第158話
朝の光が、ルーヴェンの街並みに降り注いでいた。
石畳の通りには、魔導ランプの光がまだほのかに残り、夜明けの余韻を感じさせる。
通りを行き交う馬車の音、職人たちが工房の扉を開く音、市場の商人たちが準備を始めるざわめきが、街の目覚めを告げている。
アレクとピノが向かったのは、「大時計塔広場」。
ルーヴェンの中心部にそびえ立つ巨大な時計塔は、帝国の繁栄を象徴する建造物のひとつであり、街のどこからでも見えるほどの高さを誇っていた。
「エンペラーズ・クロノス」——それが、この時計塔の正式な名だ。
かつて、初代皇帝によって建造されたこの塔は、精巧な歯車仕掛けと魔導機構によって、帝国標準時を刻み続けている。
広場の中央には、壮麗な噴水が設けられ、周囲には貴族の館や大商館が立ち並ぶ。ルーヴェンの要人たちが集う場所であり、交易や情報の中心地でもある。
アレクは時計塔を見上げながら、時間を確認する。
「……まだ早いか」
「リリーさん、ちゃんと時間通りに来るかなぁ?」
ピノが心配そうに耳(のような飾り)をピコピコと動かした。
「来るには来るだろうが……問題は、どれだけの荷物を持ってくるかだな」
アレクはため息をつきながら、リリーが荷造りに苦戦している姿を思い浮かべた。
「にゃー!! 遅れてないのだ!!」
威勢のいい声とともに、広場の向こうから小柄な影が駆けてくる。
「……案の定だな」
アレクが目を細めると、リリーが大きな鞄を抱えながら駆けてきた。詰め込みすぎたのか、肩からずり落ちそうになっている。
「リリーさん、おはよう~!」
ピノが手を振ると、リリーは鞄を放り投げるようにして地面に降ろし、勢いよく両手を上げた。
「準備は完璧なのだ!!」
「……それは“最低限”に減らした結果か?」
「う……一応減らしたのだ……」
リリーはぷくっと頬を膨らませるが、アレクは鞄の膨らみ具合を見て、まだ不要なものが多いのだろうと察した。
「まぁいい。そろそろ出発するぞ」
アレクは振り返り、時計塔広場を抜けて歩き始めた。
「おぉ、どこへ向かうのだ?」
「駅だ」
「えき?」
「ルーヴェン工業地区にある“中央鉄道ステーション”だ。そこから貨物列車に乗る」
「おおっ、列車に乗るのか!」
リリーの目が輝く。
「にゃふふ、初めてなのだ! どんな乗り物なのだ?」
「ふふん、ボクの知識によると、魔導蒸気機関で動く超かっこいい鉄の馬! それに乗れば、超速で移動できるよ!」
ピノが胸を張ると、リリーは「にゃふー!」と歓声を上げた。
「急ぐぞ。歩きながら話す」
アレクはそう言うと、ルーヴェンの街並みを進み始めた。
時計塔広場を抜け、ルーヴェンの大通りを進む。
帝都ルーヴェンは、帝国の中枢に相応しい壮麗な街並みを誇る。
中央大通りには、貴族たちが優雅に歩く石畳の道が続き、馬車や人々が行き交う。
建物はゴシック様式とロマネスク様式が融合したような壮大なデザインで、塔のように高くそびえるものもあれば、丸みを帯びたドーム型の屋根を持つものもある。
「おぉ~、でっかいのだ~!」
リリーはきょろきょろと周囲を見回す。
「ルーヴェンは大都市だからな。
貴族街、商業区、工業区、学術区と、さまざまなエリアに分かれている」
アレクは淡々と説明する。
「今いるのは商業区。高級店や職人の工房が多い」
「おぉ……美味しそうなのだ!」
リリーの視線の先には、香ばしいパンの香りが漂うベーカリーがあった。並べられたクロワッサンやフルーツタルトが、朝の光に照らされて輝いている。
「んにゃ~、買いたいのだ……」
「却下だ。遅れる」
「うぅ……」
後ろ髪を引かれる思いで、リリーはパン屋を後にした。
しばらく歩くと、街並みが徐々に変わっていく。
「ここから先が工業区だ」
アレクが指をさした先には、蒸気の煙が立ち昇る巨大な建物群が広がっていた。
——ルーヴェン中央鉄道ステーション
工業区に入ると、街の空気が変わる。
広場を抜け、工業区へと足を踏み入れると、ルーヴェンの街並みは一変した。
先ほどまでの優雅な雰囲気は消え、魔導工学の発展を支える職人や労働者たちの活気が満ちた世界が広がっていた。
貴族街や商業区の華やかな雰囲気とは異なり、ここには「力と熱」があった。
巨大な煙突が並ぶ工場群は、まるで黒鉄の城壁のようにそびえ立ち、その頂からは蒸気が噴き上がっている。
通りには魔導蒸気機関を搭載した荷車が行き交い、鍛冶場の火花が舞い散る。
石畳は煤け、鉄粉や機械油の匂いが充満していた。
ここはまさに、帝国の産業革命の最前線だった。
「おおっ! 何か……熱いのだ!」
リリーは鼻をくんくんと動かす。
「工房の煙と、魔導蒸気の匂いだ」
アレクは無造作に答える。
巨大な魔導炉を備えた工場が並び、鉄を打つ音、蒸気が噴き出す音が響く。
「ふむ……この工業区に、なんで駅があるのだ?」
リリーが辺りを見回しながら尋ねる。
「今の鉄道は、人を運ぶためじゃなく、物資の輸送が主な目的だからだ」
アレクが答える。
「もともとこの鉄道は、鉱山から採掘した鉄鉱石や石炭を、工場に運ぶためのものだった。最初は工場と工場を繋ぐ“産業鉄道”として発展したんだ」
「じゃあ、人が乗るのはおまけなのだ?」
「そうとも言えるな。民間利用が本格的に始まったのは、ほんの数年前からだ」
貨物列車が鉄のレールの上をゆっくりと滑るように進み、駅構内の荷役場へと入っていく。
積み込まれたのは、鉱石、木材、工場で生産された機械部品、そして運搬用の魔導炉だ。
「このあたりの工場では、鉄製品や魔導機関の部品を大量に作ってる。つまり、鉄道がないと、この街の産業は成り立たないんだ」
「ほえぇ……!」
リリーは興味津々に、列車へと続く貨物の流れを見つめた。
「見えてきたぞ」
目の前に、鉄道のステーションがそびえていた。
ルーヴェン中央鉄道ステーションは、帝国内最大級の駅であり、ルーヴェンと各地方を結ぶ交通の要である。
プラットフォームには、黒鉄の車体を持つ巨大な魔導機関列車が停車していた。
車両には、黄金の帝国紋章が刻まれている。
「うおぉぉぉぉ……! でっかいのだ!」
リリーが歓声を上げた。
「あれが……魔導蒸気機関で走る列車なのか!」
「そうだ」
アレクは目を細める。
「あそこから貨物列車に乗る。ロストンまで、しばしの旅になるぞ」
リリーはワクワクしながら、駅舎の方へと駆け出していった——。
やがて、一行は巨大な駅舎の入り口へとたどり着いた。
ルーヴェン中央鉄道ステーション。
帝国最大の工業都市にふさわしいこの駅は、壮麗なアーチ状の鉄骨構造を持ち、まるで城塞のような重厚な造りをしていた。
「にゃ、駅ってこんなに大きいものなのか!?」
「ここは貨物輸送がメインだからな。旅客用のホームはまだ少ない」
広大なプラットフォームには、無数の貨車が並び、労働者たちが忙しなく動き回っている。
クレーンが巨大な木箱を吊り上げ、魔導炉が装備された荷車が、次々と列車へと荷物を運び込んでいた。
外壁には黒鉄がふんだんに使われ、屋根には巨大なガラス窓が埋め込まれている。
太陽光が差し込み、魔導ランプの光と混ざり合いながら、広々とした空間を照らしていた。
構内へ足を踏み入れると、内部は騒がしさと活気に満ちていた。
駅の中心部には、最新式の魔導掲示板が設置されている。
板の表面には魔力の光で時刻表が映し出され、貨物列車の発着情報が次々と更新されていた。
「貨物列車 第一便、十五分後に出発予定! 搭乗者は指定のホームへ!」
魔導スピーカーから響く案内に、作業員たちが素早く動く。
駅の一角には、小規模な乗客用待合室があった。
まだ旅客鉄道としての整備は進んでいないが、一応、一般市民が利用できるようになっている。
しかし、その利用者はまだ少なく、ほとんどが商人や技術者たちだった。
「へぇ、思ったより人が少ないのだ」
「今はまだ、駅は“貨物のためのもの”という意識が強いからな」
アレクは言いながら、ホームへと歩みを進める。
「けどな、ルーヴェンの各エリアには、今後さらに鉄道が敷かれる予定だ」
アレクは駅の壁に貼られた地図を指さした。
そこには、工業区を起点にして、商業区、貴族街、果ては帝国の宮殿へと続く路線計画 が描かれていた。
「ここだけじゃなく、帝国内の主要都市にも路線を広げる計画が進んでいる。ロストンやフェルゼン公国にもな」
「わぉ、すごいのだ!」
リリーが目を輝かせる。
「つまり、いずれは鉄道でどこへでも行けるようになるってことなのだ?」
「理論上はな。ただ、それにはまだ時間がかかる」
アレクは腕を組んだ。
「この技術はまだ発展途上だ。鉄道が敷かれていない場所では、陸翔獣や馬車に頼るしかない」
「むむ……便利なのに、すぐには広がらないのだ?」
「そう簡単にはいかないさ。レールを敷くにも、莫大な費用と労力がかかる。それに、鉄道の発展を警戒する勢力もある」
「にゃ? そんなにいいものなら、みんな喜ぶのでは?」
「そう思うだろ?」
アレクは苦笑した。
「だがな、鉄道が普及すれば、従来の運送業——馬車や船による輸送を生業にしていた者たちは職を失う。商業ギルドの中には、鉄道を快く思わない連中もいるんだ」
リリーは「むぅ」と眉をひそめた。
「便利になればいいだけではないのか……」
「技術革新には、必ず反発する者が出る。産業革命ってのは、そういうものだ」
アレクの言葉に、リリーは小さく頷いた。
「んにゃー……難しいのだ。でも、旅が楽になるのなら、鉄道は広がってほしいのだ!」
「まぁな」
アレクは軽く肩をすくめ、貨物列車の方へと歩き出した。
「さて、そろそろ乗るぞ」
駅員が確認を終え、貨物列車の扉が開く。
鉄の車体の中には、頑丈な木箱や麻袋が積まれていた。貨物車両の一角には、旅客用の簡易座席が設けられている。
「にゃふー! 列車の中に乗るのだ!」
リリーが嬉しそうに飛び乗ると、ピノも続いた。
「ボクもワクワクするね!」
「落ちるなよ」
アレクは苦笑しつつ、最後に車両へと足を踏み入れる。
「出発まであと少しだな」
外では、駅員が最後の点検を行い、出発準備が進んでいる。
「次の目的地は、ロストンだ」
貨物列車は、ゆっくりと蒸気を吹き上げながら、動き出した——。