第161話
シュナイダー工房の奥、薄暗い作業場。
ヴァンは、煤けた図面を広げ、手元のランプの光でその細部を確かめていた。
——そこには、見慣れぬ形状の金属器具が、精巧な筆致で描かれている。
「……これが、手術用の“鉗子”ってやつか」
鉗子——金属製の挟み工具で、外科手術で組織を掴んだり、止血したりするための器具。
だが、ヴァンにとっては初めて見る形状の道具だった。
「よく描けてるな……」
ヴァンは設計図を指でなぞりながら呟いた。
——この図面を描いたのは、ロストンでも名の知れた画家だった。
オリカが医療器具の正確な形状を伝えるため、特別に依頼して描かせたものだという。
彼女自身がこの世界では「異端」とされる外科師であるため、口頭での説明だけでは職人に伝わらない。
だからこそ、細密な絵画による設計図が必要だったのだ。
「……にしても、オリカのやつ、ずいぶんと手間のかかることをしてやがるな」
ヴァンは苦笑しながら、目の前の設計図をじっと見つめた。
そこには、10種類以上の鉗子や剪刀、持針器などが描かれている。
ヴァンたちは、これらを一つずつ“この世界で作れる技術で”形にしていかなければならない。
「さて、どこから手をつけるか……」
ヴァンは作業台に座り直し、設計図の横にスケッチブックを広げた。
「まずは、素材の選定からだな」
■ 医療器具製作の第一歩——素材の選定
工房の奥には、金属材料を保管する倉庫がある。
ヴァンはそこへ向かい、並んだ鉄材や鋼材を見渡した。
(……手術に使う道具だから、丈夫で錆びにくい金属が必要だ)
通常、シュナイダー工房では剣や鎧を作るための炭素鋼が主流だ。
しかし、これは硬すぎて細かい細工には向かないし、腐食しやすい。
「となると……これか?」
ヴァンは一本の錬鉄(ワラストン鉄)を取り出した。
——錬鉄は、不純物の少ない精錬鉄で、しなやかさと耐食性を兼ね備えている。
この地方では中世(A.C.500年〜600年)の頃から建築や工具に用いられ、金属細工の素材として重宝されてきた。
「これなら加工しやすいし、そこそこ錆びにくい」
ヴァンは錬鉄の棒材を抱え、作業台に戻った。
「おい、リタ姉!」
「んー? どうしたの?」
炉の前で鉄を鍛えていたリタ・ヴァイスハイトが、火花を散らしながら振り向く。
「こいつを適度な厚みに延ばしたい。熱してくれるか?」
「了解! ちょっと待ってな!」
リタは鉄の棒を火炉に入れ、ふいごを踏む。
ゴウッと炎が吹き上がり、鉄材が徐々に赤熱していく。
「どれくらいの厚みがいい?」
「1.5ミリ程度」
「ほいほい、細かい作業だねぇ。まぁ任せて」
リタはにやりと笑いながら、真っ赤に熱した鉄を作業台に移し、ハンマーを手に取った。
——カンッ、カンッ!
正確なリズムで鉄を叩きながら、ヴァンの求める厚みに整えていく。
■ 精密加工——鉗子の形状を作る
鉄板が冷めたら、次は鉗子の形状を切り出す作業だ。
ヴァンは、設計図をもとに石炭で鉄板に下書きをし、糸鋸を使って慎重に切り出していく。
「むぅ……形が細かいな」
鉗子の形状は、刃物や武器とはまるで違う。
取っ手の部分は細長く、先端は精密に仕上げなければならない。
ヴァンは慎重に糸鋸を動かしながら、形を削り出していく。
——カリカリ……
金属を削る音が工房に響く。
「おーおー、やるねぇ」
リタが腕を組みながら、感心したように見つめている。
「バカにすんなよ。俺だってやるときはやるんだよ」
「ふふん、じゃあ仕上げも頼んだよ?」
リタはウィンクしながら炉の方へ戻る。
■ 組み立てと仕上げ——鉗子の完成
切り出した鉗子のパーツを、組み立てる。
ヴァンは、小さな鉄製のリベット(鋲)を使い、鉗子の可動部を接合した。
「よし、仮組み完了」
だが、これで終わりではない。
鉗子は細かく動かすため、関節部分の研磨が必要だ。
高品質の砥石を使い、ひたすら可動部分を磨いていく。
——シャリ……シャリ……
金属の表面が滑らかになり、鉗子は軽く開閉できるようになった。
「……動きは悪くねぇな」
ヴァンは鉗子を試しに握り、先端の噛み合わせを確かめる。
ガチッ——
「よし、完成だ」
試作第一号の鉗子が、ついに仕上がった。
医療器具は“武器”ではない
ヴァンはしばらく、その鉗子を見つめていた。
「……なんつーか、不思議なもんだな」
手に馴染むこの感触。
だが、これは剣でも槌でもなく、戦うための道具ではない。
命を救うための道具——それが、彼の手で形になったのだ。
リタがそんなヴァンの様子を見て、ふっと笑った。
「なぁに、ちょっとは感触が掴めてきた?」
「……ま、悪くはねぇな」
ヴァンは鉗子を握り直し、小さく笑った。
「俺に作れるもんなら、いくらでも作ってやるさ」
シュナイダー工房の中で、新たな医療器具が生まれ始めていた。
◇◇◇
▼ 少年の夢
ヴァン・トライバルは鉄を叩きながら、熱せられた鋼の赤い輝きをじっと見つめていた。
金槌を振り下ろすたび、火花が散る。金属の塊は少しずつ形を成していくが、それは単なる鍛造の作業に過ぎなかった。
彼が本当に作りたいのは——バッシュ。
魔導の力を宿した武器。戦士の魂と一体となり、ただの鉄の塊を超えた存在となるもの。
けれど、彼はまだその領域にすら立てていなかった。
リタは、ヴァンに基本的な鍛治の仕事は任せていた。
炉に火をくべ、鋼を熱し、ハンマーで叩き、形を整え、研磨する。これらはどれも鍛冶師としての基本であり、どれだけ技術があろうとも、飛ばすことのできない工程だった。
しかし——
バッシュを作ることは、許されていない。
「お前はまだ、ただの鉄すら完璧に鍛えられてねぇ」
リタは、ヴァンが何度聞いても答えを変えなかった。
彼女の言うことは正しい。バッシュは普通の武器とは違う。作れる者は限られていて、天性の感覚がなければ、魔導核を適切に融合させることすらできない。
ヴァンはそれを、目の前で嫌と言うほど見ていた。
バッシュは、ただの金属ではない。
剣の形をしていても、魔導核が正しく融合されなければ、ただの鉄の棒にすぎない。
リタがバッシュを作るとき、それはまるで生きた生物を生み出すような作業だった。
魔導核の位置、魔導回路の彫刻、鍛造温度の調整、魔力流動の計算——すべてが完璧でなければ、バッシュは生まれない。
「おい、ヴァン」
リタの声が、ヴァンの思考を断ち切る。
「手ぇ止めんな。鍛冶ってのはな、迷いがあると鉄に伝わる」
「……分かってる」
ヴァンは再び槌を振り下ろす。
しかし、頭の中はリタの手元にあった。
リタの動きは、無駄が一切なかった。
彼女はまるで、剣と会話するように作業を進めていた。
鍛造した鋼に指先を触れただけで、適切な冷却のタイミングを見極め、魔導核を埋め込む位置を本能的に決めていた。
「……これが、才能の差ってやつなのか?」
ヴァンは、自分の胸の奥が重たくなるのを感じた。
ヴァンは夢を見ている。
いつか、自分の作ったバッシュが、世界を変えるほどの力を持つことを。
しかし、今の自分では到底届かないことも理解していた。
リタの背中を見ながら、ヴァンは思う。
(俺は、ここからどれだけ成長できるんだ……?)
バッシュ製造は、「誰もが学べばできる」ようなものではない。
それを許された者は、限られている。
ヴァンは、焦りを押し殺しながら、今日も鉄を叩き続けるしかなかった——




