第149話
オリカは、慎重に調合した薬を手に、ギルバートの寝室へと向かった。
ベルナーク交易市場から帰還してすでに数日——
彼の体調は、安定はしているものの、まだ完全な快方には向かっていない。
「先生……」
扉の前で待っていたマーサが、小声でオリカに報告する。
「ギルバート様は、今朝も体調の不良を訴えていました。痰の色は以前より確実に良くなっていますが、依然として倦怠感が強く、食欲も戻っていません」
「そう……わかった。ありがとう、マーサ」
オリカは静かに扉を開けた。
室内は薄暗く、窓際のカーテンから漏れる光だけがぼんやりとベッドを照らしている。
ギルバートは枕にもたれ、薄く開いた目でオリカを見た。
「……戻ったか」
彼の声はかすれていたが、以前のような疑念は感じられない。
オリカはベッドの側に近づき、静かに薬の瓶を取り出した。
「ギルバート様、処方薬が完成しました」
「……そうか」
彼はゆっくりと息を吐いた。
「お前たちの治療を受けて、確かに俺の体は良くなっている……」
ギルバートは薄い笑みを浮かべ、オリカを見つめた。
「もはや、お前たちに疑いを持つ理由はない。……任せると決めた」
オリカは、彼の言葉をしっかりと受け止めるように頷いた。
「ありがとうございます。では、さっそく治療を始めましょう」
オリカはマーサに合図を送り、慎重に薬を準備する。
ギルバートの容態に合わせ、最適な量を計り、温め直した煎じ薬を小さな杯に注ぐ。
「ゆっくり飲んでください」
ギルバートは杯を受け取り、しばらくその中の液体を見つめていた。
ルーンベリーの淡い香りが、湯気とともに鼻をくすぐる。
彼は短く息を吸い、ゆっくりと口をつけた。
——苦い。
だが、不思議と喉を焼くような刺激はなく、飲み込んだ瞬間に、かすかな清涼感が体内へと広がるのを感じた。
「……思ったより、飲みやすいな」
「解毒作用を強めるため、エルダースパイスを配合しています。少しずつ、体が楽になっていくはずです」
ギルバートは杯を飲み干し、再び枕にもたれた。
「……任せたぞ、医者」
「はい。——必ず治します」
オリカの声には、確固たる意志が込められていた。
——アレクシス邸にて
治療の開始から数時間後、オリカはアレクシス邸へと向かった。
ベルナーク交易市場での一件、そしてギルバートの病状について——
すべてをヴィクトールに報告するためだ。
「先生、お気をつけて」
診療所を出る際、マーサが小さく手を振る。
「うん。ギルバート様の容態に変化があれば、すぐに知らせて」
そう言い残し、オリカはエリーゼと共に街の丘の上へと歩を進めた。
ロストンの街並みは相変わらず喧騒に包まれている。
だが、以前よりもどこか緊張感が漂っていた。
貴族派の影響が、確実に強まっている——
そんな空気を感じながら、オリカはアレクシス邸の門を叩いた。
「ヴィクトール様にお会いしたいのですが」
しばらくして、屋敷の執事が扉を開ける。
「オリカ様、どうぞこちらへ」
執事に案内され、応接室へと通された。
程なくして、ヴィクトールが姿を現す。
「オリカか。待っていたぞ」
彼は、変わらぬ落ち着いた表情で席に座る。
オリカも向かいの椅子に腰を下ろし、深く息をついた。
「ギルバート様の治療を、本格的に開始しました」
ヴィクトールは静かに頷く。
「……それで、容態は?」
「まだ完全な回復には時間がかかりますが、順調に進めば、数週間で快方へ向かうはずです」
「そうか……」
ヴィクトールは顎に手を当て、しばらく考え込むような仕草を見せた。
「ギルバートの回復が順調なら、商人ギルドにとっても朗報となる。
だが、その分、貴族派の動きも活発化するかもしれん」
「……はい。私たちの診療所が目をつけられる可能性もあります」
オリカは慎重に言葉を選びながら続ける。
「ギルバート様が回復すれば、商人ギルド内の均衡は変わるはず。
でも、それを面白く思わない勢力が、次の手を打ってくると思います」
「……その通りだな」
ヴィクトールは深く頷き、オリカをじっと見据えた。
「オリカ、お前はこれからどう動くつもりだ?」
「診療所の運営を守りながら、商人ギルドとも連携を深めます。
貴族派の動きがあるなら、それを事前に察知できるよう情報網を強化するべきです」
ヴィクトールはわずかに口元を上げた。
「ふむ……肝が据わっているな」
「医者として、できることをしようと思って…」
オリカは静かに答えた。
ヴィクトールはしばらく考え込んだ後、懐から一通の書簡を取り出した。
「これは?」
「貴族派の内情を探るための“情報網”の一部だ。ある筋から入った情報だが……
貴族派は“ある計画”を進めているらしい」
「ある計画?」
ヴィクトールは書簡を指で弾き、低く呟いた。
「“医療の完全管理”——貴族派は、ロストンの全医療機関を統制下に置こうとしている」
オリカの表情が険しくなる。
「それは……私たちの診療所も?」
「当然、例外ではない」
ヴィクトールは書簡をテーブルに置き、指で示す。
「彼らの狙いは、薬草や魔法薬の個人運営店舗を含む民間医療を完全に封じ、貴族派が指定した治療師や薬剤師のみを許可する体制を作ることだ。
つまり、お前たちの診療所は、いずれ閉鎖へ追い込まれることになる」
オリカは静かに拳を握る。
「……絶対に、そんなことはさせません」
「その気概があるなら、お前には次の手を打ってもらう必要がある」
ヴィクトールは改めて、オリカを見据えた。
「ロストンの“医療の未来”を守るために——お前はどう動く?」




