第150話
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アレクシス邸にて——新たな計画
ヴィクトールの言葉を聞き終え、オリカは静かに目を閉じた。
貴族派が医療を完全に統制しようとしているなら、診療所の存続どころか、独立した医療そのものが消え去る可能性がある。
「……その計画が本格化するのは、どのくらい先ですか?」
「まだ水面下の動きだが、商人ギルド内にもすでに影響が出始めている。貴族派の医療施設を利用しなければ商売の許可を下ろさない——そんな話が、ちらほらと耳に入るようになってきた」
「……最悪ですね」
オリカは唇を噛み、拳を握りしめた。
ギルバートが復帰すれば、一時的に商人ギルドの均衡は保たれるかもしれない。
しかし、それはあくまで時間稼ぎでしかない。
貴族派の支配が進めば、診療所はもちろん、オリカの医学そのものが根絶やしにされる可能性すらある。
「だからこそ、すでに“別の手”を打った」
ヴィクトールは書簡を軽く指で弾き、低く続けた。
「——“魔法薬学研究機構”の設立だ」
オリカは一瞬、息をのんだ。
「……魔法薬学研究機構?」
「そうだ。まだ仮の名称だがな。お前の診療所だけを守ろうとしても、いずれ袋小路に追い込まれる。ならば、貴族派の手が及ばぬ場所で“新たな医療体系”を築くしかない」
ヴィクトールは椅子に深く座り直し、オリカをじっと見据えた。
「貴族派は、権威のあるものしか認めない。そして、彼らが認めるのは“学問”だ。ならば、お前の医療技術をただの“異端の医術”ではなく、“新たな医学”として体系化する。それが、今回の計画の本質だ」
「学問として……?」
オリカは驚きながらも、すぐにその意図を理解した。
「つまり、私の技術を“正式な医療学”として確立する、ということですか?」
「その通りだ」
ヴィクトールは静かに頷いた。
「すでにラント帝国の薬学関係者と水面下で話を進めている。だが、これはあくまで独立機関として動かさなければならない。アレクシス家が関与していると知られれば、貴族派に潰される可能性が高いからな」
オリカはその言葉を噛みしめるように聞いた。
「……でも、そんな独立した研究機関を立ち上げるのに、資金や支援者は?」
「それは心配いらない」
ヴィクトールは微かに笑い、懐から別の書簡を取り出した。
「機構の立ち上げ資金は、私が個人的に負担する。表向きは“ある薬学者”が設立した研究機関として扱い、貴族派の目が届かぬようにする。だが、実際には、お前の研究記録と診療成果が機構の中核となる」
「……私の診療記録が?」
「そうだ。これまでお前が記録してきた治療法、魔法薬の精製過程、病の原因の分析……それらを体系化し、学問として形にする。いずれ、貴族派が“無視できない存在”になるまで積み重ねるんだ」
オリカは、胸の奥で何かが強く鳴るのを感じた。
確かに、診療所を守るだけでは限界がある。
だが、“学問”として認められれば、貴族派ですらそう簡単に否定することはできなくなる。
「……これは、長い戦いになりそうですね」
「そうだな」
ヴィクトールは微かに口元を緩めた。
「だからこそ、お前にはしっかりとした協力者が必要だ」
そう言って、彼は書簡を指で弾いた。
「数日後、“ある人物”がロストンを訪れる」
「……?」
オリカは眉をひそめる。
「誰ですか?」
「詳しくは聞いていないが、ラント帝国の“エイゼン・ハーゼ”という名の薬学者は知っているか?」
オリカはその名を聞いて、首を振った。
ヴィクトールは軽く頷きながら、指で書簡の封をなぞった。
「……だろうな。エイゼン・ハーゼの名は、一般の医療界ではあまり知られていない。だが、王立医療機関の内部では、ある種の異端児として恐れられている男だ」
「異端児……?」
オリカは眉をひそめた。
「元々は王立医療機関に所属する魔術師であり、治癒魔法においては帝国内でも指折りの権威だった。だが、彼は魔法治療の限界を痛感し、従来の医療体制に疑問を抱くようになった」
ヴィクトールの言葉に、オリカは思わず息をのむ。
「彼は、“医療は貴族の特権ではなく、万人に平等であるべきだ”と公言し、王立医療機関の上層部と激しく対立した。……結果、彼の提唱する研究はことごとく妨害され、彼自身も表舞台から遠ざけられた」
「……そんな人が、私の医学に興味を?」
「そういうことだ」
ヴィクトールは微かに笑いながら、書簡を机の上に置いた。
「エイゼンは、魔法に依存しない新たな医学を探している。お前が貴族派の医療支配に抗いながら、独自の診療を行っていることを知れば、必ず関心を持つだろう」
オリカはしばらく黙考した。
彼女自身も、貴族派の医療独占に反発しながら戦っている。しかし、王立医療機関という“正統な場”の内部から異議を唱える者がいるとは思っていなかった。
「ですが……そのような立場の方が、私に直接会いに来るとは考えにくいですね」
「その通りだ」
ヴィクトールは指を組み、静かに告げる。
「エイゼン・ハーゼ本人は動かない。だが、彼は“助手”を一人、ロストンに送ると言ってきた」
「助手……?」
「表向きは王立医療機関の一員だそうだが、エイゼンの信念を受け継ぎ、貴族派の体制に疑問を抱いている人物らしい。お前の医療技術が本物かどうか、その助手が見極める。そして、結果次第では……エイゼン本人が動くことになる」
オリカは思わず、唇を引き結んだ。
「つまり、私は試されるのですね」
「その通りだ」
ヴィクトールは微かに笑った。
「お前の医学が、本当に新たな医療の礎となり得るのか——エイゼンは、慎重に判断したいのだろう。だが、その機会を得られるだけでも十分な意味がある」
オリカは静かに頷いた。
王立医療機関の権威ある役員が、貴族派と対立しながらも新たな医療を模索している。
もし彼の信頼を得ることができれば、オリカの医学は単なる“異端の医術”ではなく、“正式な学問”としての道を歩み始めるかもしれない。
「……その助手は、いつロストンに?」
「三日後だ」
ヴィクトールは短く答え、書簡を軽く指で弾いた。
「指定された宿で待ち合わせをすることになっている。その助手の名は《リリー・シュバルツ》だ。お前はそこで、彼女と会い、自らの医療を証明しなければならない」
オリカは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
——王立医療機関。
——魔法に頼らない医療。
——貴族派との戦い。
新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。




