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第171話



アグニは、大きな翼をゆったりと広げた。


最初の急上昇とは違い、今度は静かに、空気の流れに乗るように滑空する。



——風が、心地よい。



ヴァンはふと顔を上げた。


眼下には、どこまでも広がる大地。


草原、森、丘陵、川。


それらが織りなす緑と青のグラデーションが、風の動きとともに流れていく。



遠くに見えるロストンの街は、もう指先ほどの大きさだった。


さらに遠くには、山脈が壁のようにそびえ、その麓には巨大な湖が広がっている。


太陽の光が水面を照らし、黄金色の輝きを放っていた。


「しっかり捕まっとけよ!」


前方からキャンディスの声がした。


ヴァンは慌てて彼女の腰に腕を回す。


「わ、わかってる……!」


吹き抜ける風が頬を撫でる。


目の前には、どこまでも続く青い空。



流れる雲。



まるで時間の流れが緩やかになったかのように、世界は静かだった。


ヴァンは、言葉を失ったまま、その壮大な景色に見入っていた。


「……キャンディス」


思わず口を開く。


「ん?」


「南の大陸……パンデモニウムって、どんな場所だったんだ?」


一瞬、キャンディスの背中が僅かにこわばった気がした。


そして、低い声で答える。


「……死後の世界かと見まごうほどだったよ」


ヴァンは息をのんだ。


キャンディスの声は、普段よりも少しだけ冷たかった。


その言葉の裏に、どんな景色があったのか——想像するだけで、背筋が寒くなるようだった。



「……著名な歴史学者の記した文献によればな」


キャンディスは風を受けながら、ゆっくりと口を開いた。


「かつてこの世界には、人の手が加わらぬ、純粋な原生の時代があったらしい。大地は荒々しく、空は果てしなく広く、そして——その空を制するのは、今よりもはるかに巨大な龍たちだったという」


ヴァンは耳を傾ける。


眼下を流れる景色。


緑の草原と、遥かに広がる森林。


そして、遠くに連なる山脈の影。


彼の目には、そこにかつての古代世界が重なった。


「……私が見たのは、まさにその景色だった」


キャンディスの声が、微かに低くなる。


「パンデモニウムの一角には、未だにその原生の姿を留めた場所があった。森は鬱蒼と茂り、太陽の光さえも遮るほどだった。大地を踏みしめれば、ぬかるみの下から泡が立ち、遥か昔の地層がむき出しになっている場所もあった」


ヴァンは息をのむ。


「そこには——信じられないような生物たちがいた」


「生物?」


「人よりもはるかに大きく、獣とは異なる骨格を持つものたち。分厚い皮膚に覆われ、長い首を持つものもいれば、鉤爪と牙を持ち、大地を裂くように走るものもいた。奴らの咆哮は雷鳴のように響き、翼を持つものは、天を裂くように舞い上がる」


それは、まるで失われた恐竜時代の光景のようだった。


ヴァンは、キャンディスが見たその景色を想像する。


樹々の間を巨大な影が揺れ、空には大翼を広げた龍が舞う。


地面には、岩のように重厚な皮膚を持つ生物がのし歩き、その横を俊敏な肉食獣が駆け抜ける。


湿った空気と、遠くで響く咆哮。


それは、まさに太古の世界——人の時代が始まる遥か前の、原始の地だったのではないか。


「——人は、竜の翼を欲した」


ふと、キャンディスが呟く。


「空を飛び、より広い世界へと飛び立つための力を欲したんだ」


彼女の言葉とともに、アグニの飛ぶ空から見える景色が流れていく。



眼下には、どこまでも広がる大地。


街は点のように小さく、人々の営みは、まるでこの壮大な世界の一部にすぎないように見えた。


しかし、その点が集まり、人は歴史を作り、文明を築いてきた。


かつて、龍とともに空を舞いたいと願った人々は、今、この世界を翔る技術を持ち始めている。


「古代の世界がどうだったかは、正直わからないが……」


キャンディスは遠くを見つめる。


「……この世界には、かつて人と竜が同じ時間を過ごし、ともに歩んでいた時代があったそうだ」


ヴァンは、キャンディスの横顔を見た。


その表情には、どこか遠い記憶を思い出すような、懐かしさと憂いが滲んでいた。




アグニの翼が大気を切り裂くたび、空は揺らぎ、風はうねりながら流れた。


飛行の振動がヴァンの体に響き、視界の先に広がる大地が次第に変化していくのがわかる。


突き抜けるような飛翔が続く。


雲間をすり抜け、地平線の先へと進むうちに、徐々に眼下の景色が変わっていった。



地表そのものが波打っていた。


“そこ”は、世界が露出したように大地が裂け、深淵へと続く巨大な傷跡のようだった。



大地は、まるで神々の戦いの名残のように深く抉れ、広大な裂け目が地表を貫いていた。


そこに広がるのは、この地の名を冠する壮大なる大峡谷——「グレートウォール大峡谷」。


果てしなく続く大地の傷跡は、長さ120km、幅30kmにも及び、まるで世界を二分するかのように口を開けている。


谷の端から端を見渡すことすら困難なその規模は、まさに天地を分かつ断層と呼ぶにふさわしかった。


峡谷の上層部には、風化によって削られた岩壁が幾重にも重なり、無数の崩落跡が荒涼とした大地を刻んでいる。


乾いた風が吹き抜け、風鳴りの草が奏でる低い音が、どこか遠くから響いてきた。


峡谷の中腹には、浸食によって穿たれた巨大な洞窟群が無数に口を開け、その隙間から黒々とした影が蠢いていた。


影はやがて動き、風に乗るように舞い上がる。


巨大な飛行魔獣——グライドワイバーンだ。


鋭い翼を広げたそれらは、悠然と峡谷の気流を捉えながら滑空していた。



さらに高度を落とすと、峡谷の底が視界に入った。


上層とは打って変わって、谷底には濃密な魔霧が漂い、蒼く発光する泉が点々と輝いている。


そこには、原始の森を思わせる光景が広がっていた。


巨大なシダ類が絡み合い、発光するコケが地表を覆い、地下水脈から湧き出した泉が蒸気を上げながら流れ込んでいる。


生温かい湿った空気が谷底を覆い、異世界のような雰囲気を醸し出していた。



やがて、ヴァンの視界の先に、ひときわ険しい断崖が見えてきた。


「ガルマグの断崖」——グレートウォール大峡谷の中でも、最も深く、最も神秘的な領域。




——壮大なる断崖の景観



まず目に飛び込んできたのは、延々と続く巨大な岩壁だった。


高さ二千メートルを超えるその断崖は、幾重にも積み重なった地層が刻まれた重厚な壁を成し、悠久の時の流れを物語るかのように立ちはだかっている。


その表面は、かつての地殻変動による歪んだ波紋のような模様を描き、風化と崩落を繰り返しながらも、なお圧倒的な存在感を誇示していた。


上空から見下ろすその景色は、まるで地球そのものが口を開け、別の世界へと通じる深淵を見せつけているかのようだった。


峡谷の奥深くには、影が落ち、陽光さえも届かぬ闇の底が広がっている。


しかし、その漆黒の中に目を凝らすと、確かに何かが見えた。


「……あれは……?」


ヴァンは目を見開いた。


峡谷の内部、断崖の壁面から突き出しているもの——それは、単なる岩ではなかった。


木の根だった。


——いや、正確には、木の根のように見える、超巨大な何かだった。


その表皮は、古の時を経てなお、神秘的な輝きを宿していた。


うねるように絡み合いながら、断崖の奥深くへと伸びていくその根の一本一本は、まるで大地を貫く巨大な竜脈のようであり、まるでこの峡谷自体が、何か遠い昔から続く「生きた存在」の一部であるかのように思えた。


根の表面には、緑色の光が脈打つように流れていた。


それは魔力の奔流だった。


ただの木ではない。

ただの根ではない。

——これは、世界樹の一部なのだ。


「……信じられない……本当に世界樹が、こんなところに……」


ヴァンの声は、風にかき消されそうなほど小さかった。


しかし、その驚きは、目の前の光景がいかに規格外のものかを物語っていた。


「ここにあるのは、ほんの一部だ」


キャンディスの声が、冷静に響く。


「世界樹の本体は、中央大陸の北西に存在している。その根は、大陸中に広がっているんだ。そしてこのカルマグの断崖は、地殻変動によって、その“隠された一部”が露出した場所……」


そう語るキャンディスの表情は、どこか神秘に魅入られた者のようだった。


ヴァンはもう一度、眼下の世界を見下ろした。


ただの大峡谷ではない。


これは、世界そのものが秘めていた「真実の断片」なのだ。


そして、ヴァンは悟った。


——この世界は、想像以上に広く、深く、そして神秘に満ちている。


アグニはゆっくりと旋回し、断崖の上空を滑空する。


ヴァンの心は、ただ圧倒されるばかりだった。


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