第172話
「降りるぞ!」
キャンディスの号令とともに、アグニの翼が大きく折りたたまれた。
ヴァンは強くしがみつく間もなく、——引っ張られる。
重力が一気に身体を引きずり落とす感覚。
ブワッと前髪が浮き上がり、「空」が傾く。
風が激しく耳元を吹き抜け、視界のすべてが急降下する。
眼前には、壁のようにそびえ立つ断崖。
幾重にも重なった岩の層が、途方もない時の流れを物語っていた。
最上部の岩肌は淡い灰色に覆われていた。
風化によって丸みを帯び、長い年月をかけて削られた滑らかな表面を見せている。
だが、落下するにつれ、その質感は変わり始めた。
灰色は黄褐色へと変わり、さらに下へ行くと赤茶けた岩盤が剥き出しになっている。
無数の亀裂が走り、層ごとに異なる鉱物の輝きが微かに反射する。
アグニが速度を落とし、風に乗るように緩やかに旋回する。
空気が、変わる——。
高空の澄んだ冷気から、次第に湿り気を帯びた空気へと変化していくのを、ヴァンは肌で感じた。
どこか鉄のような匂いが混じり、峡谷の底からは得体の知れない蒸気がわずかに立ち上っている。
だが、ヴァンの意識を捉えたのは、断崖の壁面でも、峡谷の空気でもなかった。
視界の先に掠めたもの。
それは——“世界樹の根”だった。
突如眼前に現れた“それ”は、まるで巨大な蛇が絡み合いながら、時を超えて大地に喰い込んでいるかのようだった。
断崖の壁面に沿ってうねるように這い、ところどころ岩盤を突き破りながら、果てしなく続いている。
根の表皮は岩のように固く、しかしその奥に脈打つような生命の気配があった。
近づくにつれ、根の表面が淡く輝き始める。
流れる光——まるで樹液そのものが魔力を帯び、静かに脈動しているようだった。
「でかッ……!」
ヴァンは圧倒され、思わず息をのんだ。
一本の根だけで、すでに街の城壁ほどの大きさがある。
それが幾重にも重なり合い、地の奥深くへと延びていたのだ。
根の表面には、古の言葉が刻まれているかのような紋様が浮かび、微かに光を放っていた。
それは静かに呼吸するかのように、鼓動を感じさせるリズムで明滅している。
「世界樹は……生きてるんだ……」
ヴァンは理解した。
これは単なる植物ではない。
これは、この世界を支える生命そのもの。
アグニがさらに降下する。
峡谷にせり立つ断崖と巨大な根。
大地そのものを飲み込むかのような深い影が、ヴァンたちを包み込んでいった。
やがて、アグニは滑るように下降し、崖の下へと降り立った。
ヴァンは震える脚で地に足をつける。
そこは、別世界だった。
峡谷の底は、湿った苔と奇妙な植物が広がる異質な地だった。
大地には世界樹の根が絡みつき、そこから生える小さな樹々は、まるで世界樹の恩恵を受けるかのように青白い光を帯びている。
風はほとんどなく、静寂が支配していた。
だが、その静けさの中に、確かに感じるものがあった。
——何かが、ここにいる。
ヴァンはごくりと唾を飲み込んだ。
この場所は、ただの峡谷の底ではない。
この根があるということは、ここは世界樹の“魔力“の影響が強い場所なのかもしれない。
「……先へ進もう」
キャンディスが低く言う。
ヴァンは息を整え、ゆっくりと歩き出した。
ヴァンはそびえ立つ絶壁を仰ぎ見た。
上空から降り立った時は気づかなかったが、ここから見上げる断崖はまるで天を裂く巨大な壁のようだった。
何千年、いや何万年もの間、風と地殻変動によって刻まれたその岩肌は、壮絶な歴史を秘めているように思える。
——太陽の光は、ほとんど届かない。
谷底には常に薄暗い影が落ち、風がわずかに岩の隙間を這うように吹き抜けるだけだった。
息をするたびに、湿った土と苔の匂いが鼻をくすぐる。
「……すごい場所だな……」
ヴァンは思わず呟くが、その背後では、キャンディスが既に歩き出していた。
「アグニ、お前はここで待機しろ」
キャンディスは振り返ることなく命じる。
アグニは低く鳴き、翼を畳んで岩の上に身を伏せた。
その赤い瞳が、警戒するように周囲を見回している。
だが、キャンディスは気にする様子もなく、淡々と歩を進める。
彼女の手には、一冊の分厚い書物があった。
「……あった」
キャンディスは文献のページをめくり、しばらく記述を読んだ後、周囲を見渡した。
「深淵晶石——。極めて特異な鉱石で、地下深くに潜む鉱脈にあり、魔力を吸収し、長い年月をかけて結晶化する……。通常の地層には存在せず、世界樹の根が触れた岩盤の内部にのみ生成される」
「ってことは……この根のどこかに?」
「いや、根に直接できるわけじゃない。根の影響で地殻が変質し、岩盤の内部に生成される。場所は……」
キャンディスは足元の岩を見つめると、周囲の地形と文献の記述を慎重に照らし合わせた。
「……あそこだ」
彼女が指差したのは、断崖の壁面にぽっかりと開いた洞穴だった。
入口は狭く、奥の様子は見えない。
だが、根の一部がその内部に絡みつくように伸びているのがわかる。
「ここなら、深淵晶石がある可能性は高い」
ヴァンはごくりと唾を飲み込んだ。
世界樹の根が作り出した天然の洞窟——そこに、未知の鉱石が眠っている。
それだけで十分に神秘的だが、同時に何か得体の知れない気配を感じるのも事実だった。
「行くぞ」
キャンディスが先に足を踏み入れる。
ヴァンも覚悟を決め、後を追った。
通常なら、こんな場所の奥深くまで進めば光は完全に遮られ、闇に閉ざされるはずだった。
だが、洞窟の内部は優しいエメラルド色の光に包まれていた。
それは、世界樹の根の表面に灯る魔素の影響だった。
根の表皮には、まるで静脈のように魔力が脈打ち、淡い光が流れるように明滅している。
それが天井や壁を照らし、幻想的な雰囲気を生み出していた。
「すげぇ……」
ヴァンは息をのむ。
洞窟の岩肌には、根の魔力が染み込んだように緑がかった模様が浮かび、時折、まるで心臓の鼓動のように光の明滅が変化する。
湿った空気の中に、微かな魔力の粒子が舞い、皮膚に触れると、まるで温かい静電気のような感触が走った。
ヴァンは、ここが単なる岩の洞窟ではなく、「生きている場所」なのだと直感した。
「慎重になれ。何かいる」
キャンディスが低く呟く。
ヴァンは緊張し、剣の柄に手をかけた。
皮膚を灼くような悪寒が、足元から迫ってきた。
洞窟の奥から、何かが動いた。
ヴァンの耳に、不気味な軋むような音が届く。
それは、まるで岩と岩が擦れるような、硬質な音。
そして、光の届かない暗闇の中から——
赤い光が浮かび上がった。
「——ッ!」
ヴァンは反射的に身を引く。
それは目だった。
洞窟の暗闇の中、巨大な影が動く。
闇の奥から飛び出したのは——
漆黒の甲殻に覆われた、巨大な魔獣だった。
四つの眼がギラリと光る。
甲殻の間から、硬質な鉤爪が覗く。
異様に長い前肢が、地面を引っかくたびに、鋭い音を響かせた。
それはまるで、巨大な蜘蛛とカマキリを合わせたような異形の生物だった。
「——魔喰蟲か……」
キャンディスが静かに呟く。
「深淵晶石が生まれる場所には、こういう魔物が集まりやすい……」
「……来るぞ!」
ヴァンが構えた瞬間、魔物が牙を剥いた。
地響きを立てながら、漆黒の怪物が襲いかかってきた——!




