第181話
キャンディスは、霧の門の前で静かに足を止めた。
目の前に広がる淡く揺らめく魔力霧は、まるで深海のようにどこまでも静かで、しかし底知れぬ力を感じさせる。
「波長を合わせる」
そう言うと、手をゆっくりとかざした。
指先から微細な魔力の流れが広がってゆく。
霧の表面がわずかに振動し、共鳴するように光が走る。
風のない湖面に一滴のしずくが落ちたような、静かな“ゆらぎ”。
きぃん……という耳に届かないはずの高音が、空気の奥から共鳴するように響き渡った。
霧の色が深い藍から透き通る銀へと変化し、次第に、霧自体がほどけるように崩れていく。
空間に、裂け目が開いた。
それは単なる抜け道ではなく、“風の通り道”のようだった。
彼らはゆっくりとその中へと歩を進めていく。
——そして。
霧の門を抜けた瞬間、視界が一気に広がる。
そこは、まるで地底に封じられた異界の楽園だった。
晶核空洞
彼らの目の前には、直径300メートル、高さ120メートルに及ぶ半球状の巨大な空洞が広がっていた。
内壁は、青紫に透き通った結晶体で覆われ、まるで地中から芽吹いた水晶の林のように、鋭く、そして美しくそびえている。
岩肌には魔力が脈打ち、光が緩やかに波打ちながら、空間全体をほんのりと照らしていた。
地面には鋸状の結晶が点在し、ところどころに蒸気を上げる地熱孔が口を開けている。
深く走る魔力スリットからは、淡い紫の霧がゆらゆらと立ち上り、まるで空間そのものが呼吸しているかのようだった。
世界樹の主根が、垂直に突き刺さるように貫いていた。
その表皮は脈打つように光を放ち、まるで空間に“命”を注ぎ込むかのように、静かに輝きを降らせている。
その根の周囲には、特に濃密な結晶群が形成されていた。
——《魔脈収束帯》。
円環状に並ぶ結晶柱は、一本ごとに3〜12メートルの高さを誇り、中心に向かって渦を描くように傾いている。
それらは、まるで何かを“守っている”ようにも、“捧げている”ようにも見えた。
深紫色に染まった結晶の中心には、かすかに脈打つ核晶の姿があった。
その美しさに、ヴァンは言葉を失って立ち尽くす。
かすかに立ち上る光の波、紫と青が溶け合うような結晶群、天から垂れる根から流れ落ちる魔力の光——
ここはまるで、地の底に埋もれた神殿のようだった。
神秘に満ちたこの空間の中心で、何かが“息づいている”——
そんな気配が、確かにあった。
キャンディスは静かに結晶柱へと歩を進めた。
周囲の空気が、張り詰めるように変わる。
彼女が向かったのは、《コアリッジ》の中心にそびえるひときわ濃密な柱——深紫に染まった核晶が内包された、極めて純度の高い結晶体だった。
彼女は腰の背に収めていたムラサメを抜いた。
刃が空気を割り、きぃんと澄んだ音を立てて震える。
その刀身は、結晶の光を受けて、深く蒼い光を返していた。
ヴァンは息を呑んで、その動作を見守った。
キャンディスは構えを取ると、ふっと細く息を吐く。
まるで、心音までもが静まり返るような沈黙の中、彼女の全身から魔力が細やかに拡がった。
ムラサメの刃に伝わり、波長が柱の核晶と“共鳴”する。
ほんの一瞬——
刃が走った。
動作は極めて流麗で、しかし繊細。
まるで熟練の料理人が高級な白身魚を一太刀で捌くように、迷いのない手付きで結晶を切り分けていく。
力ではなく、刃先に込められた魔力共鳴が、結晶構造の“つなぎ目”を探り、音もなくその繋がりを断ち切っていく。
斜めに走った一閃が、柱から核晶の一部を滑らかに分離させた。
コトン……と、切り取られた結晶の破片が手の中に収まる。
掌に載ったそれは、まるで心臓のように淡く脈動していた。
「——これで充分だ」
キャンディスはそっと呟いた。
刃を納め、ヴァンの方へと歩いていく。
「戻るぞ」
「あ、あれっ!? もう!?」
ヴァンが駆け寄りながら、空洞全体を見渡す。
辺り一面には、まだまだ未採掘の深淵晶石がびっしりと眠っている。
目を輝かせて言った。
「こんなにあるんだ、どうせなら、もっと持って帰ったほうが良くないか? 一攫千金ってやつだ!」
だが、キャンディスは首を横に振る。
「目的は達した。これ以上の長いは無意味だ」
その言葉に、ヴァンは一瞬言葉を失った。
見上げると、空洞の天井から降り注ぐ光が、彼女の赤い髪をほんのり照らしていた。
ムラサメの修復——それだけのために、彼女はここまで来たのだ。
ヴァンは名残惜しそうに空洞を見渡すが、やがて「ちぇ……」と小さく呟いて肩をすくめる。
そして二人は、静寂に包まれた晶核空洞を後にするのだった。




