第148話
——診療所の調合室にて
ロストンの診療所「うさぎのおうち」。
奥の調合室に足を踏み入れたオリカは、棚に並んだ薬草と薬瓶を確認しながら、ギルバートの治療薬を作るための準備を始めた。
調合室には、静かな緊張感が漂っていた。
——これはただの煎じ薬ではない。
彼の病の原因は、単なる結核ではなく、神経毒性の病原体による“青痺病”が関与している。
それを根本から断つためには、病原体の活動を抑制し、神経の異常興奮を鎮める成分を的確に抽出しなければならない。
オリカは木製の調合台の前に立ち、慎重にギルバートの治療薬の調合に取り掛かる。
1. 薬草の選定と処理
調合台には、今回の治療に必要な3種類の薬草が並んでいた。
□ ルーンベリー(病原体の増殖抑制)
□ セラフィム・リーフ(神経の鎮静作用)
□ エルダースパイス(解毒・代謝促進)
「……まずは、成分の抽出から」
オリカは棚から乾燥したルーンベリーの実を取り出し、丁寧に乳鉢へと移す。
この薬草の有効成分を最大限に引き出すためには、単に煎じるだけでは不十分だ。
「マーサ、溶媒の準備をお願い」
「はい、先生!」
マーサは慌ただしく動き、準備された各種の溶媒を運んでくる。
□ 水抽出(水に溶けやすい成分を取り出す)
□ アルコール抽出(水に溶けにくい有機成分を抽出)
□ 酸性抽出(植物の酸性成分を分離)
□ 油脂抽出(脂溶性の成分を分離)
「今回は……アルコール抽出と水抽出を組み合わせるわ」
【手順①:ルーンベリーの成分抽出】
1. 乾燥したルーンベリーを細かく砕き、エタノールに浸す。
・目的:エタノールは細胞壁を壊し、抗菌作用を持つフラボノイドやアルカロイドを効率的に抽出する。
2. 常温で6時間浸漬し、その後、低温で3時間煮沸する。
・目的:温度を上げることで、成分の溶解効率を高める。
3. 抽出液を濾過し、エタノールを蒸発させて濃縮する。
・目的:濃縮することで有効成分の含有率を高める。
4. 水溶性成分を抽出するため、濃縮液を蒸留水に溶解し、さらに攪拌する。
・目的:水溶性の抗菌成分を最大限に取り出す。
ルーンベリーのエキスは、透き通った紫色の液体へと変化していった。
「……いい感じ」
オリカは慎重に抽出液を薬瓶に移し、次の工程へと移る。
【手順②:セラフィム・リーフの神経鎮静成分の抽出】
セラフィム・リーフは神経の鎮静に効果があるとされる薬草だが、その有効成分は水に溶けにくいため、別の処理が必要だった。
1. 乾燥葉を乳鉢で細かく粉砕する。
2. 1-ブタノール(極性溶媒)を用いて成分を抽出。
・目的:神経調整作用を持つ成分(アルカロイド系)を効率的に分離する。
3. 薄層クロマトグラフィー(TLC)で、適切な成分のスポットを確認する。
・目的:どの成分が有効なのかを視覚的に特定する。
4. 遠心分離機を使い、不要な成分を分離。
・目的:純度の高い成分だけを抽出する。
薄い黄色の液体が試験管の中でゆっくりと揺れる。
これが神経の興奮を鎮める鍵となる成分だ。
【手順③:エルダースパイスの解毒成分の抽出】
エルダースパイスの有効成分は、主に血行促進作用を持つポリフェノール類にある。
1. 乾燥した花弁と葉を低温で乾燥させ、油脂抽出を行う。
・目的:水溶性成分と脂溶性成分の両方を分離する。
2. 酸性水(pH 4.0)を使い、解毒作用のある有機酸を分離する。
・目的:毒素の排出を助ける成分を抽出。
3. 最終的に、低圧フラッシュクロマトグラフィーで精製する。
・目的:他の成分と混ざらないよう、必要なものだけを濃縮。
「これで、3つの主要成分が揃った!」
オリカはそれぞれの薬液を見つめながら、小さく息をついた。
「先生……これをどうやって配合するんですか?」
マーサが興味深そうに尋ねる。
「それが次の課題。配合比率を間違えれば、効果が弱くなるか、逆に毒になる可能性もある……」
オリカは調合ノートを開き、配合比率を慎重に決めていく。
☑︎ ルーンベリーエキス:50%(病原体の増殖を抑える)
☑︎ セラフィム・リーフエキス:30%(神経の鎮静)
☑︎ エルダースパイスエキス:20%(解毒・代謝促進)
「この割合で試してみましょう」
「……でも、どうやって正しく混ぜるんですか?」
「薬の混合には、均質化するための“溶媒”が必要なの」
オリカは棚から薄青色の液体を取り出した。
「これは“魔導エマルジョン”。薬草の有効成分を均等に分散させる魔法薬の一種よ」
このエマルジョンを加えることで、薬草の成分が沈殿せず、均一に混ざる。
「よし……これで準備は整った」
オリカは深く息をつき、次の工程へと移った。
——いよいよ、最終調合の段階だ。
静寂が満ちる調合室の中で、オリカは慎重に手を動かしていた。
ルーンベリー、セラフィム・リーフ、エルダースパイス——
それぞれの薬草から抽出した有効成分は、無色透明のガラス瓶の中で静かに揺れている。
「ここからが本番…!」
彼女は目の前に並ぶ試験管を見つめながら、魔導エマルジョンを慎重に加えていく。
この液体は、薬草の成分を均一に混合し、安定した状態に保つ働きを持つ。
——適切な配合を行うこと、それが薬の“鍵”だった。
2. 比率調整と試験調合
「……まずは試験調合から始めるわ」
オリカは計量スプーンを手に取り、それぞれの薬液を慎重に調合していく。
☑︎ ルーンベリーエキス 50% —— 病原体の増殖抑制
☑︎ セラフィム・リーフエキス 30% —— 神経鎮静作用
☑︎ エルダースパイスエキス 20% —— 解毒・代謝促進
「エリーゼ、攪拌用の魔導石をお願い」
「ええ、これね」
エリーゼが差し出したのは、《魔導攪拌石》と呼ばれる小さな宝石だった。
これは微弱な魔力を流すことで、薬液の分子を均一に分散させることができる。
オリカは薬瓶の底にそれを沈め、ゆっくりと魔力を流す。
——コポ、コポ……
薬液が静かに波立ち、淡い青白い光が水面に広がっていく。
徐々に、液体が滑らかな粘性を帯び始めた。
「……悪くない」
オリカは慎重に薬液を小さな試験管に移し、経過を観察する。
魔導エマルジョンのおかげで、薬液は安定した状態を保っている。
3. 有効成分の確認(魔法的顕微観察)
「先生、ちゃんと病原体に効いてるかどうか、どうやって確かめるんですか?」
マーサの疑問に、オリカは頷いた。
「《精視》を使う」
彼女はカウンターの奥から小さな水晶を取り出し、それをランプの光にかざした。
これは、本来は宝石の鑑定や呪詛の痕跡を探るために使われる魔法だが、オリカはこの魔法を応用し、病原体の動きを観察する手段として利用していた。
彼女は慎重に薬液の数滴をスライドガラスの上に垂らし、その上にギルバートの血液を一滴落とす。
そして、魔導水晶を通してその変化を観察した。
「……やっぱり、いた」
水晶を通して見ると、ギルバートの血液の中には、微細な光の粒が異常な動きを見せていた。
これは通常の結核菌とは異なり、神経系に影響を与える未知の病原体である可能性が高い。
「薬を加えてみるね」
オリカは薬液を少量垂らし、再び観察する。
——すると、驚くべきことが起こった。
病原体が、まるで何かに反応するように、動きを鈍くしていく。
やがて、青白い光を放っていた粒子が、徐々に消えていった。
「……効いてる」
エリーゼが息を呑む。
「やはり、ルーンベリーが鍵だったのね」
「でも、完全に消えてはいない。おそらく、この薬を長期的に使うことで、病原体を抑えられるはず」
オリカは観察結果をノートに記録し、次の工程へと移った。
4. 最終調合と剤形の決定
「さて、これをどんな形でギルバート様に投与するか……」
オリカは考えた。
⚫︎ 煎じ薬(即効性があるが、長期保存に向かない)
⚫︎ 錠剤(効果が安定するが、加工に手間がかかる)
⚫︎ 注射薬(直接血流に入るが、この時代には技術が未発達)
「……今回は煎じ薬でいきましょう」
ギルバートの状態を考えれば、即効性が最も重要だった。
☑︎ ルーンベリーエキス 30ml
☑︎ セラフィム・リーフエキス 15ml
☑︎ エルダースパイスエキス 10ml
☑︎ 魔導エマルジョン 5ml
これを調合し、ゆっくりと温めながら最適な濃度に仕上げる。
「マーサ、火加減を調整して。沸騰させちゃダメだからね?」
「はい、先生!」
ゆっくりと湯気が立ち上る。
薄く淡い紫色の液体が、静かに煮詰められていく。
やがて、オリカは慎重に木杓子を取り出し、薬液をすくって光に透かした。
「……完成…した」
薬液は、適度なとろみを持ち、香りも柔らかく仕上がっている。
これなら、ギルバートの衰弱した体でも受け付けられるはずだ。
オリカは煎じ薬を小さな陶器の瓶に移し、しっかりと栓を閉めた。
「これで、ギルバート様の治療を本格的に始められる!」
彼女は深く息をつき、エリーゼとルシアンを見た。
「……あとは、ギルバート様がこの薬を受け入れてくれるかどうかね」
彼はこの一年、日に日に重篤化する病に苦しみ、治る見込みのない魔法薬に対して強い不信感を持っていた。
この薬を信じて飲んでくれるかどうか——
それは、彼の意志次第だった。




