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第170話



森の中は、柔らかな緑の光に包まれていた。


木々の枝葉が朝の光を細かく砕き、無数の光の粒となって降り注ぐ。


空気はしっとりと湿り、土と草の芳香が混じり合っている。


鳥のさえずりが心地よく響き、時折、木々の合間を縫うように小さな動物たちが走り抜けるのが見えた。


葉の間をすり抜ける風が木立を揺らし、淡い緑の影が地面に揺蕩う。



森の奥へ進むにつれ、木々は高くなり、幹は太く、根は地を這うように広がっていた。


湿った苔が岩を覆い、小さな花々が色とりどりに咲いている。


ヴァンは歩きながら思わず息を呑んだ。


「……ここ、すごく静かだな」


「森は生きている。目立たないが、絶えず動いているんだ」


キャンディスの言葉に耳を傾けると、確かに聞こえる——

葉擦れの音、遠くで滴る水の音、風に乗って運ばれる獣の気配——


自然の中に溶け込むような静寂が、心を落ち着かせる。



しばらく森を進むと、木々が途切れ、ぽっかりと開けた空間に出た。


そこはまるで、森が意図的にその場所だけを避けて育ったかのような広場だった。


足元には黒々とした岩盤が露出し、ところどころに焦げた跡が残っている。


そして——


ヴァンの目が、一瞬でその存在を捉えた。



「……っ!」



言葉を失うほどの巨躯。


森の中でただひとり、堂々と翼を休める巨大竜。



黒と赤の鱗はまるで大地そのもののように荒々しく、光を受けると鈍い輝きを放っている。


その体は異常なほどに分厚く、どこか岩石じみていた。


まるで火山の塊がそのまま生き物になったかのような、圧倒的な存在感——


頭部から生えた二本の角は、まるで溶岩のように赤熱していた。


そこにまとわりつく炎は絶えず揺らめき、わずかに周囲の空気を歪ませている。


そして何より——



その尾。



ゆっくりと動くたび、赤々と燃え盛る炎が撒き散らされ、熱の波が周囲に広がる。


ヴァンの肌にも、その熱がじわりと届いてきた。


「こ、これが……」


あまりの威圧感に、ヴァンは思わず後ずさった。


目の前の存在は、まさしく災厄の象徴——


神話に登場するような、天変地異そのものの化身だった。



しかし——


「そんなに怯えるな。アグニは、おとなしい」


キャンディスの落ち着いた声が響いた。


ヴァンは改めてアグニを見た。


その目——


爛々と燃え盛るような視線を想像していたが、そこにあったのは意外なほど静かで、落ち着いた輝きだった。


鋭さはあるものの、敵意はない。


むしろ、ゆったりとした安堵のようなものさえ感じられる。


「……本当に?」


「躾けてあるからな」


キャンディスは平然とアグニへと歩み寄ると、


その巨大な顎の下に手を伸ばした。


「ほら、いい子だ」


信じられないことに、アグニはその仕草を受け入れ、軽く目を細めた。


ヴァンは目の前の光景に言葉を失った。


——燃え盛る災厄の獣が、まるで従順な犬のように振る舞っている。


「さて、行くぞ」


キャンディスが振り返る。


「……どこに?」


「断崖へ」


「アグニに乗って、ってことか!?」


「そういうことだ」


そう言って、キャンディスは悠然とアグニの背に手をかけた。


ヴァンは改めてその巨体を見上げ、喉を鳴らした。


(本当に乗るのか、これに……!?)


しかし、彼女はまったくためらいを見せない。


「お前も乗るんだぞ、ヴァン」


「えっ」


「怖いなら置いていくが?」


「……いや、乗る!」


ヴァンは震える手を伸ばし、アグニの背へとよじ登ろうとした——




ヴァンは巨大な竜の背を見上げ、唖然とした。


「……でかすぎるだろ、これ」


アグニは静かに佇んでいるものの、その体躯は圧倒的だった。


その背はまるで険しい山の崖のように隆起し、分厚い筋肉の下に強靭な骨格が埋まっているのが見て取れる。


鱗は黒と赤の混ざり合った複雑な色合いをしており、光の加減で異なる表情を見せる。


黒曜石のような硬質な輝きと、溶岩の名残を感じさせる赤熱した部分が混在し、所々がひび割れたような模様を描いていた。


近くで見ると、鱗の表面には無数の細かい溝が走っており、長い年月の風化を思わせる。


触れてみると岩のように固い部分と、滑らかでしっとりとした質感の部分があることに気づく。


その鱗の隙間からはわずかに熱が発せられ、じんわりと掌が温められるような感覚がした。


「ヴァン、早く乗れ」


キャンディスの声にハッと我に返る。


彼女はヴァンの目の前で、信じられないほど軽やかに飛び上がった。


まるで風に舞う羽のように、一度の跳躍でアグニの背へと飛び乗る。


「は……?」


ヴァンは絶句した。


彼女の動きは、異常なほど洗練されていた。


身体能力が違いすぎる。


「おいおい、冗談だろ……?」


「冗談じゃない。お前も乗れ」


キャンディスは手を伸ばし、ヴァンに向かって催促する。


ヴァンは渋々、アグニの鱗に手をかけた。


「くっ……!」


岩壁をよじ登るような感覚だった。


鱗と鱗の間に足を引っ掛けながら、慎重に登る。


鱗の表面はざらついているものの、思ったよりも滑らかで、指先に微かな温もりが伝わってくる。


(すげぇ……生きてるんだな……)


当たり前のことなのに、そんな実感が湧く。


ただの巨大な生き物ではない。


これは歴史を超えて生き続けた、神話の存在のようなものだ。


ようやく背の上に辿り着いた時、ヴァンは大きく息を吐いた。


「やっとか。遅いぞ」


「……無理言うなよ、普通の人間にはこれ、無茶だ」


ヴァンは改めてアグニの背を見回した。


黒と赤の鱗がうねるように広がり、その上には自然にできたような窪みがあり、ちょうど鞍のようになっていた。


ここに座れば、ある程度は安定しそうだ。


「さて、準備はいいな?」


キャンディスが前を向いたまま言う。


「……あの、俺、どこに掴まれば?」


「私にしがみつけ」


「は?」


ヴァンは一瞬、耳を疑った。


「私の腰に腕を回せばいい。飛び立ったら、掴まる場所なんてないからな」


ヴァンは思わず言葉を失った。


(ま、マジか……!?)


冷静に考えれば、それしか選択肢はない。


でも、相手は美しい年上の女性だ。


それに、自分は男だ。


恥ずかしさが先に立ち、ヴァンは躊躇した。


「……振り落とされるか不安なのか?」


キャンディスが何気なく尋ねる。


「そ、そういうわけじゃないが……」


顔が熱くなるのがわかる。


(くそっ、こんなことで意識するなんて……)


「さっさとしろ」


真顔で催促され、逃げ場を失ったヴァンは、観念して腕を回した。


ふわり——


微かに、花のような香りがした。


(いい匂い……いや、そういうの考えんな!)


肌に伝わる温もりが、思った以上に刺激的だった。


だが、そんな緊張もつかの間——



ドンッ——!!



突然、アグニの翼が動き始めた。


巨大な翼が一度広がるだけで、周囲の空気が唸りを上げる。


大地が震え、舞い上がった枯葉が渦を巻く。


ヴァンは思わず、ぎゅっとキャンディスの腰にしがみついた。


「しっかり掴まっていろ」


彼女の低い声が響く。


次の瞬間——


アグニの巨体が、地を蹴り、空へと舞い上がった。






ドン——ッ!!


アグニの翼が大きく広がった瞬間、世界が震えた。


風が荒れ狂い、地面の草を波のように揺らす。


森の木々がざわめき、枝葉が大きくしなる。


空気そのものが震えるような感覚が、ヴァンの肌を打った。


「——ッ!」


思わずキャンディスの腰にしがみつく。


巨大な翼がゆっくりと振り下ろされる。



ゴウウウウウ——ッ!!



大気がうねるような低い音を響かせ、周囲の空気が押しのけられる。


竜の力強い翼の一撃が、大地の空気をかき乱し、渦巻く風が四方に散った。


そして——


バサァァッ!!


二度目の羽ばたきとともに、アグニの巨躯が宙に浮いた。


ヴァンの体がふわりと持ち上がる。


(飛んだ……!!)


さっきまで近くにあったはずの地面が、急速に遠ざかっていく。



グンッ——!!



重力が体を押さえつけ、内臓が浮くような感覚が襲う。


視界が一気に開け、森の木々が小さくなっていく。


「う、うわあぁぁっ……!」


思わず声が漏れる。


アグニはさらに翼を広げた。


その巨大な翼は、漆黒の夜空を思わせる色をしていたが、端には赤熱した模様が走り、まるで空に溶け込む炎のようだった。


一度の羽ばたきで、数十メートルも上昇する。


地上が遠のき、世界が広がる。



ヴァンは、息をのんだ。



広い——。



こんな視界は、生まれて初めてだった。


今まで見てきた町並みも、道も、人々の暮らしも、すべてが小さな点になっていく。


ロストンの町が、箱庭のように見えた。


港に並ぶ船、街を行き交う人々、それらがまるで小さな模型のように見え、今まで自分が住んでいた世界が、ただの一つの「点」にすぎなかったことを痛感する。


「すげえ……」


風が頬を打つ。


空気が違う。


地上にいた時とはまるで異なる、澄み切った冷たい空気が流れ込み、肺を満たした。


どこまでも透き通った、静かで清らかな世界——。


下を見れば、草原がどこまでも広がっている。


一本の街道が帯のように蛇行しながら走り、旅人や馬車の姿が小さく見えた。


遠くには山脈が連なり、その峰々には雪が残っている。



そして、海——。



ロストンの港の向こうに、果てしなく広がる蒼。


太陽の光を浴びて、キラキラと輝く波。


(俺は、こんな広い世界で……ちっぽけなことばかり考えてたのか……)


胸が熱くなる。


バサァッ!!


アグニが再び翼をはためかせ、さらに高度を上げる。


ヴァンの視界は、地平線の彼方へと広がっていった。


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