第176話
鉱獣
洞窟の奥に響く、湿った石が軋むような音——
それは単なる岩の崩落ではなかった。
粘り気のある闇の中から、ゆっくりと姿を現す影。
体長2メートルを超える異形。
粘液に濡れた両生類のような皮膚の上に、無数の鉱石の結晶が張り付く異形の鎧。
関節を覆う装甲が光を鈍く反射し、鋭利な爪が微かな音を立てて岩の地面を引っ掻く。
深紅の眼が六つ、じっとこちらを射抜いていた。
呼吸音すら飲み込むような沈黙の中、ヴァンが剣を抜く音だけが響く。
「……おいおいおい、嘘だろ?!」
ヴァンは低く構え、慎重に歩を進めた。
しかし——
洞窟の影から、さらなる影が生まれる。
左右の岩壁に溶け込んでいた黒曜石のような影が、次々と形を成し、地面に降り立つ。
カツ……カツ……
数十もの鉤爪が岩盤を叩く音が、静寂を侵食する。
「囲まれ…ちまった…?」
ヴァンの声に、キャンディスは静かに頷く。
鉱獣たちは秩序なく襲いかかるわけではなかった。
全体が統率され、獲物を仕留める機会を狙っている。
壁際にいる個体は、地形を利用して逃げ道を断ち、中央の獣は、獲物が焦って動いた瞬間を襲おうとしていた。
——まるで戦術を理解しているかのような狩りの形。
「統率が取れている……ただの獣ではないな」
キャンディスは、鞘に納めたままの《ムラサメ》の柄に、——指をかける。
キャンディスの動きは、まるで水の流れのようだった。
指をかけたムラサメの柄が、静かに、——そしてわずかに、傾ぐ。
それは攻撃の予兆ではない。
剣士としての間合いを測る動作だった。
ムラサメは直線的な斬撃だけではなく、曲線を描くような流域を持つ。
その刃が届く範囲、重心を動かす余白、次の一手を繋げる余韻——
それらが、彼女にはすでに“視えて”いた。
対する鉱獣たちもまた、慎重だった。
囲みを崩さず、呼吸を合わせ、確実に仕留めるための一手を探している。
——いや、違う。
彼らは「探っている」のではない。
狩りの段取りを「計算している」。
圧倒的な暴力ではなく、戦術によって獲物を仕留める生物。
ならば、こちらも応じるまでだ。
キャンディスは深く息を吸い、わずかに体を沈めた。
点を持ち、線を作る。
それは剣士の基本にして、彼女の持つ特異な技術——
空間を作り出し、そこへ最短でダイブする。
1匹の鉱獣が動いた。
獲物を焦らせるための布石か、それとも単なる牽制か。
だが、それと同時に——
背後からも物音がした。
キャンディスは瞬時に理解する。
ヴァンが狙われている。
彼はただの工房職人だ。
戦士ではない。
自身の隙を的確に突かれれば、ひとたまりもない。
鉱獣たちもそれを察している。
だからこそ、真正面の脅威である彼女ではなく、ヴァンへと狙いを定めたのだ。
「甘いな」
囁くような声と同時に、キャンディスは指先に魔力を込める。
詠唱すら不要。
呼吸と同じ速さで、右手から無色透明のエネルギー波が形成された。
円環がヴァンの周囲に広がり、まるで空間そのものが歪んだように揺れる。
そして——
バシュッ!!
突撃してきた鉱獣の鉤爪が、見えない壁に弾かれた。
「うわッ!」
見えない壁によって攻撃を受けずに済んだヴァンは、バランスを崩したまま床に倒れた。
それが魔法による防護壁であることを瞬時に理解したが、それどころではなかった。
剣を持つこともままならぬ緊張。
それが、頭の中に犇めいていた。
見えないシールドに弾かれた敵の一体は、怯んだ様子を見せながら後ずさる。
低い姿勢のままたじろぎ、低く唸りながら距離を取った。
思うように立ち上がれないヴァンを横目に、キャンディスは息を吐く。
戦闘の経験が豊富な彼女でも、周囲にいるこの魔獣の情報はほとんどゼロに等しい。
今までに似たタイプの魔獣と対峙したことがあったとしても、ここは未知の領域。
足場、天井、——空気感。
全ての状況を鑑みた時、地形や環境といった側面で有利に立っているのは相手の方だ。
ましてや、対峙している相手は複数。
張り巡らせる思考の中で、目まぐるしく情報が交錯する。
沈み込むような静寂がほんのわずかな「間」を生みながら、それでも、止まることができない時間があった。
そのバランスの中間を這うように、空気が《揺れ》る。
キャンディスの目の前に、鉱獣の鉤爪が迫る。
直線的な突進——しかし、それだけではない。
一歩の踏み込みにはバネのようなしなやかさがあり、その体勢から横への切り返しすら可能に思えた。
彼女は敵の構造を即座に分析する。
この生物は、強靭な後肢と発達した前肢を持つ。
つまり、跳躍力と高速移動に優れた個体。
さらに、身体の表面には鉱石のように硬質化した装甲が形成されている。
生半可な斬撃では、有効なダメージを与えられない。
攻撃の仕方を誤れば、むしろこちらが隙を晒すことにもなりかねない。
剣を振るうべきか、それとも、まだ観察を続けるべきか。
——迷いは、一瞬すら存在しなかった。
彼女には「視えている」。
敵の筋肉の動き、皮膚の密度、関節の柔軟性——
それらを、魔力の流れとして解析する眼が、視界の中に閃く。
“マナ・スキャン”に似た視野の拡張。
鉱獣の踏み込みに合わせ、キャンディスは滑るように後方へと退いた。
ステップは軽やかだった。
しかし、その一歩には、慎重な落ち着きも宿っている。
無駄に踏み込めば、他の鉱獣がいつ襲いかかるかわからない。
囲まれた状況下では、次の瞬間には別の個体が別方向から牙を剥くだろう。
そう——ここは、慎重に「間合いを測る場」だ。
鉱獣の鉤爪が虚空を裂いた。
だが、キャンディスの姿はそこにはない。
すでに一歩後方へと移動し、わずかに腰を落としながら、剣の柄を握り直していた。
刃を振るうのは、まだ早い。
獣たちがどのように動くか——剣が動ける最短の領域が整うまで、彼女は待つ。
ゴッ……ゴゴッ……
岩肌を叩く鈍い音が、洞窟の暗闇に響いた。
天井に張り付いていた鉱獣が、獲物が動いた瞬間を狙い、身を翻して落下する。
同時に——
ザシュッ!!
岩場の影に潜んでいたもう一体が、地を蹴りながら横から飛び出した。
二方向からの挟撃。
どちらも、一撃で仕留めるつもりの猛襲だ。
しかし——
キャンディスは、動じない。
視線を逸らすことなく、わずかに踵を浮かせた。
体重を完全に抜くことで、自由な軸を確保する。
天井から落ちる影、岩場から伸びる爪。
——だが、それらはまだ「届かない」。
彼女の動きは、既に敵の狙いを引きつけ、最適な間合いへと誘導するためのものだった。
「……ここだ」
囁くような声が、わずかに響く。
そして——
ピタリ。
地面に足をつけた瞬間、空気の流れが変わった。
呼吸すら聞こえない静寂の中、時間と空間の接触点を探るように、重心を落とす。
魔獣たちは全身のバネを解放し、筋肉を収縮させ、直線的な衝撃で彼女を粉砕しようとする。
だが、彼女の視界には、すでに「間合い」が映っていた。
——天井の個体が落ちる速度。
——地を這う個体の跳躍角度。
それらが交差する一点。
キャンディスは、そこに身を滑り込ませる。
静かに、無駄なく、最短の動線で。
それはまるで、獲物を狩る獣のような動き。
違うのは、彼女の刃は一閃で戦況を変えるということ——
———シュ…ッ
青白い光が閃いた。
《ムラサメ》の刃が、疾風のように空を裂く。
天井から落ちてきた個体の首元をかすめた刃が、そのまま岩場から跳び出した個体の脚をも断つ。
重力の変遷を突くように、サークル状に流れた刃の軌道が、2匹の距離の「中」に交わるように泳いだ。
二体の鉱獣が、ほぼ同時に地に崩れ落ちる。
動きを止められた獣たちの呻き声が洞窟内に響く中——
キャンディスはすでに次の動きを捉えていた。
息一つ乱さず、沈んだ体勢のまま、再び剣の柄に指をかける。
冷たく、静かな空気感。
ヴァンの視界は、ゆっくりと揺れていた。
——いや、違う。
揺れているのは、自分の鼓動だ。
目の前では、キャンディスが流れるように《ムラサメ》を操り、獣たちの猛襲を捌いていた。
自らの背丈ほどもある長刀を、まるで手足の延長のように扱う。
それは単なる技術の問題ではなかった。
剣が、生きている。
ヴァンは圧倒されながらも、その事実を理解し始めていた。
工房で初めて彼女と出会ったとき、《ムラサメ》の持ち主がどんな剣士であるかは察していた。
バッシュを使いこなす者——それはつまり、魔導核と魔導回路を自在に扱い、武器そのものを「意志あるもの」として共に戦える者。
だが、今、目の前で繰り広げられる戦闘は、その想像を遥かに超えていた。
「……バッシュとは、何なのか」
ヴァンの脳裏に、リタの言葉が蘇る。
『剣とは何か。 それは、人を傷つけるためのものでも、強さを誇示するためのものでもない。 使い手によって、それは悪にもなれば、善にもなる。』
鍛冶職人にとって最も大切なのは、武器に命を吹き込むということ。
ただの鉄の塊を「魂」を持つ存在へと昇華させる。
それが、本当の鍛冶の仕事なのだと。
そして今、ヴァンの目の前で舞う《ムラサメ》は、まさにそれだった。
——リタが鍛え上げた、バッシュの「刃」。
それは、まるで一つの生命体のように、キャンディスの意思と共に動いていた。
まるで、獣たちと「対話」するかのように、間合いを測り、呼吸を合わせ、最小限の動きで致命の一撃を与える。
ヴァンはその光景に、ただ立ち尽くすしかなかった。