第169話
早朝の冷たい空気の中、ヴァンとキャンディスは街を抜け、ランド・ステーションへと向かっていた。
ロストン港の喧騒とは対照的に、ここはまだ静かだった。舗装された石畳の道がゆるやかに続き、両脇には昨夜の潮風に晒された家々が並んでいる。木造の屋根には露が光り、店の軒先には朝市の準備をする人々の姿がちらほら見えた。
遠くから響く鐘の音が、駅の始発便の発車を告げている。
やがて視界が開け、ランド・ステーションの姿が現れた。
駅舎は重厚な石造りで、中央には大きな時計塔がそびえ立っている。朝焼けの光を浴び、赤銅色に輝くその針が、もうすぐ始まる一日の営みを告げていた。
駅前広場には旅人や商人が集い、荷馬車や人力台車が行き交っている。荷積みの作業員たちは慣れた手つきで貨物を整理し、駅舎のアーチ型の出入口をくぐって構内へと向かっていく。
「こっちだ」
キャンディスが無駄のない動きで歩を進める。彼女の背中を追いながら、ヴァンはランド・ステーションの内部へと足を踏み入れた。
駅構内は広く、吹き抜けの天井が高く伸びている。
壁面には各地への路線図が刻まれ、時折、木札に記された発着情報がカタカタと音を立てて更新される。
ホームにはすでに多くの人々が集まっていた。商隊の一行、家族連れの旅人、護衛を伴った貴族らしき一団——さまざまな人々が行き交うこの場所には、それぞれの目的と人生が交差していた。
ヴァンは視線を前に向ける。そこにいたのは、この駅の主役たち——陸翔獣だった。
彼らは巨大な鉄骨製のプラットフォームの上に並び、整然と待機していた。
鉄と革で補強された鞍と、頑丈な装具をまとい、獣たちは穏やかに息をついている。
一際目を引いたのは、彼らが持つ四肢のたくましさと、目の奥に宿る賢さだった。
彼らは単なる乗り物ではない。
人とともに旅をする、生きた相棒だ。
ヴァンは、これから向かう森を思い浮かべながら、小さく息を吐いた。
しばらく待機していると、キャンディスが先に口を開いた。
「初めてか?」
「え?」
「スレイヴォルグでの移動だ」
「ああ、乗るのは初めてだけど、訓練用のを見たことはある」
「そうか」
会話はすぐに途切れた。
キャンディスは、どこか話しづらい雰囲気をまとっている。
口数が少ないだけでなく、無駄な感情を見せないような印象だった。
それでも、ヴァンには気になっていることがあった。
「なあ、キャンディスさんは、どうして剣士になろうと思ったんだ?」
彼女の横顔がわずかに動く。
「……理由がいるか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
ヴァンは少し言葉を選ぶ。
「ただ、戦うって大変なことだろ。危険だし、命を懸けることもある。だから、何かきっかけがあったのかなって」
キャンディスは短く息をつき、遠くの空を見上げた。
「……昔、私には剣士だった兄がいた」
その一言に、ヴァンは思わず耳を傾けた。
「兄は強かった。私にとっての理想だった。でも——」
キャンディスの瞳が、少しだけ翳る。
「ある日、帰ってこなかった」
ヴァンは言葉を飲み込む。
「だから、私も剣をとった。それだけだ」
ヴァンは、その答えに重みを感じた。
単なる憧れや使命感ではない。
彼女は誰かを失い、その意味を背負って剣を握ったのだ。
静寂が続く。
ヴァンは次の質問を迷ったが、意を決して口を開いた。
「リタ姉とは、どうやって知り合ったんだ?」
今度は少しだけ、キャンディスの口元が緩んだ。
「リタには昔、剣の修理を頼んだ。それが最初だった」
「剣の修理?」
「ああ。〈ムラサメ〉を手に入れたのは、もう何年も前のことだ。でも、初めて使った時から“問題児”だった」
キャンディスは少しだけ笑う。
「ただの名剣じゃない。使いこなすにはそれ相応の技量がいる。私はまだ未熟だったし、剣に振り回されることもあった」
ヴァンは彼女の愛剣〈ムラサメ〉を思い出す。
「そんな時、リタに出会った。彼女は私の剣を直し、使い方を教えてくれた。武器職人としての誇りを持ち、納得のいくものしか作らない人間だった」
「……リタ姉らしいな」
「だから、私は彼女を信頼している」
キャンディスの声には、確かな敬意がこもっていた。
ヴァンは改めて思う。
この人は、単なる無口な剣士ではない。
確固たる意志を持ち、その歩みを止めない人間なのだ。
——その時、駅の鐘が再び鳴った。
「そろそろ出発だな」
キャンディスは短く告げると、駅員に手続きを済ませ、陸翔獣のもとへ向かう。
ヴァンも彼女の後を追いながら、心の中でひとつの決意を固めた。
(俺も……俺の道を見つけなきゃな)
そう思うと、少しだけ、胸が熱くなった。
ヴァンとキャンディスは、陸翔駅のプラットフォームに停まっているスレイヴォルグの元へと歩いた。
選ばれた個体は、全身を漆黒の装甲毛で覆われた雄々しい獣だった。
がっしりとした四肢に、鋼のように硬い爪。鋭い眼光には知性が宿り、その巨大な体躯は乗る者に安心感を与える。
「これが……スレイヴォルグ」
ヴァンはその圧倒的な存在感に息をのんだ。
「早く乗れ。発進するぞ」
キャンディスの促しに従い、ヴァンは革の鞍に手をかけ、よじ登るようにして乗り込んだ。
彼女は慣れた動きで先に跨がり、手綱を握る。
駅員の合図と共に、スレイヴォルグは一歩を踏み出した。
次の瞬間、風を切るような速度で加速する。
ヴァンは思わず身を縮めた。
だが、その揺れは意外なほど安定していた。
目の前の街並みが、次々と流れていく——
過ぎゆく街並みと、整備された交通。
スレイヴォルグの疾走とともに、ロストンの町が動き出す。
商店が並ぶメインストリートを駆け抜けると、朝の市場が開かれ始めていた。
活気あふれる通りでは、魚を並べる商人、果物を売る農夫、湯気を立てるパン屋が目に入る。
通りを横切る人々がスレイヴォルグの進路を見て道を開ける。
「スレイヴォルグ通ります!」
駅の職員が街道沿いに立ち、周囲の人々に声をかける。
街の道路は広く、中央に設けられた滑らかな石畳が、陸翔獣専用の走行路になっていた。
定められたルートがあり、道標の魔導灯が規則正しく配置されている。
「よく整備されてるな……」
ヴァンは感心したように呟いた。
「この街は交易が盛んだからな。輸送の流れを滞らせないよう、規則がしっかりしている」
キャンディスが説明する。
この国の主要な陸翔路は、都市間の交通網として緻密に整備されていた。
ほどなくして、二人を乗せたスレイヴォルグは街の外へと向かう門を抜けた。
門を越えると、一気に視界が広がる。
遠くまで続く平野には、朝霧が薄く漂っていた。
陽の光を浴びて、草原が黄金色に輝く。
ロストンの街を中心に形成されたこの平野は《ローゼ平野》と呼ばれている。
東に広がる温暖な気候と、豊かな土壌に恵まれたこの地は、農地として最適だった。
「見ろ、あれがロストン近郊の畑だ」
キャンディスが指をさす。
広大な大地には、整然と並ぶ麦畑や野菜畑が広がっている。
農夫たちが朝の作業を始め、牛や馬がゆっくりと歩いている姿も見える。
道の脇には、小川が流れていた。
澄んだ水が緩やかに流れ、川辺には白い花が揺れている。
時折、風に乗って鳥が飛ぶ。
小さな飛翔獣たちが、青空の下で旋回しながら、陽光を浴びて羽を光らせていた。
ヴァンは深く息を吸い込む。
「……綺麗だな」
彼の呟きに、キャンディスは小さく頷いた。
「この国は、いい土地だ。生きるにはな」
そう言う彼女の声は、どこか遠いものを見るようだった。
スレイヴォルグは速度を落とし、やがて小さな森へと近づく。
《アルヴェリスの杜》——
街の近郊に広がる、比較的小規模な森林だ。
この森は、ローゼ平野の北端に位置し、かつて農民たちが自生する樹木を守るために手を入れながら残してきた場所だった。
「ここが……」
ヴァンは森の入り口に目を向ける。
背の高い樹々が連なり、緑の葉が日の光を受けて揺れている。
木々の間には獣道が伸び、地面には苔と落ち葉が柔らかく敷き詰められている。
森はそこまで広くないが、樹齢の長い木が多く、静かで、生命の息吹が濃い。
「アルヴェリスの杜は、古くから狩猟や採集に使われてきた場所だ」
キャンディスがスレイヴォルグを降りながら説明する。
「野生の果実や薬草が豊富で、小さな獣も生息している。だが、奥へ行きすぎると危険だ」
「どうして?」
「時折、獰猛な獣が入り込むことがある。それに……」
彼女は少しだけ視線を森の奥へ向けた。
「この森は、ある種の“境界”でもあるからな」
「境界?」
ヴァンが聞き返すが、キャンディスはそれ以上は答えず、森の奥へと歩みを進める。
彼女の背中を見つめながら、ヴァンもまた、アルヴェリスの杜へと足を踏み入れた。
そして、森の静寂に包まれるように、二人の姿は木々の間へと消えていった——。




