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第160話





時が遡ること、——1ヶ月前。




ロストン商業区。


帝国随一の貿易都市であるロストンの中でも、このエリアは特に活気に満ちていた。


海に面した港湾区とは異なり、ここは職人や商人が軒を連ねる「ものづくりの街」だ。


石畳の道沿いには、精巧な細工を施した看板が並び、鉄や木材の加工音があちこちから響いてくる。


路地を進めば、革職人の店から獣皮の香りが漂い、硝子細工の工房には朝日を反射して煌めくランプが並ぶ。


錬金術師が経営する薬屋の前では、蒸留器が絶えず湯気を吐き、異国の香辛料を扱う店先ではスパイスの鮮烈な香りが鼻をくすぐる。



ルーヴェンの工業地区ほどの大規模な機械工場こそないが、ロストンの商業区は「伝統技術と新興産業の融合した街」だった。


ここで作られた製品は、港から大陸中へと輸出され、貴族や商人たちの屋敷を飾り、帝国の発展を支えていた。



シュナイダー工房


商業区の一角。


黒鉄の看板に、シンプルな槌と金床かなとこの刻印。


それが、この街でも屈指の歴史を誇る「シュナイダー工房」の印だった。


建物は二階建てのレンガ造りで、窓には鉄格子がはめ込まれている。

広い敷地には屋根付きの作業場があり、鍛冶場の煙突からは常に黒煙が立ち上っていた。


正面の扉をくぐると、そこは展示室になっている。


壁際には大小様々な刃物が並び、工芸品のような彫金が施された短剣や、貴族向けの銀製ナイフが飾られていた。


奥の棚には医療器具や精密工具が陳列されており、近年は工業用の部品や魔導機械の細かいパーツまで扱うようになっていた。


カウンターの奥には、作業場へと続く扉。


そこを開けると、炉の熱気と鉄の焼ける匂いが肌を刺した。


鍛造台には、まだ赤熱した鉄材が置かれ、職人たちがハンマーを振り下ろす音が響く。

天井には巨大な魔導換気扇が設置され、工房全体の空気を循環させていた。

棚には様々な道具が整然と並び、砥石台では仕上げ作業に入る弟子たちの姿があった。


その中に、一人の若者がいた。



「チッ……またズレたか……」


ヴァン・トライバルは、ルーペ越しに細かな金具を睨みつけた。


彼が手にしていたのは、試作中の医療器具——ピンセットの試作品だ。


先端の噛み合わせを微調整する作業をしていたが、どうにも左右のバランスが合わない。


「……ったく、機械仕事ってのは気に食わねぇな」


ぼやきながら、彼はピンセットを砥石に押し当てる。


ヴァンはこのシュナイダー工房に弟子入りして、今年で三年目になる。


最初は粗野な態度で職人たちから反感を買ったが、その分努力も人一倍だった。


鍛冶の基礎技術はすでに身につけ、今では細かい精密加工まで任されるようになっていた。


「おいヴァン、無駄口叩く暇があるなら、手を動かせ」


背後から低い声が響いた。


工房の主、五代目の親方——グスタフ・ヴァイスハイト


白髪混じりの髪を短く刈り込んだ厳格な男で、口数は少ないが、その腕は本物だった。


「へいへい、わかってるっての」


ヴァンは舌打ちしつつも、集中し直す。


彼がこの工房に拾われたのは、十四の時。


それまでの人生は、ほぼ“生きるための仕事”だった。


孤児として路上で暮らし、靴磨きや新聞売りをしながら、その日その日を凌ぐ。


だが、ここでは違う。


「技術を持つってのは、こういうことか」


最初はただの鍛冶仕事だと思っていたが、シュナイダー工房で学んだのは単なる“モノづくり”ではなかった。


「人の役に立つ道具」を作ること、それ自体が価値になり、誇りになっていった。


そして今、彼は 「医療器具」 という新たな分野に挑戦しようとしている。


オリカという女が持ち込んだ奇妙な設計図。


正直、最初は「こいつ正気か?」と思ったが、親方はその価値を見抜いた。


「……しかし、こんな細かい仕事を毎日やってたら、性格までネチっこくなりそうだな」


ヴァンは笑いながら、再びピンセットを砥石にかけた。


外では、鉄を打つ音が鳴り続けていた——。




ロストンの朝は活気に満ちている。


商業区の石畳を、貨物を積んだ荷馬車が行き交い、市場では魚屋が威勢よく客を呼び込む声が響く。


遠く港湾区からは船の汽笛が鳴り、港のクレーンが大きな荷箱を釣り上げるのが見える。


そんな喧騒の中でも、シュナイダー工房はいつも通りの一日を迎えていた。


鍛冶場の煙突からは黒い煙が立ち上り、炉の中では金属が赤々と輝いている。


職人たちの掛け声とハンマーの音がリズムよく響き、鉄の焼ける匂いが工房全体に満ちていた。


ヴァンは、今朝も早くから作業台に向かい、医療器具の試作品を仕上げていた。


「んー……やっぱまだ微妙にズレてんな」


彼はルーペを覗き込みながら、小さく舌打ちする。


手に持っているのは「マチュー持針器」の試作品——外科手術で針をしっかりと掴むための精密工具だ。


金属の噛み合わせがほんのわずかに甘い。


このズレが、実際の手術では致命的な問題になる。


「ヴァン、あんたねぇ、もうちょっと肩の力抜いたらどうだ?」


突然、背後から陽気な声が響いた。


「んだよ、また覗きかよ、リタ姉」


「なぁに、ちょっと様子見てやっただけさ」


リタ・ヴァイスハイト——グスタフの娘であり、シュナイダー工房の武器職人。


彼女はヴァンより五つ年上の二十三歳。


艶やかな金髪をポニーテールにまとめ、露出の多い作業着をラフに着こなしている。


鍛冶仕事のせいで腕はほどよく筋肉がついており、砂埃で汚れた顔には、いつも屈託のない笑みを浮かべていた。


「にしても、あんたが医療器具作るとはねぇ……最初は絶対、三日で投げ出すと思ってたけど?」


リタは作業台に肘をつきながら、ヴァンの手元を覗き込む。


「ハッ、俺を何だと思ってんだよ。こちとらやると決めたらトコトンやるタイプなんだよ」


「へぇ、そりゃ頼もしいねぇ」


リタはくすっと笑い、ヴァンの仕上げた持針器を手に取る。


「……ほほう、なかなかやるじゃん。ちょっと貸しな」


リタは持針器のバネ部分を指で弾き、手首のスナップを使って精度を確かめる。


「ふむ、噛み合わせはまぁ合格。細かいバリ処理がまだ甘いけど、これなら十分使えそうだね」


「お、おぉ……マジで?」


「何よ、意外そうな顔して」


「…いや、別に……」


ヴァンは鼻をかきながら、リタの顔をちらりと見た。


「まぁ、細かいことを言えばキリはないけどさ?それに、医療器具は武器とは勝手が違うよ」


リタは持針器を作業台に戻し、ヴァンを覗き込む。


「そもそもさ、この道具作ってんの、内緒なんでしょ?」


「まぁな」


ヴァンは小さく頷いた。


——シュナイダー工房は、帝国内でも名の知れた工房であり、貴族派の得意先も多い。


そのため、オリカから依頼された医療器具の製作は、表向きには“存在しない”ことになっている。


職人たちは皆信頼できる腕利きばかりだが、それでも貴族派の目はどこに潜んでいるかわからない。


ヴィクトールからの根回しもあり、オリカの関係者と知っているのは工房の主・グスタフ、ヴァン、そしてリタだけだった。


「ま、あたしは貴族なんて連中には興味ないしさ。面白い仕事なら、なんでも乗るよ」


リタはウィンクをしながら、ヴァンの肩を叩いた。


「にしても、あんたが医療器具ねぇ……前までは“鉄塊ぶん殴るほうが性に合ってる”とか言ってなかった?」


「ちっ、過去の話を掘り返すんじゃねぇ」


ヴァンは顔を背けながら、もう一度持針器を手に取った。


「まぁ、でもよ……俺はこの道具で自分の腕を試してみたいんだ」


「……ふぅん?」


リタはヴァンの横顔をじっと見つめた。


「この仕事が気に入ったの?」


「違ぇよ」


ヴァンは小さく笑った。


「俺は、オリカって女の“仕事”を見たんだよ」


「……」


「こいつが作れって言ったモンが、どれだけ必要なものなのか、見ちまった」


リタはしばらく黙っていたが、やがてニヤリと笑った。


「へぇ……なんか、アンタも変わったねぇ」


「うるせぇ」


ヴァンは持針器を仕上げながら、外の青空を見上げる。


遠くでは、鉄を打つ音が響いていた。


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