第164話
「…さて、と」
ヴァンは手にした設計図をじっと見つめながら、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
机の上には、何枚もの図面が広げられている。
どれも細かい寸法と指示が書き込まれた、医療器具の設計図だ。
「傷口を広げるための鉗子、血を止めるための止血鉗子、もっと細かく縫合できる持針器……」
オリカが語っていた器具の数々が、こうして紙の上に具現化されている。
どれも“明確な形”を伴っている。
しかし、それ以上のことはヴァンには分からなかった。
——なぜ、この形なのか?
——どうして、こういう作りになっているのか?
きっと、オリカには明確な目的があって、この形が導き出されたのだろう。
それぞれに想像もつかないような、具体的な使い方があるに違いない。
ヴァンは、ゆっくりと口に煙を含んで、考え込んだ。
「形にこだわってるうちは、何も作れない」
リタの言葉が、また頭の中で響く。
ヴァンは、設計図の一枚を取り上げた。
それは、持針器と呼ばれる道具の設計図だった。
手術の際、針をしっかりと掴んで、正確に縫合するための器具だという。
「ふぅん……」
ヴァンは、自分の経験に当てはめながら、その設計図を眺めた。
武器とは違い、これらの器具は“力”を加えるためのものではない。
むしろ、いかに“精密な作業”ができるかが求められる。
だが、それならばなおのこと、どうしてこの形になるのか?
バッシュを作るときも、形だけを真似たところで意味はなかった。
鉄の性質、
重量のバランス、
そして魔導核の働きを理解しなければ、ただの“飾り”にしかならない。
「……この器具も、同じなのか?」
ヴァンは、煙草を灰皿に押し付けた。
鍛冶職人として、鉄を扱ってきた。
ヴァンは、鉄という素材が持つ特性を肌で感じ取ることができる。
熱すれば柔らかくなり、冷ませば硬くなる。
叩き方によって、頑丈さが変わり、鍛え方次第で粘りが生まれる。
だが——
「それだけじゃ足りねぇんだよな」
ヴァンは、リタの言葉を思い出していた。
「魔導核を扱うには、魔力の流れだけじゃなく、素材の“本質”を理解しなきゃならない」
鉄は鉄。
だが、鉄の中にも性質の違いがある。
不純物を多く含んだ鉄と、精錬された鋼では、強度がまるで違う。
刃物に適した鋼と、衝撃に強い鉄では、求められる加工法も異なる。
つまり——
形を作る前に、素材の理解が必要なのだ。
「……そういうことか」
ヴァンは、持針器の設計図をもう一度見つめた。
これもまた、ただ形を真似たところで、本物にはならない。
どんな金属を使うべきか?
どう加工すれば、使いやすくなるのか?
そこを理解しなければ、ただの金属の塊になってしまう。
「バッシュも、医療器具も……結局は、同じなのかもしれねぇな」
ヴァンは、そう呟くと、立ち上がった。
試作に取り掛かるとしよう。
——カン! カン! カン!
静かな夜の工房に、鉄を打つ音が響く。
ヴァンは慎重に、しかし力強く、鉄を叩きながら形を整えていった。
「形にこだわるな。まずは、本質を知れ」
リタの言葉が、——また、頭の中によぎる。
形だけ真似ても意味はない。
形とは、“そうあるべき”というたった一つの場所でもあり、時間でもある。
「なら、こっちも試してみるか……」
ヴァンは、鉄を冷ます前に、水ではなく油に浸した。
こうすることで、金属の硬さを調整できる。
仕上げに、ヤスリで細かい調整を施しながら、彼は考える。
「こいつを、どうやって“持ちやすく”するかだな……」
ただ強度を上げるだけでは駄目だ。
医療器具は、手術中に繊細な動きを求められる。
それは、戦場で剣を振るうのとは違う、精密な“技”だ。
となれば——
「……グリップの形状も、工夫が要りそうだな」
ヴァンは、持針器の柄の部分にわずかな凹みを作ることを思いついた。
そうすれば、指がしっかりとフィットし、滑りにくくなる。
「これは……案外いいんじゃねぇか?」
武器とは違う視点で金属を扱うことに、彼は少し興奮していた。
ヴァンは、ひとまず作業を終え、試作品を眺めた。
医療器具としては、まだまだ改良が必要だろう。
「……うーん」
ふと、彼はバッシュのことを思い出した。
バッシュを作るには、魔導核の扱いが必須だ。
だが、リタに言われた通り、魔導核を扱うには「魔力の流れ」だけではなく、「物質の本質」を理解する必要がある。
医療器具を作る過程で、それを実感しつつあった。
「……結局、行き着くのは“素材”ってわけか」
武器も医療器具も、ただ形を作るだけでは役に立たない。
その目的に合った性質を持たせることで、初めて“道具”になる。
「……なら、バッシュも同じはずだ」
ヴァンは、試作品を握りしめた。
医療器具を作りながら、バッシュの本質を探る。
それが、今の自分にできる最低限のことかもしれない。
「……とりあえず、やるしかねぇな」
彼は、小さく息を吐くと、もう一度火をくべた。
◇
シュナイダー工房の朝は早い。
夜明け前にはすでに炉に火が入れられ、鉄を叩く音が響き始める。
工房の天井にはまだ夜の冷気が残っていたが、火床の熱気がそれをじわじわと押し上げていく。
ヴァンは一晩中作業していたため、うっすらと目の下に疲れの色が見えた。
とはいえ、彼の手は止まらない。
「……ふん、もうちょいだな」
持針器の仕上げをしながら、鉄の表面をヤスリで整えていく。
試作品としては、なかなか悪くない出来だった。
「おいヴァン、夜通しやってたのか?」
工房の奥からリタが現れ、半ば呆れたように腕を組んだ。
彼女はすでに仕事の準備を整え、革製の作業エプロンを締め直している。
「ちょっとな」
ヴァンは椅子の背に寄りかかり、軽く伸びをした。
窓の外から差し込む光が、鉄粉の舞う空気を照らしている。
「朝飯くらい食えよ。今日も忙しくなりそうだしな」
「分かってる」
ヴァンが手を休めたところで、工房の扉が開き、見習いの少年が息を切らせながら飛び込んできた。
「ヴァンさん! リタさん! なんかすごい人たちが来てます!」
「すごい人たち?」
リタが片眉を上げる。
「うん……黒い馬車に、でっかい紋章がついてるし……たぶん、お偉いさんだと思う」
ヴァンとリタは顔を見合わせた。
「……めんどくせぇ予感しかしねぇな」
ヴァンは椅子から立ち上がり、手についた鉄粉を払いながら玄関へと向かった。
工房の前には黒塗りの馬車が停まっていた。
車体には、帝国商務庁の紋章——双頭の鷲が描かれている。
扉が開き、数人の男たちが降りてきた。
中央に立つのは、痩せた長身の男。
青い軍服に身を包み、胸元には銀色の徽章が光っていた。
「初めまして、シュナイダー工房の皆さん」
男は落ち着いた口調でそう言い、片手を胸に当てて軽く礼をした。
「私はガルハルト・ローデン。帝国商務庁の技術開発局に所属しております」
「商務庁が、ウチに何の用だ?」
ヴァンは腕を組み、じっと相手を見据えた。
「単刀直入に申し上げましょう。我々は貴工房の製造技術に、大いに関心を抱いております」
ローデンはにこりと笑いながら、懐から書類を取り出した。
「シュナイダー工房は、バッシュ製造において国内随一の技術を誇る。そこで、我々は新たな技術革新を提案したい」
「技術革新……?」
リタが眉をひそめるのを見て、ローデンは余裕の笑みを浮かべながら、懐からもう一枚の書類を取り出した。
「ええ。我々は新型のバッシュを開発しようと考えています」
「新型……?」
ヴァンはローデンの手元に目をやる。
そこには精密な設計図が描かれていた。従来のバッシュよりも細身で、構造が単純化されている。
「これは……従来のバッシュとはずいぶん違うな」
「その通りです」
ローデンは書類を広げ、工房の職人たちにも見せながら説明を続けた。
「従来のバッシュは確かに強力ですが、その本来の能力を引き出すには、高度な魔力操作が必要でした。そのため、扱える者が限られるという問題があった」
ヴァンは腕を組んで考え込む。確かに、それは昔から言われていたことだ。
バッシュは一種の魔導武器だが、その性能を発揮するには使用者の魔力量と精密な操作技術が求められる。
結果として、戦場で運用できる兵士の数は限られ、配備の効率が悪くなる——というわけだ。
「そこで我々は、より扱いやすく、安価なバッシュを開発することにしたのです」
ローデンの声が、工房の静けさの中に響く。
「魔力効率を改善し、能力は多少落とすが、より低レベルの魔力操者でも扱える設計にする。これにより、バッシュの使用者を飛躍的に増やすことができるのです」
「なるほどな」
ヴァンは興味深そうに設計図を眺めた。
「要するに、高級な一点物ではなく、実用的な量産品を作ろうって話か」
「正確には、どちらも必要なのです」
ローデンは微笑み、さらに話を続けた。
「これまでのバッシュは、優れた職人技によって一つ一つ作られてきました。ですが、時代は変わりつつあります。より多くの兵士に行き渡る武器こそが、今後の戦局を左右するのです」
ローデンは、懐から何かを取り出し、机の上に置いた。
金貨の袋だった。
布袋の口が開かれると、大量の金貨がこぼれ落ちる。
陽の光を受け、黄金の輝きが工房の粗末な木製テーブルの上で眩しく光る。
「これはほんの一部です」
ローデンは笑みを深める。
「我々は、シュナイダー工房がこの新技術に協力してくれるならば、必要な資金を惜しみません。設備の拡充、人員の増加、新たな製造ラインの設置——あなたたちの工房を、これまで以上に大きくし、繁栄させることができるでしょう」
ヴァンは金貨を見つめた。
確かに、悪い話ではない。
金があれば、より良い炉を設置し、工具を揃え、優秀な職人を雇うことができる。
シュナイダー工房は、今以上に名を馳せるだろう。
「……悪くねぇ話だな」
ヴァンがそう呟くと、ローデンの笑みがわずかに深くなった。
しかし——
「……」
隣で、リタが腕を組んだまま無言でいた。
表情は険しく、納得しているようには見えない。
ローデンはちらりとリタの方を見たが、あえて何も言わず、ヴァンの方に視線を戻した。
「どうですか、ヴァンさん」
彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなたの鍛冶技術が、この帝国の未来を支えることになるかもしれませんよ」
ヴァンは、リタの様子を横目で見ながら、考え込んだ。