第178話
鋼獣たちは怯んでいた。
キャンディスの攻撃の範囲は広く、かつ立体的だ。ムラサメの軌道は変幻自在に動く鞭のようにしなりながら、直線的な“鋭利さ”も伴っている。
彼女の元に近づいてきた鋼獣の跳躍。
その動きは俊敏ではあったものの、次への動作、——その動線へと繋ぐ空間の確保が、芳しくなかった。
キャンディスの動きを制限するために近づいた反面、逆にムラサメの刃が届く距離に重なってしまっていた。
その距離と位置の繋ぎ目を結ぶように、キャンディスは滑らかに動いただけだった。
鋼獣たちは、わずかに距離を取った。
臆したのではない。
キャンディスの動きが、まだ十分に予測できるものではなかったのだ。
ムラサメの刃は、通常の武器ではない。
鋭利な刀身から放たれる軌道。
その“輪郭”が空間を切り裂くたびに、迸る斬撃が魔力の揺らぎとなって周囲に伝わる。
まるで刃そのものが意思を持つかのように歪曲し、自在に長さを変える。
剣が通る場所だけが、「接触点」ではなかった。
彼女の一振りは、“空間の結び目そのもの”を断つ。
ひとつの時間が複数の距離や場所と交わるように、線と線が絡み合い、融ける。
ほんの一瞬の出来事だった。
下半身へと流れる動作。
その時間は、次の動作へと繋げるバネのような役割を果たし、筋繊維の奥を突く。
だが、彼女が動いたその一呼吸には、時間を止めるだけの「窪み」はなかった。
それほどまでに繊細で、細い。
針が通るほどの隙間。
まさに、その“通り道“だった。
ムラサメを動かすための足の運びや、腕が、滑らかに通り抜けたのは。
後の先。
ギリギリまで相手の動きを引きつけることができる柔らかい身のこなし。
鋼獣たちは、キャンディスのそのポテンシャルの高さを、対峙する距離感の中で把握しきれずにいた。
無闇に突っ込めば、自らの硬い皮膚をも切り裂く攻撃が待っている。
絶対的な数の有利を持っているにせよ、生半可な行動はかえって攻撃の手段を狭めてしまう可能性にもなる。
——スッ
微かな音とともに、空気がわずかに震えた。
ただの風ではない。
これは、剣士が放つ「気」の流れだ。
「間」とは、剣を振るう速度でもなければ、剣戟の軌道でもない。
敵と己、そのすべての情報が交錯する空白と——領域。
剣を構えたまま、足裏で地を感じる。
戦いは、一度の踏み込みと選択で決する。
それゆえ、剣の達人は闇雲には動かない。
——動かず、ただ選択する場を見極める。
敵がこちらを睨んでいる。
わずかに、肩の筋肉が震えた。
剣士の呼吸は、単なる肺の運動ではない。
——「息」をコントロールすることで、相手の攻撃のタイミングを操作する。
・息を吸えば、体は一瞬緊張する——攻撃の隙を生む。
・息を吐けば、体は脱力し、力が最大限に流れる。
重心移動と「流れ」——
剣とは「体の延長」であり、「意思そのもの」だ。
——足の裏に意識を置き、わずかに体重を前後させる。
このわずかな重心移動が、刃の軌道の領域を動かす。
ドッ
——敵が動いた。
だが、彼女は焦らない。
呼吸を“止める”ということ。
空気を“噛む”ということ。
(……今だ。)
一歩。
わずか一歩の移動。
その一歩が、空間のすべてを変える。
敵の陣形が動くその瞬間、ムラサメの可動流域はすでに相手の“中心”にあった。
——ただの直線軌道ではない、位置。
刀身が、光の残像を引くように伸びる。
魔導核が解放され、深淵の魔素鋼が魔力の奔流を受けて膨張する。
刃渡りの三倍——
通常ならば決して届かない距離が、いまや彼女の間合いの中にあった。
その佇まいはまるで、舞踏の合間に休息を挟むダンサーのように優雅だった。
鋼獣たちの動きには、確かな戦術がある。
彼らは「空間」を支配しようとしていた。
より有利なポイントを探るために思考を張り巡らせ、視線を配る。
天井から、岩陰から、立体的な境目を駆けるように。
単なる直線的な移動ではなく、キャンディスの視線を分散させるような、細かな躍動。
連携する振動波が、まるで洞窟全体を生き物のように脈動させていた。
——ドンッ
疾走音が洞窟内に迸る。
鋼獣たちが、一斉に動いた。
高低差を利用し、岩陰から跳ねるように飛び出した一体。
天井を蹴り、壁を駆けながら回り込む二体。
前方からまっすぐ距離を詰める数体と、
背後から迫るもの——
計十の影が、同時に襲いかかる。
まるで、空間そのものが牙を剥くかのような一撃。
「……フン」
キャンディスは微かに口角を上げた。
敵の意図は明確だった。
ただの突撃ではない。
彼らは「隙」を生むために、空間全体を使い、視線を分散させようとしている。
前方の個体が「囮」。
その動きに意識を向けさせた瞬間、側面と上方からの攻撃が重なる。
さらに、背後の個体が逃げ道を塞ぐ。
「包囲」という概念を、単なる四方の囲いではなく、「立体的な閉塞空間」として機能させる。
——理に適っている。
だからこそ、崩し甲斐がある。
「柔らかい動線」への対応。
キャンディスは、足裏で地面を確かめた。
ただの重心移動ではない。
すでに「逃げ道」を織り込んだ布石だ。
彼女の戦いに無駄な動きはない。
——最も“鋭い”場所へ、“最も楽な”方法で抜ける。
前方の獣が、地を蹴った。
次の瞬間、《ムラサメ》が疾る。
ただし——「斬らない」。
刃の“圧”だけで、敵の体勢を崩す。
魔力を纏った刀身が、横薙ぎに流れる。
グッと押し出されるように、獣の動きが鈍った。
(——視線が乱れる)
連携の要である「囮」が崩れた瞬間、鋼獣たちの全体の統制が乱れる。
ザッ——
キャンディスは動いた。
「間」に潜る、変幻の一歩。
真正面からの突撃に見せかけ、「右後方」へと滑るように跳んだ。
進行方向へ掠めるように、敵の攻撃が空を切る。
本来なら「動く」ことは隙を生む。
だが、彼女の動きは「空間を削るように」流れる。
無駄な力がない。
敵が「攻撃を当てようとする前」に、次の動作へと移る。
(最適な位置へ、最適な動きで)
鋼獣たちは、すぐに立て直す。
だが、キャンディスはすでに彼らの“懐“に潜り込んでいた。
ダイナミックな踏み込みと、その中での「静」。
天井から落ちる一体。
——キャンディスの動きは「静か」だった。
余計な動作を排除し、ただ流れるように待ち構える時間。
連続する動作の中で、柄を握りしめるしなやかな腕と手の繋ぎ目が、ゆったりとその鋭い質感を浮かび上がらせた。
それは——「波」。
ただの攻撃ではない。
ムラサメが、弧を描く。
だが、まだ「斬らない」。
刀身を引き込むように、重心の内側へと腕を引く。
ほんの、数センチ。
だが、それだけで——
“距離”が生まれた。
彼女は、わずかに生まれた隙間を圧縮するように踏み込んだ。
ムラサメの魔導核が震え、刃が光を帯びる。
魔力が収束し、刀身が僅かに伸びる。
——そのまま、一閃。
ヒュンッ——
魔力の刃が、空間を裂く。
勢いよく振り上げられた刃は、敵を斬らず、「空気」を断ち切った。
だが、それこそが「肝」だった。
刃が生み出した真空の一閃が、一瞬の乱流を生む。
鋼獣たちの振動波が、わずかに狂う。
——風を起こしたように周囲の空間の気流を変化させたあと、キャンディスの身体が、霧のように“すり抜けた”。




