第151話
《リリー・シュバルツの日常》——ルーヴェンの朝
ルーヴェンの朝は、まるで大地が目を覚ます瞬間そのものだった。
石畳の大通りには早朝から商人たちが行き交い、華やかな看板を掲げる店々が次々と店を開く。
露店の屋台からは香ばしいパンの焼ける匂いが漂い、果物商が並べたカラフルな果実が朝の光を浴びて輝いている。
「新鮮なミラベルオレンジはいかがーっ!」
「今日の焼きたてパイは特売だよ!」
威勢のいい掛け声が飛び交うなか、リリー・シュバルツは通りを軽やかに跳ねるように歩いていた。
「うっわ~、今日もにぎやかだにゃ♪」
目を輝かせながら、彼女は店先に並ぶ色とりどりの果物を眺める。
首都ルーヴェンは、ロストンやベルナーク交易市場とはまったく異なる雰囲気を持っていた。
ロストンは「港と職人の街」、ベルナーク交易市場は「異国の文化が交差する市場」。
だが、ルーヴェンは 「魔導と文明が交わる、帝国の心臓」 だった。
巨大な魔導灯が街の要所に設置され、昼夜を問わず明かりを灯している。
空を見上げれば、魔導機関を動力とする空中輸送艇が滑るように飛び、
街の中心には、王立医療機関や魔法兵士養成学院、帝国魔導庁といった、帝国の権威を象徴する施設がそびえていた。
「うーん、やっぱりルーヴェンってすごいのだっ!」
リリーは伸びをして、澄んだ朝の空気をいっぱいに吸い込む。
ここでは何もかもが大きく、壮麗で、賑やかで、そして——少しだけ息苦しい。
《エイゼンの研究所》——リリーの住処
リリーが住んでいるのは、ルーヴェンの南区にある 「エイゼンの研究所」 。
表向きは王立医療機関の関連施設として登録されているが、実態は「エイゼン・ハーゼの個人的な研究の場」であり、王立医療機関の上層部ですら把握しきれていない実験施設だった。
研究所は、白と青を基調としたモダンな石造りの建物で、周囲には実験用の薬草畑や小規模な温室がある。
内部には魔導医療に関する膨大な書物や、独自に開発された魔導装置、錬金術器具が所狭しと並んでいた 。
リリーはそんな難しそうなものには目もくれず、研究所の屋根の上でゴロゴロするのが日課だった。
「朝からまじめに研究とか、じっちゃんは本当にすごいにゃ~」
研究所の奥では、エイゼンが魔導医療の研究を続けている。
彼の開発する薬や魔導器具の数々は、ラント帝国の医療に大きな影響を与えていた。
だが、リリーにとっては 「難しいことを考えているおじいちゃん」 くらいの認識だった。
「おーい、じっちゃんー! 今日の朝ごはんは?」
天窓をのぞき込みながら声をかけると、奥から呆れたような声が返ってきた。
「……お前はまず、朝の訓練を終わらせろ」
「えぇーっ!? そんなの後でいいのだっ!」
「お前な……いい加減、少しは学問にも興味を持て」
「学問……? うーん……考えると眠くなるにゃ~」
バサッと屋根の上に寝転がるリリーに、エイゼンは深い溜息をついた。
「まったく……お前が本気を出せば、MSSでも優秀な生徒になれるものを」
「え~? 戦うのは楽しいからやるけど、頭を使うのはイヤなのだっ!」
「……お前は本当に、私の弟子で合っているのか?」
「もちろんにゃ! じっちゃん、大好き!」
そう言って、リリーは飛び降りるように研究所の庭へと着地する。
「よーし! じゃあ、MSSに行ってくるのだ!」
「せめて遅刻はするなよ」
「たぶん大丈夫にゃ!」
たぶん——という単語に、エイゼンはまた深い溜息をついた。
《魔法兵士養成学院(MSS)》——授業風景
リリーが駆け込んだ時、学院の鐘がちょうど鳴り響いていた。
MSSは首都ルーヴェンの 「学術地区」 に位置し、壮大な城塞のような建物が並ぶ広大な敷地を誇る。
正門をくぐると、すぐに見えてくるのは学院の メインタワー 。
ここでは、帝国の魔導戦術に関する高度な研究が行われ、各学部の学者や軍関係者が常に出入りしていた。
広い訓練場では、生徒たちが剣を振るい、魔法を撃ち合う風景が日常的に繰り広げられている。
「おーっ、今日もみんな元気にゃ!」
リリーは手を振りながら、治癒魔法学部の講義室へ向かう。
……が。
「うぇー……やっぱり難しい話ばっかりだにゃ……」
《魔法による細胞再生の基礎理論》 という板書を見た瞬間、リリーの目が半開きになる。
(これ、ぜったい眠くなるやつ……)
隣の席の生徒が真剣にノートを取るなか、リリーはひそかに脱出計画を立てる。
(こっそり教室を抜け出して、戦技学部の訓練場に行こう……)
そーっと席を立ちかけたその瞬間——
「シュバルツ、座れ」
「ぎゃにゃっ!? 先生、こっち見てたの!?」
「当然だ。お前は毎回この時間になると抜け出そうとするからな」
「えぇ~、でも戦うほうが楽しいにゃ~」
「お前は戦場で死にたくなければ、まず傷を治す知識をつけろ」
「ぐぬぬ……」
先生に睨まれ、渋々席に座り直すリリー。
だが、彼女の性格をよく知る周囲の生徒たちは、(リリーが大人しく講義を聞くのは、せいぜい5分だな……) と密かに予測していた——。