第175話
二人はさらに奥へと進んだ。
洞窟の中は次第に変化し、湿った土と岩の壁は、徐々に滑らかな結晶の層へと変わっていく。
足元の地面には、淡く光る魔導石の破片が散らばり、空間全体が幽玄な輝きに包まれていた。
「これは……」
ヴァンは屈んで、小さな結晶片を拾い上げた。
「マナクリスタルの断片か」
キャンディスは目を細める。
「魔導石の鉱脈に近づいている証拠だな」
洞窟の壁には、青や紫、時折金色の輝きを帯びた鉱石が埋まっていた。
それらは、地層の圧力と魔力の影響によって形成された魔導石であり、通常の鉱石とは異なり、魔素を蓄積し、一定の条件下で活性化する性質を持っている。
「魔導石がこうやって見つかるのは、地殻の動きと関係しているんだ」
キャンディスが歩きながら説明する。
「地底のマナフロー——魔力の流れが強い場所では、魔素が鉱物と融合しやすくなる。特に、地殻変動が起こる場所では、高温高圧の環境下で鉱石の結晶構造が変化し、魔導石が形成されるんだ」
「つまり、地下深くで魔力が圧縮されることで生まれるってことか」
「そういうことだ。地熱や圧力が高い場所ほど純度の高い魔導石が見つかる」
ヴァンは壁の魔導石を指でなぞる。
「ってことは、もっと奥に行けば、さらに希少な鉱石が……」
「可能性はある」
キャンディスは淡々と答えた。
歩き続けること、数時間——
洞窟の奥へ進むにつれ、天井はさらに高くなっていった。
「……これは、すごいな」
ヴァンは息を呑んだ。
そこはまるで地底の大聖堂のようだった。
高さ数百メートルにも及ぶ天井からは、無数の枝が降りてきている。
壁にも巨大な根が絡みつき、岩盤の隙間から滲み出た地下水が、小さな滝となって流れ落ちていた。
空間の中央には、黒曜石のような巨大な結晶の塊が鎮座していた。
それはまるで、暗闇の中に沈む星のように、深淵の輝きをたたえていた。
「……あれが、鉱脈か?」
ヴァンが声をひそめる。
「いや、まだ違うな」
キャンディスが周囲を見渡す。
その周囲には、様々な魔導石が点在していた。
紫紺の輝きを持つナイトクリスタル、
赤く脈打つフレイムストーン、
透明な青光を放つエーテルクォーツ——
どれも魔導士たちが喉から手が出るほど欲しがる希少鉱石ばかりだった。
「こりゃあ、すごい……」
ヴァンは思わずつぶやいた。
「深淵晶石は……?」
「ここにはないな」
キャンディスが冷静に言う。
「もっと奥だ。この空間は魔導石の豊富なエリアだが、本命はさらに深い場所にあるはずだ」
2人は、黒曜石の塊を越え、さらに奥へと進むことを決めた。
足元を照らす魔導灯の淡い光が、洞窟の奥へと伸びる根の影を揺らした。
壁面には大小の魔導鉱石が埋め込まれ、時折、青白い輝きを放っている。
ヴァンとキャンディスは、慎重に足を運びながら歩き続けた。
時間の感覚が曖昧になっていく中、壁や天井に埋もれた魔導石の種類を観察する。
「こっちはエーテル鉱石だな。魔力伝導率は高いが、純度はそこまででもない」
ヴァンが指で壁の鉱石をこすりながら言った。
「それでも十分価値はある。魔導炉の触媒として使えるし、精錬すれば上質な魔導回路に加工できる。……だが、深淵晶石とは比べものにならないな」
キャンディスが応じる。
「問題は、その深淵晶石がどこにあるか、だよな…」
ヴァンとキャンディスがさらに奥へと進むにつれ、洞窟の様相が再び変化していった。
壁面には魔導石の密度が増し、青白いエーテル鉱石や、紫紺のナイトクリスタルが不規則に埋め込まれている。
それらは微かに光を放ち、足元を照らしていた。
「……空気が変わったな」
ヴァンが周囲を見回しながら言った。
「ああ。魔力濃度が急激に上昇している。深淵晶石の影響か、それとも……」
キャンディスの声が慎重さを増す。
そして、進んだ先で二人は目を見開いた。
目の前に広がっていたのは、歪でありながら、地面が滑落したように拓けた地下空間だった。
複雑な形状の岩場が、ヒダのように入り組んでいる。
天井は一層深く窪んでおり、長い年月をかけて形成されているかのようだった。
天井や壁に網のように絡みついている根の一部は、クラゲの体内のように透き通っていた。
その内部を魔素が流れているのがはっきりと見えた。
まるで、巨大な血管が脈動しているかのようだった。
「これは……世界樹の魔素循環が、そのまま可視化されているってことか?」
ヴァンが驚き混じりに言う。
「世界樹の根が魔力を集積し、再分配する重要なポイント……いわば、“魔力の供給部“みたいなものだな」
そして、その中心——
広大な地下空間の底には、淡く光る巨大な泉が広がっていた。
その水面はまるで鏡のように滑らかで、魔力の流れと共鳴しているのか、淡い青と紫の光がゆらめいている。
「魔素泉……!」
キャンディスが息をのむ。
魔素泉。
それは極めて稀な環境でのみ発生する現象であり、大地に蓄積された魔力が液体化し、泉となったものだ。
この泉があるということは、近くに魔素の強い影響を受けた鉱石が眠っているはず。
ヴァンとキャンディスは、慎重に足を進めた。
周囲を覆う静寂が、逆にこの場所の異質さを際立たせている。
空気は冷たく、湿っていた。
しかし、それはただの冷気ではない——魔力そのものが凝縮し、微細な粒子となって漂っているのだ。
息を吸うたびに、肺の奥へと澄んだ魔素が浸透していくような感覚がある。
「……まるで空気が生きているようだな」
ヴァンが囁く。
「これほど濃密な魔力環境は、地上ではまず見られぬもの……まるで異界のような気配だ」
キャンディスの声には、いつになく警戒の色が滲んでいた。
洞窟の天井ははるか彼方にあり、そこから垂れ下がる世界樹の根が、ゆっくりと脈動している。
根の内部を流れる魔素が、まるで生命の息吹のように光を帯びていた。
それに呼応するかのように、魔素泉の水面も淡く輝く。
ヴァンは慎重に膝をつき、泉の水を指先ですくった。
透明な液体が、指の上で淡い青紫の光を放ちながら、じわりと蒸発する。
「すごい……ただの水じゃないな。魔力が高濃度すぎて、揮発している」
「魔素泉とは、すなわちこの大地が生み出した“純粋な魔力の結晶”……泉の底には、それをさらに凝縮した存在が眠っているはずだ」
キャンディスは泉の水面をじっと見つめながら言った。
泉の深さは不明だった。
しかし、よく目を凝らせば、底の方にぼんやりと光る結晶のようなものが沈んでいるのが分かる。
「……あれか?」
ヴァンが目を細めた。
「可能性は高い。だが、油断は禁物だ——ここはまさしく“理”の外にある領域。何が潜んでいるかは分からん」
キャンディスがゆっくりと剣の柄に手を添えた。
そして——
ザパァァァン……
静寂を裂くように、泉の奥で水音がした。
「……!」
二人が即座に身構える。
水面にさざ波が広がり、何かが蠢く気配がある。
だが、それだけではない——
洞窟の奥、泉の周囲に点在する岩場の影。
そこから、無数の赤い光が、じっとこちらを見つめていた。
カツン……カツン……
湿った地面を爪で引っ掻くような音が響く。
それは周囲の空間を覆うように低く、耳元をくすぐるような不気味さを伴っていた。
視界を凝らす。
周囲を見渡す。
何かが近づいてくる《気配》はあった。
ただし、それはしっとりとした”質感“を帯びながらも、砂の渇きのようなざらつきがあった。
深く、それでいて”近い“。
暗く沈む込むような重力。
音。
そんな、目も眩むような“影”の中から——
巨大な異形が姿を現した。