れた街並みの変化に、ヴァンの歩みがわずかに緩む。
「……ああ、この道、昔よく走ったっけな」
少年時代──まだシャドウ・ウイングス(※ストリートチルドレンの少年団の一つ)に入る前、ヴァンはこのあたりの下町に住んでいた。
腹をすかせ、日が暮れるまで仲間たちと駆け回っていたあの頃。
靴底を擦り減らした石段、いたずらして追いかけられた市場の角、壊れかけの鐘の音……
思い出は鮮明だった。
食べるものに困り、寒い夜に毛布一枚を分け合って震えていた日々。
だが、不思議なことに、あの頃は毎日が楽しかった。
何も持っていなかったが、何にでもなれる気がした。
どんな夢も、この街の空の向こうにある気がしていた。
ふと、足を止める。小高い丘の先に、緑に包まれた屋根が見える。
──あっという間に時が流れて、今じゃ俺もティナも、別々の道を歩いてる。
けれど、だからこそ、この日常の一歩が大切だと、今のヴァンは思う。
風に揺れる麦畑の向こう、イーストリッジ牧場の白い柵が見えてきた。
馬車の車輪が乾いた小道をきしませ、心なしか、荷台の上の農機具も陽を浴びてきらめいた。
イーストリッジ牧場が近づくにつれ、街の喧騒は遠ざかり、土と草の匂いが鼻をくすぐった。
舗装された石畳が途切れ、乾いた土道に変わると、道端に咲く野花が風に揺れ、羊たちの柔らかな鳴き声が耳に届いてくる。
牧場はロストンの中でも珍しい、街中に残された数少ない自然地帯だった。
石造りの街並みに囲まれながら、そこだけは時間の流れが緩やかだった。
白木で囲まれた柵に沿って、風にそよぐ牧草。
低く設けられた石積みの小屋。
乾いた藁が天窓から顔を出し、陽光にきらめいていた。
赤茶色の納屋の屋根はすこし歪み、修理跡がパッチワークのように継がれている。
その隣には、家畜たちを診るための簡易な診療舎。
玄関前にはティナお手製の木製ベンチが置かれ、今日も誰かの忘れ物の麦わら帽子がちょこんと乗っていた。
風が吹くたび、遠くから干し草の香りが運ばれ、馬の嘶きが陽だまりの中に溶けていく。
ヴァンは馬車の手綱を引き、静かに牧場の門の前に立った。
白い門扉には、手彫りの小さな看板が掲げられている。
「East Ridge Farm」──文字の端が削れているのは、風雨に晒された時間の証だ。
門の向こうに広がる風景を見つめながら、ヴァンはふと苦笑する。
「……まさか、鍛治職人になるなんてな」
少年の頃は、空を飛ぶ騎士になりたかった。魔道具職人に憧れていたこともあったし、あるいは、遠い異国の海を渡る航海士になる夢もあった。
だが今、彼は鉄を打ち、刃を鍛え、誰かの暮らしのために工具をつくっている。
子どもだった頃には想像もしなかった道だ。
それでも、不思議と後悔はない。
その理由を──もしかしたら、この門の向こうにいる誰かが、教えてくれるのかもしれない。
彼は一歩、門をくぐった。
春の陽光が優しく背中を押してくる。
そして、どこかから、ティナの笑い声が風に乗って届いた気がした。
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【イーストリッジ牧場】
名称: イーストリッジ牧場(Eastridge Farm)
位置:
ロストン市の西、グレイストン川下流の東岸に位置。
都市部から馬車で約20分(徒歩で約45分程度)の距離にあり、工業区や湿地帯からも適度に離れた緩やかな丘陵地帯に広がる。
「イーストリッジ(東の尾根)」の名前は、周辺のなだらかな尾根状の地形にちなんで付けられたもので、朝日が最も早く差し込む場所として知られている。
周辺環境:
・北側には都市の外れの庶民区があり、街道が整備されているためアクセスは比較的良好。
・南東側はロストン湿地帯に近いため、水資源に恵まれているが、湿気対策のため地盤の高い位置に施設を建てている。
・丘陵地帯を超えた先の北はエリオスの森に至る野道の始まりとなっており、自然に囲まれた静かな環境が広がる。
・土壌は柔らかく、牛や羊の放牧、野菜の栽培などに適しており、魔法薬の素材となる植物も一部自家栽培している。
特色:
・都市部からのアクセスが良好なため、都市住民向けの直売所を週末に開いている。
・魔導農具の試験導入や、軽度の魔法障壁を用いた害獣除けなど、ヴァンの支援による技術的工夫も取り入れている。
・過去には少年時代のヴァンが何度か手伝いに来ていたこともあり、彼にとっても馴染みのある場所。