第166話
リタは炉の炎を見つめたまま、静かに口を開いた。
「私はこの仕事場が好きだし、自分の仕事にも誇りを持ってる」
そう言いながら、彼女は炎のゆらぎを見つめ続ける。
「この場所に何か“足りないものがある”ってんなら、それは“自分の力のなさ”だけだ」
ヴァンは、その言葉に息をのんだ。
迷いのない口調だった。
まるで、それが絶対的な真実であるかのように。
リタは、ふと視線を工房の壁に向けた。
そこには、一本の鉄の棒が立てかけられている。
まだ鍛えられていない、ただの鉄の塊。
彼女はそれを手に取り、じっと眺める。
金が欲しいために、バッシュを作ってるわけじゃない。
ましてや、戦争で使う道具を作ってる、という気持ちもない。
心の中でそう思いながら、リタはヴァンの方へと向き直った。
「私に必要なのは——炎を見極める『目』だけだ」
炎の熱さを、色を、ゆらぎを見極める。
ただそれだけのこと。
だが、それを極めるのに何年も、何十年もかかる。
たたらの炎を見極めた者だけが作り出せる魔素鋼の「鋼」。
その境地を追い求め、リタはこれまで炎を見続けてきた。
彼女にとっての“誇り”とは、火に触れる一瞬の“タイミング”だった。
熱し、鍛え、冷やす。
ただ一度きりの踏み込みが、命を吹き込む「時間」になる。
その瞬間がすべてだった。
周りは、彼女の作り出すバッシュに感銘の声を漏らしていた。
だが、リタにとっては「バッシュ」はただの“結果”に過ぎなかった。
もっと以前の話。
もっと基本的なところに、彼女は自らの時間を捧げてきたのだ。
命が生まれる、その瞬間を求めて。
リタは鉄の棒を手にしたまま、ヴァンの方へと視線を向けた。
「……『人の役に立つ』って言うけどさ、それ、——どういう意味だ?」
ヴァンは思わず口を開きかけたが、すぐに言葉を失った。
どういう意味か——考えたこともなかった。
彼にとって、それはごく自然なことだった。
「人の役に立つものを作る」
それは、それ以上でもそれ以下でもない。
言葉通りの意味で、深い意味なんてない。
世の中のためになる物。
“意味のある”物。
ただ、そう思っていた。
しかしリタの問いかけは、彼に考える時間を与えた。
——なぜ、自分は“人のために”作りたいと思ったのか?
答えを探すように、彼は視線を落とし、無意識のうちに過去の記憶を辿っていた。
——初めて、この工房に来た日のことを。
まだ見習いだった頃、ヴァンはシュナイダー工房の門を叩いた。
工房の中に足を踏み入れると、目の前に広がるのは、熱気と火花が飛び散る世界。
炉の中で燃え盛る炎の音が、工房全体に響いていた。
そして、その中央にいたのがリタだった。
彼女は無駄な動き一つなく、まるで呼吸をするように鉄を打っていた。
赤々と燃えた鉄を炉から取り出し、金槌を振るう。
打ち下ろすたびに、鉄は形を変え、徐々に一つの姿へとまとまっていく。
汗まみれになりながらも、その表情には一切の迷いがなかった。
ヴァンは思わず息をのんだ。
——美しい、と思った。
いや、美しいというより、目を離せなかった。
火花が舞い散る中で、一心不乱に鉄を鍛えるその姿が、強く、鮮烈に脳裏に焼き付いた。
「これが鍛冶の仕事なのか……」
そう思った瞬間、彼の胸の奥に、なにか熱いものが灯った気がした。
ヴァンはその時のことを思い出しながら、ぼんやりと炉の炎を見つめた。
そして、その先に、かつてリタが作った一本のバッシュの姿を思い浮かべる。
——完成したバッシュの輝き。
光を帯びた刃は、どこまでも透き通っているように見えた。
鋭さだけではない。冷たさだけでもない。
そこには、言葉にできない「何か」が宿っていた。
ただの道具ではない。
単なる武器でもない。
——言葉なんていらなかった。
ただ、見た瞬間に感じた。
今まで見たこともない何かが、そこにある——と。
ヴァンは思い出すように、ぽつりと口を開いた。
「……わかんねーけど、多分、“夢”とか“希望”とか、そういうもん? ……言葉じゃ、うまく説明できないっていうか……」
自分でも何を言っているのか、はっきりとはわからなかった。
ただ、リタの鍛冶仕事を初めて見た時の感覚、完成したバッシュを見た時の感覚——それを表現しようとすると、そんな言葉しか浮かばなかった。
リタはしばらく彼の顔を見つめていたが、次の瞬間、鼻で笑った。
「なんだそりゃ」
そして、炉の火を見つめながら、肩をすくめるように言った。
「そんな大層なこと言う前に、まずは基本的なところからやり直せ」
そう言って、軽く拳を振り上げる。ヴァンは慌ててのけぞった。
「わっ、ちょっ……いきなり殴るなよ!」
「殴りゃしねぇよ。ただ、あんたの言いたいことはわかった。でもな、それを言う前にやることがあるだろ?」
ヴァンは不服そうに口をつぐんだ。
リタの言いたいことは、なんとなくわかっていた。
鍛冶という仕事が、どれだけ大変か。たった一振りのバッシュを作るのに、どれだけの労力が必要か。
それを誰よりも理解しているからこそ、リタは夢や希望なんてものよりも、まず目の前の「仕事」を重視しているのだろう。
だけど——
ヴァンは納得できなかった。
今回の話は、決して悪い話ではないはずだ。むしろ、工房にとっては好機とも言える。
リタはよく言っていた。
「この工房は、“お客さんがいるからこそ”だ」と。
従業員を養うことができるのも、炉に火を入れることができるのも、この工房のバッシュを求める人がいるから。
素材一つ集めるのも、簡単なことではない。
そう聞いていたからこそ、ヴァンは思ったのだ。
今回の話が、本当に「悪い話」なのか?
工房にとって、より安定した環境を得ることができるのなら、それはむしろ良いことなのではないか?
仕事に集中できる環境を与えられるのに、断る理由なんてあるのか?
ヴァンはそんな疑問を抱えたまま、リタの横顔をじっと見つめた。




