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第154話



日が沈む頃、ルーヴェンの街は新たな顔を見せる。


魔導灯が規則正しく並ぶ石畳の大通りは、白銀の光に包まれ、昼間とは異なる冷ややかな雰囲気を醸し出していた。


塔のようにそびえる建築群が整然と並び、その間を縫うように馬車が走る。


蒸気機関を利用した搬送車が歯車を軋ませながら貨物を運ぶ音が、遠くから響いてきた。


街全体が巨大な機構のように組み上げられた都市——それがルーヴェンだった。


貴族地区には厳重な鉄製の門が設けられ、衛兵たちが巡回している。


石造りの建物には、魔導工学を応用した複雑な仕掛けが施され、侵入者を拒むかのように聳え立つ。


一方、商業区には市場が広がり、規則正しく並んだ屋台と店舗の明かりが通りを照らしていた。


すべてが 「整然と計算された都市」。


無秩序な発展を遂げたロストンとは異なり、ルーヴェンの都市設計は帝国の技術と管理の結晶だった。


建物の配置、道幅、交通の流れ——すべてが緻密に設計され、都市機能の最適化が徹底されている。


高架橋の上を走る馬車。運河を利用した貨物の搬送。


それらは一切の無駄がなく、都市全体が巨大な機械仕掛けのように動いていた。


ルーヴェンは 「帝国の心臓部」 とも言われるが、それは単なる比喩ではない。


この街の鼓動は、帝国の政治・経済・軍事を支える基盤であり、ここから発せられる決定が大陸全土の命運を握っているのだ。


——そして、その一角に、エイゼン・ハーゼの研究所はあった。




◆エイゼン・ハーゼの研究所



ルーヴェンの外縁部、学術地区に位置するその建物は、一見すると古びた図書館のような外観だった。


外壁は黒曜石を基調とした重厚な石造りで、正面の大きなアーチ状の窓には魔導文字が刻まれている。


しかし、その扉の奥は、表の印象とはまるで異なる世界が広がっていた。


室内には、天井まで届く巨大な本棚がいくつも並び、隙間なく詰め込まれた魔導書や薬学書が静かに佇んでいる。

壁際には、無数の薬瓶が並べられた棚があり、それぞれ異なる光を放っていた。

中央には、巨大な魔導装置が鎮座し、魔力の流れを観測するための測定器が組み込まれている。


この場所は、王立医療機関の枠を超えた独立研究施設——


「魔導医学の最前線」だった。


リリーは慣れた様子で扉を開け、中に足を踏み入れる。


「じっちゃん、ただいまなのだっ!」


室内の奥から、低く響く声が返ってきた。


「……帰ってきたか」



エイゼン・ハーゼ。



ラント帝国王立医療機関の権威であり、かつて「治癒魔法の賢者」とまで呼ばれた男。


彼は60歳を超えた老魔導士であり、銀髪を後ろに束ね、鋭い眼光でリリーを見つめていた。


机の上には何通もの書簡が広げられ、彼の表情はいつになく厳しかった。


「お前に話がある」


「んにゃ? なんだか難しそうな顔してるにゃ~?」


リリーは軽い調子で机に近づき、書簡の束を覗き込む。


「……長期休暇の予定はあるのか?」


「ん~?」


リリーは一瞬考え込み、すぐにニカッと笑う。


「特にないのだっ! あ、でもカレンちゃんたちと海に行く約束はしてるにゃ!」


「海?」


エイゼンは眉をひそめる。


「海になんの用がある?」


「んにゃ? なんの用って……のんびりしたいのだ! カレンちゃんと、あとルークとかも一緒に行って、海で泳いで、美味しい魚食べて、夜は花火して……にゃっはっは!」


リリーは無邪気に笑いながら、机の端に腰を下ろした。


しかし、エイゼンは静かに首を振る。


「……そんなもの、いつでも行けるだろう」


「むぅ~、でも夏に行くのが楽しいのだっ!」


「お前にとって“本当に必要なもの”が何か、考えたことはあるか?」


リリーは一瞬、きょとんとした表情を見せる。


エイゼンは腕を組み、低く問うた。


「お前は、オークとして生きていきたいか? それとも人として生きていきたいか?」


その言葉に、リリーの笑顔がぴたりと止まった。


「……な、なんなのだ、じっちゃん。変なこと聞くにゃ……」


「お前の体には、問題がある」


エイゼンの声音が、さらに低くなる。


「それを今のまま放置すれば、いずれ——お前は“人”ではいられなくなるかもしれん」


リリーの表情に、ほんの僅かだが動揺が走った。


エイゼンは立ち上がり、机の端に置かれていた小さな瓶を手に取る。


中には、淡い蒼色に輝く液体が揺らめいていた。


「……お前は、これに頼りすぎてはいないか?」


リリーの目が、それを見つめる。


その瓶に収められているのは、彼女が普段から服用している “安定剤” だった。


この薬を飲むことで、彼女は「ある発作」を抑えていた。


——だが、それはあくまで一時的な対処にすぎない。




◆リリー・シュバルツの“問題”



リリーは、オークと人間のハーフ である。


彼女の身体には、人間のしなやかさと、オークの頑強な肉体が同居していた。


しかし、問題はそれだけではなかった。


彼女の体には、オーク特有の 「闘争本能」 が備わっており、それは 一定の条件下で暴走する という特徴を持っていた。


この状態を、エイゼンは 「バーサークモード」 と呼んでいる。


バーサークモードに入ったリリーは 感情の抑制を失い、本能のまま暴れ回る。


普段の彼女からは想像もつかないほどの狂暴な戦闘スタイルに変貌し、見境なく周囲を攻撃するようになる。


——まるで、理性を捨てた獣のように。


この症状は 「オークの血の強い影響」 によるものと考えられているが、なぜハーフであるリリーだけに発現するのかは不明だった。


通常、オークの血を引く者は、成長とともに人間的な側面が強まる。


しかし、リリーの場合は違った。


彼女は 幼少期から何度もバーサークモードを発症しており、そのたびに周囲の人間を傷つけてしまった。



——かつて、彼女は 自分の家族を傷つけたことがある。



その記憶が、今も彼女の奥底に沈んでいた。


エイゼンが施した治療によって、この発作は ある程度制御 できるようになった。


安定剤を服用し、魔導医学の知識を応用することで、一定の抑止が可能になったのだ。


しかし、それは 根本的な解決ではない。


「お前が今、普通に生活できているのは——この薬があるからだ」


エイゼンは小瓶を掲げ、リリーに見せつけるように言った。


「だがな、この薬は“対症療法”にすぎない。原因を突き止めねば、いずれ——お前は“自分自身を制御できなくなる”」


リリーは、無言のまま拳を握りしめた。


彼女は、この発作のことを “知られたくなかった”。


できることなら、考えたくもなかった。


だからこそ、彼女は 陽気に振る舞い、何も考えないようにしていた。


「……じっちゃん、あたしは……」


エイゼンは、リリーの言葉を遮るように続けた。


「お前が“人として”生きたいのなら——自分の体の問題と向き合わなければならない」


彼は、小瓶を机に置き、深く息をついた。


「そして、そのためには“新たな視点”が必要だ」


「新たな視点……?」


エイゼンは机の上に置かれた書簡の束の中から、一通の封筒を指で弾いた。


「——面白い話がある」


「にゃ?」


リリーは半ば警戒するように目を瞬かせる。エイゼンの「面白い話」は、だいたいろくでもないことが多かった。


「先日、学者の知人から“奇妙な話”を聞いた」


「奇妙な話?」


「ロストンという都市で、“優れた医者”がいるらしい」


「ロストン……?」


リリーは首を傾げた。どこかで聞いたことのある地名だが、具体的にどんな場所なのかまでは知らなかった。


「知っているか?」


「んにゃ、名前は聞いたことあるけど、あんまり詳しくは知らないのだっ」


エイゼンは少しだけ眉を上げた。


「そうか。まあ、無理もないな。お前は学院とこの研究所を行き来するだけで、外の世界には興味を持たんからな」


「むぅ……ちょっとは興味あるのだっ!」


リリーはぷくっと頬を膨らませるが、エイゼンは苦笑しつつ、話を続けた。


「その“優れた医者”というのはな——どうも、世界の医療事情を変えるほどの“革命”を起こしているらしい」


「ほえ~……なんかすごそうな話なのだっ」


「そうだな、実際、そういう触れ込みで話が伝わってきた。だが、私は半信半疑だ」


エイゼンは、半笑いのまま封筒を軽く叩いた。


「“未知の医療”を扱い、既存の医学を凌駕する——そんな話が、そう簡単にあるとは思えんからな」


「未知の医療?」


「そうだ。その医者は、これまで誰も考えたことのない視点で病を見ているらしい」


リリーはわずかに目を輝かせた。


「へぇ~、それってつまり、新しい魔法とか?」


「いや、どうも魔法ではないらしい」


「魔法じゃない? でも、治療って普通は回復魔法とか、薬とかで——」


「だからこそ、私は信じていないのだ」


エイゼンは肩をすくめた。


「しかし、ひとつだけ——信じるに足るものがロストンからの手紙の中に入っていた」


彼は封筒から、数枚の羊皮紙を取り出した。


リリーは、目を凝らしてそれを見つめる。


「なになに? それ?」


「論文だ」


「ろんぶん?」


「学術的な研究報告書のことだ」


エイゼンは羊皮紙を手に取り、ゆっくりと広げた。


「この論文にはな……『細菌学』や『寄生虫学』という概念が書かれている」


「……?」


リリーはぽかんと口を開けた。


「なにそれ?」


「この世界ではまだ判明していない科学的な視点——つまり、“病は魔力の乱れではなく、目に見えぬ微小な生物によって引き起こされる” という理論だ」


リリーは眉をひそめる。


「えぇ~? そんなことあるのだ? 病気って、呪いとか、魔素の詰まりとか、そういうのが原因なんじゃ?」


「それが、どうも違うらしい」


エイゼンの目が細くなる。


「私も、最初は眉唾だと思った。だが、この論文の内容は——医療の概念を根本から覆しかねないものだった」


リリーは難しい顔をしながら、エイゼンの手元の論文を覗き込んだ。


「……じっちゃんは、その話を信じるの?」


エイゼンはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「正直なところ、完全には信じていない」


「にゃふん?」


「だが——これは、一考に値する。もし、この理論が真実なら、病の治療法そのものが変わる可能性があるからな」


リリーは口を尖らせながら、頬杖をついた。


「でも、じっちゃんの研究もすごいのだっ? そんな“未知の医療”なんて、じっちゃんが調べたらすぐ分かるんじゃないの?」


「……いや、私の研究分野とは根本的に異なる」


エイゼンは静かに言った。


「私が研究しているのは、“魔導と人体の関係”だ。だが、これは“魔力を一切使わない医学”の話だ」


リリーは目を丸くした。


「魔法を使わないで……医療?」


「そうだ。つまり、魔力に頼らず、人間の身体を“科学”で治療するという考え方だ」


リリーはしばらく考え込むような仕草を見せ——やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……うにゃ~、なんだか、じっちゃんもワクワクしてるみたいなのだっ!」


エイゼンはクスリと笑った。


「まあな」


そして、改めてリリーの目を見据え、静かに告げた。


「だから、お前に行ってもらう」


リリーは、ピンと来ていなかった。


「……へ?」


「ロストンへ行け」


リリーはぽかんと口を開けたまま、エイゼンを見つめる。


「じっちゃん、急に話飛びすぎなのだっ!!」


エイゼンは肩をすくめ、机の上の論文を指で弾いた。


「お前の体の“問題”を解決する手がかりが、そこにあるかもしれん」


「……にゃ?」


「その“未知の医療”の理論——それが、お前の“バーサークモード”を抑える手がかりになる可能性がある」


リリーは、エイゼンの真剣な目を見て、小さく息をのんだ。


「ロストンへ行き、その医者と会え」


エイゼンは、低く、しかしはっきりとした口調で言い切った。


リリーはしばらく沈黙し——やがて、小さく口を尖らせた。


「……にゃふん。海は、また今度にするのだっ!」


こうして、リリー・シュバルツのロストン行きが決定したのだった。


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