第180話
飛び込んだ鋼獣の動きは、速かった。
だが——それ以上に、動きが「読まれて」いた。
キャンディスの左肩がわずかに沈む。
素早くムラサメが逆手に返され、地面を舐めるように横へと滑る。
剣の切っ先が、飛び込んできた鋼獣の足元、わずか十数センチの死角を走る。
ガリッ。
地を裂く音とともに、鋼の脚部が断ち落とされる。
バランスを崩した鋼獣の巨体が、無防備な状態で空中を回転し——
キャンディスの足裏が、その背中を「蹴り飛ばした」。
——ボシュッ!
まるで投擲された弾丸のように、鋼獣の巨体が後方へと吹き飛ぶ。
それが最奥に控えていた別の個体へと激突する。
「ガッ……!」
音が重なった。
そして、それが“合図”となった。
圧倒的な剣術がもたらした破壊の波。
キャンディスの刃に削がれた数体が、倒れ、転がり、重なり、——ドミノのように連鎖する。
ムラサメが起こした風。
引きつけるだけ引きつけ、エリアの中心から遠ざかったあの一歩。
一体の鋼獣が鋭い斬撃に沈んだのを皮切りに、統率が取れていた連携もバランスを崩し、精密な機構の連動が寸断される。
瞬き一つ、いや、それすら惜しい刹那だった。
——今や、彼女に近づけるだけの間合いは存在しない。
制御を失った鋼獣たちが次々と地面に沈む中、その中心に残るものは、もはや微動だにしなかった。
——《終わっていた》。
鋼の軍勢。
魔導の獣たち。
数十体におよぶその圧力は、たった一人の剣士によって、地に沈められたのだ。
彼女はムラサメを肩に担ぎ、足元に広がる残骸の海を見下ろしながら、一切の隙も見せずに静止していた。
風すらも、その姿を避けるように吹き抜けた。
残された数体の鋼獣たちが、後退する。
いや、違う。
「戦意」が、消えていた。
鋼獣には統率された行動と結束力があるはずだ。
だが、それでも“逃げた”。
この空間に、もはや敵意というものが存在できる余地はなかった。
そして、沈黙の中央に立つキャンディスの姿が、その全てを物語っていた。
光を帯びたムラサメの刀身。
血も汗もないその表情。
深く沈めた重心から、ごく自然に姿勢を解き、まるで「何事もなかったかのように」——
すっと立ち上がる。
静寂の中。
その中心で、ようやく動いたものがある。
「…………っ」
ヴァンだった。
その場にへたり込んだまま、ただ、目の前の光景を見つめている。
もはや戦いの音も、衝撃の揺れもない。
ただ、残骸の山と、立ち尽くす一人の影。
「……終わった……のか?」
震えるような声が、空間に溶けていく。
誰も答えなかった。
だが、その静けさこそが、答えだった。
キャンディスは、刀を静かに鞘に戻し、ヴァンのもとへと歩み寄った。
足音は、驚くほど静かだった。
鋼の残骸を踏みしめながら、ゆっくりと足を動かす。
「立てるか?」
その声は、さっきまでの鋼を裂くような斬撃とは真逆の、優しさに満ちた声色だった。
ヴァンは、一瞬だけその声に驚いたように目を見開き——
「……あ、ああ」とかすれた声で応じながら、ぎこちなく頷いた。
だが、いざ立ち上がろうとすると——
「——っ……」
足に、力が入らなかった。
指先が震え、膝がかすかに揺れる。
頭では動かそうとしているのに、体がついてこない。
恐怖だったのか。
それとも、今の「戦い」が、あまりにも現実離れしていたからか。
——いや、違う。
それは「畏れ」だった。
目の前で繰り広げられた剣戟。
ただの戦いじゃなかった。
ひとつひとつの動きが洗練されていて、まるで美しい舞のようでもあった。
日常からはかけ離れた光景だった。
“ムラサメ”の斬撃と、動き。
彼の目には、それが「武器」ではなく、ひとつの「生き物」のように見えた。
——バッシュが、息づいていた。
鍛冶職人見習いの少年として、ずっと夢見てきた。
“ただの道具”ではない。
限られた戦士だけが持つことができる武具——「バッシュ」を、自分の手で生み出すこと。
その理想のかたちが、今、目の前で踊っていた。
あまりにも鮮やかで、あまりにも強烈な“姿”だった。
ヴァンは、震える手で地面を押さえ、ゆっくりと体を持ち上げる。
「……すげぇ、や……」
ぽつりと漏らしたその声には、恐れではなく、確かな憧れが宿っていた。
キャンディスは彼の肩に手を添えながら、視線を周囲へと滑らせる。
戦闘の余波が残る空間は、すでに静けさを取り戻していた。
地面には、鋼獣たちの死骸が転がっていた。
「深淵晶石を探すぞ」
キャンディスの言葉に、ヴァンが頷く。
二人は残骸の間を慎重に歩きながら、探索を再開した。
しばらく周りを探索していると——
瓦礫の山の奥に、大きく抉れた崩落地帯が姿を見せた。
断層のように縦に裂け、岩肌が露出している。
そこに、重力が歪んでいるような奇妙な“揺らぎ”があった。
「……これは」
ヴァンが顔をしかめ、足元の石を投げると——
石は、まるで吸い込まれるように斜めへと落下していく。
——“グラビティピット”。
異常な重力領域だ。
《グラビティピット》
そこは、自然現象の範疇を越えた“地質的異常領域”だった。
断層が走るその地点には、世界樹から供給される魔力流が、地下深層で極端な密度を持って滞留・対流している。
この地層域は、地表とはまったく異なる「物理定数」を持つ。
周囲の岩盤は、通常の堆積層とは異なり、重力歪曲鉱層と呼ばれる特殊鉱物が多層的に混在していた。
この鉱物は、魔素の高密度な通過に伴い、重力子の局所的偏在を誘発する性質を持っており、その影響で空間自体が捩れて見える現象が発生する。
——つまり、「空間に穴が開いたように」見えるのは、そこに“穴”があるのではなく、局所的に引き寄せられた重力の“谷”が存在するからだ。
これにより、物体は通常の落下方向ではなく、「歪みに沿って」斜めに吸い込まれていく。
「重力が吸い寄せている」というよりも、「空間が物体を引き込んでいる」ような感覚に近い。
周囲には、高温の地熱ガスが断続的に噴出しており、それによる気圧変化も激しい。
これだけでも人間の肺や鼓膜に負荷がかかる環境だが——
加えて、世界樹由来の魔素が、滞留しながら一定のリズムで対流している。
これは、自然界ではまず起こり得ない現象だった。
「……不思議な光景だな」
キャンディスは、小さくつぶやくように言った。
彼女の周囲に張られた透明な魔導アーマーが、断続的に淡い光を放つ。
地熱、気圧、魔素密度、重力異常——それらを細かく調整・干渉し、身体への影響を遮断する。
このアーマーを発動したのは、洞窟に入った最初の段階だった。
——そして、ヴァン。
彼はその事実に気づいていない。
ただひとりの少年が、地熱や魔素の対流を苦にもせず、ここまで到達できた理由。
それは、キャンディスが彼の周囲にも微細な防護魔導領域を展開していたからだった。
(それすらも、本人は知らないままだが)
「……この先に、深淵晶石があるんだよな?」
ヴァンがぽつりと呟くように訊ねる。
キャンディスは静かに頷いた。
「恐らくな」
そう言いながら、彼女は目の前の空間を、じっと見据えた。
空間が揺らぎ、岩盤が脈打つように震えている。
それはまるで、大地そのものが、何かを「産もう」としているようだった。
彼らが足を踏み入れると、グラビティピット内部は一気に様相を変えた。
重力の渦が“呼吸”し、まるで地層そのものが生きているような空間だった。
岩盤が螺旋を描くように隆起し、その間を魔素の光の筋が脈打っている。
空気は重く、密度を帯びて肌を押し返す感覚がある。
ヴァンは思わず息を飲んだ。
「重い……? いや、違う、これは——」
それは単なる“質量”の感覚ではなかった。空間そのものの抵抗。
存在するだけでエネルギーを奪われるような奇妙な感覚だった。
「空間に重力の“ひだ”が生じている。触れれば、吸い寄せられるぞ」
キャンディスが静かに言う。
その言葉通り、数メートル先の空間が波紋のように揺れたかと思うと、小石が引き寄せられるようにして宙を舞い、消えていった。
グラビティピットの中心へと近づくにつれ、空間はますます歪み、やがて前方に、淡く光る“霧の門”が浮かび上がった。
それは、霧というには濃すぎ、壁というには透けすぎている。
透明感のある藍色と緑が混ざり合い、ゆらゆらと揺れる。
まるで“夜の海に浮かぶ水面”のように、美しくも不安定な存在だった。
「……あれが、魔力霧の結界門か」
キャンディスが思わず声を漏らす。
——魔力霧。
それは、高密度の魔素粒子が空間内で凝集し、一種の結界膜のように振る舞う現象である。
この魔力霧は、大気中に偏在する微細な魔素子が、ある閾値を越えると自律的に凝集・膜状化する。
科学的には、「高濃度魔素のエネルギーポテンシャルが、臨界濃度に達した際、空間中の荷電微粒子と結合し、膜状のプラズマ構造を形成する」と定義できる。
この結界は物理的障壁というより、情報とエネルギーの出入りを制限する“フィルター”のような性質を持っており、許容範囲外の魔力波や生命波を感知すると、自動的に霧が濃くなって遮断する。
ゆえに、この門を越えるには、魔導構成を調整し、対象の“存在波長”を霧の層と同調させる必要があった。
「……まるで、夢の中みたいだな」
ヴァンがぽつりと呟いた。
その目の先にある霧の門は、ゆるやかな揺らぎを保ちながら、彼らの接近を静かに待ち受けていた。
まるで、時の流れから切り離された異世界の入り口のように——