第147話
ロストンの街並みが近づくにつれ、オリカの心は複雑な思いで揺れていた。
診療所を離れてから約1ヶ月——マーサは無事にやれているだろうか?
そして、ギルバートの容態はどうなっているのか?
スレイヴォルグの蹄音が石畳を打ち、彼らは診療所「うさぎのおうち」の前で馬を止めた。
木製の看板は変わらずそこにあり、窓には柔らかな灯りがともっている。
扉を開くと、すぐに懐かしい香りが鼻をくすぐった。
乾燥させた薬草の香り、煎じ薬の微かな匂い——
「——先生!」
中に入るなり、マーサが目を見開いて駆け寄ってきた。
彼女の顔には驚きと安堵が入り混じっている。
「おかえりなさい! ご無事で……」
「ただいま、マーサ」
オリカは彼女の肩に手を置き、優しく微笑んだ。
マーサの表情から、彼女がこの1ヶ月の間、どれほど気を張って診療所を守っていたのかが伝わってくる。
「ギルバート様の容態は?」
マーサはすぐに表情を引き締め、真剣な声で答えた。
「順調に回復されています。咳の回数は明らかに減りましたし、発熱もかなり落ち着いてきています」
「よかった……」
オリカは胸をなでおろした。
だが、マーサの表情にはまだ不安の影が残っている。
「ただ……少し気になることがあるんです」
「気になること?」
「はい。ギルバート様は確かに回復していますが……時折、意識が混濁することがあります。幻覚を見ているような反応を示されたり、夜中に急に目を覚まして取り乱されたり……」
オリカは眉をひそめた。
(やはり……神経症状がまだ残っている)
青痺病の影響が完全に抜けていないのか、それとも……?
「ギルバート様は今、どこに?」
「寝室でお休みになっています」
オリカは頷き、マーサを伴って診療室の奥へと進んだ。
寝室の扉を開けると、室内は静かだった。
ベッドの上には、ギルバートが横たわっている。
彼の顔色は以前よりも格段に良くなっていた。
頬にはわずかに血色が戻り、息遣いも穏やかだ。
「ギルバート様、聞こえますか?」
オリカがそっと声をかけると、ギルバートはゆっくりと目を開けた。
薄青い瞳が、まだ夢の中にいるかのようにゆらりと揺れる。
「……戻ったのか」
かすれた声だった。
「ええ、帰ってきました」
ギルバートは天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。
「……ここ1ヶ月間、どうでしたか? 何か異変を感じましたか?」
ギルバートはしばらく沈黙し、それから静かに口を開いた。
「……夢を見ていた」
「夢?」
「……遠い海の夢だ」
ギルバートの瞳はどこか遠くを見つめていた。
「波が押し寄せては引き、白い霧の向こうに何かが見えた……
誰かが手を伸ばしている……だが、俺はそれを掴めなかった……」
オリカは慎重に彼の言葉を分析する。
神経毒の影響が残っている可能性。
または、長期間の高熱による幻覚作用——
だが、ギルバートの様子は以前のような病の苦しみに満ちたものではなかった。
(この状態なら……あと少しで回復に向かうはず)
オリカは改めて彼の脈を測り、呼吸音を確認する。
心拍は安定している。
肺の雑音も、以前よりさらに軽減されている。
(あと一歩……もう少しで、完全に回復できる)
だが、そのためには、青痺病の神経症状を完全に抑え込む治療が必要だった。
オリカはそっとギルバートの手に触れる。
「あと少しです、ギルバート様。あなたの体は確実に快方へ向かっています」
ギルバートは目を閉じ、静かに息をついた。
「……そうか」
彼の表情には、以前にはなかった穏やかさが浮かんでいた。
(絶対に治してみせる)
オリカはそっと微笑んだ。




