第173話
漆黒の魔獣が疾駆した。
四肢の関節が軋み、岩壁を蹴るたびに甲殻同士が擦れ合い、不気味な悲鳴のような音を響かせる。
その巨体に似合わぬ速度で、まるで地を這う影のように2人の元へと迫った。
「——ッ!」
ヴァンは咄嗟に剣を抜こうとしたが、手が震えてうまく柄を握れない。
頭の中が白くなる。恐怖が思考を凍らせる。
——やばい…!
魔獣の四つの赤い眼がギラリと光り、異様に長い前肢がしなやかに跳ね上がった。
鉤爪が地面を穿ち、ヴァンの視界が赤黒い線で染まり——
——時間が、遅くなった。
ヴァンの体が勝手に後ろへと倒れていく。
まるで引力が消えたかのように、ゆっくりと重力に引かれ、視界が傾いた。
爪と地面が触れる音が、耳のそばをかすめる。
鼻先を通る冷たい風。
鋭い刃のような尖った感触。
死の予兆が、肌を刺すようだった。
——終わる。
そう直感してしまう感情のそばで、
「……落ち着け、ヴァン」
静かな声が、時間を引き戻した。
ヴァンの目の前。
キャンディスが、まだ剣を抜いていない。
ただ、左手を軽く鞘に添えたまま、呼吸だけが深く、整っていた。
魔獣が迫るというのに、一切の焦りがない。
岩肌に光る世界樹の魔素が、彼女の茜色の髪を淡く照らしていた。
瞳がゆっくりと細められる。
その動作のすべてが、異質なほどに静かで、洗練されていた。
戦いの空間を、掌握している。
魔獣と剣士、その“間合い”。
ザッ……
キャンディスが半歩、斜めにずれる。
予備動作はなかった。
ステップを踏む重心の移動すら見せず、瞬間的に影が”動く“。
その延長線上で、数メートルもの距離を“飛んだ”。
それが「飛んだ」という表現で合っているかどうかはさておき、体ごと空間を移動したのだ。
まるで影そのものが光の向きによって場所を変えたかのように、体が消える。
靄が引き延ばされたように揺らぐ線。
そして、時間。
瞬時に真横へと移動したキャンディスの動きは、目を追えるものではなかった。
一気に距離を詰めようとしていた魔獣の足が止まり、
——狙いが変わる。
アビサル・デバウアの前肢が、一瞬、迷うように揺れた。
獲物の挙動が通常の戦闘行動と違う。
それを探るかのように、鋭い鉤爪がゆっくりと蠢く。
——キャンディスは、それを見逃さない。
視線が研ぎ澄まされる。
空間を測る。
魔獣の動きの起点を分析する。
この洞窟には、魔力が脈打つ根が張り巡らされている。
その影響で地面が平行でない部分があり、血管のように浮き出ている箇所がいくつもある。
凹凸が細かく、魔獣の脚がわずかに沈み込む。
天井の根が垂れ下がっていた。
一部の空間は通り抜けが難しく、狭い。
お互い、自由に動ける範囲が限られていた。
(……そこだ)
キャンディスの瞳が、僅かに鋭くなる。
アビサル・デバウアが動いた。
——途端、立体的な空間の奥行きを突くように、「音」が消える。
巨体が滑るように横へと回り込み、間合いを作り出そうと動いていた。
漆黒の甲羅が、屈折した光の向きを変える。
素早い機動を生かした、方向転換。
キャンディスの背後を取ろうとする。
長い前肢が岩肌を突き、天井へ跳躍する。
その巨躯をものともせず、天井へと張り付きながら移動していた。
真上から、鋭い顎を剥き出しにして襲いかかる。
しかし——
キャンディスは、そこにいなかった。
魔獣の狙いを読んだ彼女は、すでに半歩分重心をずらし、刹那の隙間をすり抜けていた。
ほんの数ミリの差。
だが、それだけで、魔獣の鉤爪は虚空を裂いた。
天井を蹴った魔獣が着地する——その刹那。
キャンディスの足が、音もなく地を蹴る。
弧を描くような無駄のない動きで、魔獣の真正面から消え——
視界の死角に回り込んだ。
アビサル・デバウアの四つの眼が、一瞬だけ、彼女を見失う。
——好機。
魔獣の関節が軋む。
咄嗟に防御姿勢を取ろうとする。
——遅い。
キャンディスが、静かに言った。
彼女の右手が、初めて動く。
鞘の中の刀が、数ミリだけ浮かぶ。
風が止まる。
空気が、張り詰める。
そして——
閃光が走った。
⸻
一閃。
そして沈黙。
金属音が響いた。
ヴァンが目を開けた時には——
魔獣の動きが、止まっていた。
アビサル・デバウアの甲殻に、一条の細い傷が刻まれていた。
血は流れていない。
だが、その切り口から、魔素が霧のように滲み出していた。
(……やった?)
ヴァンがそう思った刹那——
魔獣が、後退した。
逃げた。
ヴァンは息をのむ。
あの怪物が、キャンディスと目を合わせることなく、静かに後ずさったのだ。
まるで——
「この相手は危険だ」と、悟ったかのように。
キャンディスは、淡々と刀を鞘へと納めた。
「……ヴァン、立てるか?」
静かな声音に、ヴァンは小さく頷く。
だが、足が震えて、すぐには動けなかった。
キャンディスは、魔獣の去った方を見つめながら、低く呟いた。
「……あれはまだ死んではいないが、もう襲っては来ないだろう」
「なんで……わかるんだ?」
ヴァンは喉の奥が張り付くような感覚を覚えながら、かすれた声で尋ねた。
「恐怖は、あらゆる生物に共通するものだ」
その言葉は、感情のこもらない静かな響きを持っていた。
「魔獣といえど、戦いの中で『死』を察したのなら、それ以上無謀な戦いは挑まない。あれは、自分より強い存在を認識した。それだけだ」
ヴァンはゴクリと喉を鳴らした。
「あんなのが、そこらじゅうにいるのか……?」
震えながら呟く。
キャンディスは表情を変えず、淡々と応じる。
「私から離れなければ、何も問題はない」
——まるで、当たり前のことを言うかのように。
ヴァンは言葉を失った。
とんでもない人だ。
彼女は、あんな怪物を前にしてなお、一歩も引かなかった。
そのうえ、恐怖すら持たずに、冷静に行動できる。
同じ人間のはずなのに——
「……はぁ……」
ヴァンは大きく息を吐き、ようやく体を起こした。
洞窟内には、まだ世界樹の魔素の淡い光が流れていた。
根の表面には魔力が脈打ち、まるで静脈のように明滅を繰り返している。
足元の地面は、岩と粘土質が混ざった独特の感触だった。
場所によっては滑りやすく、また、魔素の影響で変質した鉱石の結晶が点在している。
天井を見上げると、絡み合った世界樹の根が幾重にも伸びており、一部は垂れ下がるようにして洞窟内を覆っていた。
まるで、洞窟そのものが世界樹の体内に取り込まれているかのようだ。
壁面には、魔素を帯びた苔が張り付き、青緑色の輝きを放っている。
光の反射によって、岩肌の一部は翡翠のような艶を帯び、不規則な影を作り出していた。
——この空間は、生きている。
ヴァンはそう直感した。
「……行くぞ」
キャンディスの声に、ヴァンは慌てて後を追った。
足元に気をつけながら、二人は洞窟の奥へと歩を進める。
「……なあ」
ヴァンは、歩きながら口を開いた。
「そもそも、『魔獣』って、どこから生まれてるんだ? ただの生き物と何が違うんだ?」
ヴァンにとって、「魔獣」というものは幼い頃から当たり前のように聞かされてきた存在だった。
だが、こうして実際に遭遇し、その異質さを目の当たりにすると、自然と疑問が湧いてくる。
「……」
キャンディスはしばらく沈黙したあと、静かに語り始めた——。