第144話
◇
聖エリナス修道院の門は、朝焼けの光を浴びて静かにそびえ立っていた。
石造りの堅牢な門と、鉄柵のついた正門。
その先には、修道士たちの姿が見え、既に施療会の準備が進められているようだった。
オリカたちは、施療会の助手としての身分証を手に、慎重に列へと並んでいた。
ダリウスが用意した“関係者用の証明書”のおかげで、正面から修道院へ入ることが可能になったのだ。
「……さて、ここからが本番だね」
エリーゼが小声で呟く。
「まずは、施療会の動きを把握しましょう」
オリカは静かに頷く。
ルシアンは周囲を見回しながら、低く囁いた。
「目立つ動きは避けろよ。ここには貴族派の連中もいるはずだ」
「わかってる」
オリカはそう答えながら、前へと進んだ。
やがて、修道院の入り口にいたシスターの一人が、彼女たちの身分証を確認し、軽く頷く。
「施療会の助手の方ですね。こちらへどうぞ」
修道院の中へと導かれる。
目の前に広がるのは、清潔な白い石造りの大広間——
そこには既に多くの患者たちが座って順番を待ち、修道士や医者たちが忙しそうに動き回っていた。
奥には、薬草の棚が並び、いくつかの医療器具が整然と並べられている。
「……見た感じ、本当に施療会は行われているみたいね」
エリーゼが呟く。
「でも、ダリウスの話じゃ、この奥に“別の倉庫”があるはずよね?」
オリカは静かに辺りを見回した。
「……そうだね。まずは、ここの流れに馴染みながら、倉庫の位置を探ろう」
ルシアンが腕を組む。
「手分けするか?」
「そうね……私とエリーゼは助手として動くから、ルシアンは周囲を探ってもらえる?」
「了解」
三人はそれぞれ役割を決め、動き始めた——。
次なる目的は、修道院の奥にある“本当の倉庫”の場所を突き止めること。
施療会の名のもとに隠された、貴族派の薬草流通の秘密を暴くために——。
オリカとエリーゼは、施療会の助手として動きながら、慎重に修道院の内部を探ることにした。
施療会に訪れる患者たちは、貧民街の住人がほとんどだった。
彼らは順番を待ち、医者たちの診察を受け、必要最低限の薬を受け取る。
オリカは診療の補助をしながら、薬棚の動きを観察していた。
(ダリウスが言っていたとおり、ここの薬草の流れはちょっと変かも)
必要なはずの薬草が、妙に整然と並び、消費されている形跡が少ない。
それなのに、患者たちには「在庫が限られている」と言い渡され、ごくわずかな薬しか与えられない。
(薬はどこに消えているの……?)
エリーゼも同じことを考えているようだった。
「ねえ、オリカ……」
彼女は小声で囁く。
「この施療会、本当に“表向き”の活動だけなのかしら?」
「……それは、私も気になってる」
オリカは薬棚の整理をしながら、注意深く観察を続ける。
一方で、ルシアンは、修道院の構造を探るために慎重に歩き回っていた。
大広間の奥へと続く廊下。
そこには、施療会とは別のシスターたちが忙しく動き回っていた。
「……なるほどな」
彼は静かに息を吐く。
(やはり、施療会とは別に何かが動いている)
彼は壁際に身を寄せながら、奥の倉庫へと続く扉を見つめた。
そこには、修道士たちが警備のように立っていた。
(あそこが、ダリウスが言っていた“本当の倉庫”か?)
ルシアンは慎重に近づこうとした——その時。
「——あなた」
静かな声が、彼の背後からかけられた。
彼は反射的に振り向く。
そこに立っていたのは、白い修道服を纏った一人のシスターだった。
透き通るような青い瞳に、整った顔立ち。
その表情には、どこか冷たいものが感じられた。
「あなたは、施療会の関係者かしら?」
「……ああ」
ルシアンは平静を装いながら、軽く頷く。
「ちょっと迷ってしまってね。倉庫の場所を探していたんだ」
シスターはじっと彼を見つめる。
「倉庫の管理は、私たちが行っています。関係者以外は立ち入らないでください」
淡々とした口調だった。
(……これは、厳重に管理されている証拠だな)
ルシアンは軽く肩をすくめる。
「わかったよ。失礼した」
そう言いながら、彼は踵を返し、大広間へと戻る。
(……やはり、あの倉庫に何かがある)
ルシアンは、オリカとエリーゼに合流し、すぐに情報を共有した。
「やっぱり、施療会の薬草の動きが不自然かも」
オリカが小声で呟く。
「ルーンベリーは、間違いなく“別のルート”で動かされてる」
エリーゼが考え込む。
「……そうね。となると、あの通路の奥を探る必要があるわ」
ルシアンは腕を組む。
「だが、あそこには監視がついている。どうやって潜り込む?」
オリカは一瞬考え——やがて、静かに口を開いた。
「……手はある」
視線を巡らせながら、小声で続けた。
「施療会の薬品補充のタイミングを利用するの」
エリーゼとルシアンが眉をひそめる。
「薬品補充?」
「うん。施療会では一定時間ごとに薬の補充が行われるわ。そのたびに倉庫の扉は開かれる……少なくとも、数分は中の様子を探れるはず」
ルシアンは腕を組み、考え込んだ。
「だが、どうやってそのタイミングを狙う?」
オリカは静かに目を細める。
「まず、私は薬棚の整理を手伝う。その間にエリーゼがシスターに“追加の薬草が必要”だと報告するの」
エリーゼが頷く。
「なるほど。施療会の運営者としては、必要な薬草が足りなくなるのは問題だものね」
「うん。補充要請が出れば、倉庫の管理者が動く。その時、ルシアンが倉庫への搬送係を装って中へ潜り込むのよ」
ルシアンは少し考えた後、小さく笑った。
「大胆な作戦だな。だが、理にかなってる」
「問題は、倉庫の中でどれだけの時間を稼げるかよ」
エリーゼが慎重に言う。
「補充作業の間は数分が限界でしょう。できるだけ早く情報を集めないと」
オリカは小さく頷いた。
「それじゃあ、すぐに動こう!」
オリカは施療会の医療助手として、薬棚の整理に取り掛かった。
患者たちが次々と診察を受け、処方された薬を受け取っていく。
エリーゼはシスターの一人に近づき、少し焦った様子で報告する。
「すみません、手持ちの鎮痛薬が少なくなってきました。倉庫から補充をお願いできますか?」
シスターは一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「分かりました。倉庫係に伝えます」
彼女は倉庫管理の修道士に声をかける。
「ルーカス、施療会の薬品が不足しているそうです。追加の搬送をお願いします」
ルーカスと呼ばれた男は軽く頷き、倉庫の方へと歩き出した。
——それと同時に、ルシアンも彼の後に続く。
「俺も手伝うよ。施療会が滞ると困るだろ?」
ルーカスはちらりとルシアンを見たが、特に疑問を抱く様子はなかった。
「そうか、助かる」
彼は倉庫の扉を開け、中へと入る。
ルシアンはその隙に、慎重に倉庫内を見渡した。
【倉庫の内部】
倉庫の中には、さまざまな薬草や薬瓶が整然と並んでいた。
奥の棚には、通常の施療会で使われる薬品とは異なる、より希少な薬草が並べられている。
ルシアンは小さく呟いた。
「……こんなに大量に?」
しかし、妙に整然とした配置だった。
(本当にここで施療会のために使われているのか……?)
その時、ルーカスが声をかける。
「おい、こっちの箱を持っていくぞ」
「了解」
ルシアンは一旦魔法薬や薬草の棚から目を離し、近くにいた修道士たちに気づかれないよう、倉庫の出入り口付近の棚に注意を向けた。
(……オリカたちが動ける隙を作らないと)
ルシアンはわざと足を滑らせ、箱を少し倒した。
「っと……悪い!」
木箱が小さく倒れ、中に入っていた布袋が床に落ちる。
「気をつけろ!」
ルーカスが注意するが、ルシアンはすかさず布袋を拾い上げながら、入り口付近の修道士たちの視線を引きつけた。
「…先に行っといてくれ。拾ったらすぐに行く」
「わかった。ちゃんと拾っとけよ」
「ああ」
散らばった薬草を拾うルシアンを横目に、ルーカスは先に倉庫を出た。
そのまま持ち場へと戻っていく姿を確認しつつ、修道士たちの気を引く。
(……今だ、オリカ)
ルシアンが僧侶たちの注意を引きつけた、その瞬間——
エリーゼは修道士たちの背後へと素早く回り込み、手をかざした。
「——スリーピア・ノクタ」
低く囁かれた呪文とともに、淡い光が修道士たちの背中にそっと触れる。
彼らは一瞬、戸惑ったようにまばたきをしたが、すぐに瞼が重くなり、その場に崩れ落ちた。
「……よし、成功ね」
エリーゼが手を下ろす。
オリカとルシアンは素早く扉を閉め、倒れた修道士たちを倉庫の中へと引きずった。
ルシアンが手早く麻袋を取り、彼らの体を覆い隠す。
「時間はそう長くは持たない。急ぐぞ」
オリカは静かに頷いた。
(この倉庫の奥に、ルーンベリーがある……)
今までの市場には決して流通しなかった希少な薬草が、ここに集められている可能性が高い。
オリカたちは倉庫の奥へと足を踏み入れた。
扉の向こうに広がっていたのは、ただの貯蔵庫ではなかった。
長く続く通路、左右に枝分かれする無数の区画——まるで蟻の巣のような構造になっていた。
天井には小さな明かりが灯され、整然と並ぶ木製の棚が奥へと続いている。
「……ただの倉庫じゃないわね」
エリーゼが驚いたように呟く。
「ここは、ただ薬草を保存しておくための場所じゃない。物流管理の中心地になってる」
「つまり……ここに集められた薬草は、どこかへ運ばれる仕組みになっている?」
オリカが問いかけると、ルシアンが頷いた。
「そうだろうな。貴族派が薬草を市場に流さず、独占しているとすれば、ここがその“中継地点”になってる可能性が高い」
「なら、ルーンベリーもここにあるはず」
オリカは決意を固め、奥へと進んだ。
次第に空気が冷たくなり、薬草独特の香りが漂い始める。
【修道院の大倉庫】
オリカたちは慎重に倉庫の奥へと進んだ。
埃一つない棚には、整然と薬草が並べられている。
乾燥された薬草、瓶詰めされた調合薬、そして——
「……これが、ルーンベリー」
オリカは小さな青白い実を手に取り、そっと指で撫でた。
光の加減で淡く輝くそれは、確かに市場では見かけない貴重な薬草だった。
「これだけの量……本当に施療会のために使われているの?」
エリーゼが疑念を抱いた声を上げる。
通常の施療会で消費される量に比べ、明らかに多すぎる。
「いや、これは……備蓄用だな」
ルシアンが棚の札を指差す。
そこには、「管理番号」と「搬出予定日」の記載があった。
「定期的にどこかへ運ばれてる……?」
オリカは札を指でなぞる。
日付を見る限り、すぐにでも外部へと輸送される予定になっている。
「となると、修道院のどこかに“搬出ルート”があるはずね」
エリーゼが周囲を見渡す。
「出入り口は正面と裏門、そして地下通路があるはずだ」
ルシアンが低く呟いた。
「修道院の構造上、外部への搬出ルートがなければ、こんなに大規模な流通はできない」
オリカはしばらく考え込む。
「この薬草が、どこへ運ばれてるのかを知る必要があるね」
「……だが、時間がない。誰かがこっちに向かってきてる」
ルシアンが鋭い目で扉の方を見やる。
ギィ……
扉の向こうで、わずかに床を踏む音がした。
「誰か来る!」
エリーゼが警告する。
オリカたちは咄嗟に棚の影へと身を潜めた——。
同じ頃、フィオナたちは倉庫へと続く廊下に足を踏み入れていた。
「……こっちは貯蔵庫か?」
「たぶんね。でも、倉庫の扉が開いてる……?」
ロッティが不思議そうに呟く。
フィオナは扉に手をかけ、慎重に中を覗き込む——。
——だが、そこには誰の姿もなかった。
「……?」
フィオナは首を傾げる。
(おかしい。今、確かに誰かがいた気配が……)
倉庫の床には、ごくわずかな埃の乱れ。
そして、棚の影には、かすかな熱気の残滓——誰かが直前までそこにいた証拠。
「……誰か、潜り込んでるわね」
フィオナの目が鋭く光った。
オリカたちは倉庫の反対側の扉から外へ出た。
ルーンベリーの入った袋をしっかりと抱えながら、小さく息を吐く。
「危なかった……」
ルシアンが低く呟く。
「誰かがこっちに向かってくる気配がした。…危なかったな」
オリカは小さく頷く。
(ここには、私たち以外にも何かを探る者がいる……)
だが、それが誰なのかは、まだ分からない。
——修道院の闇の中で、二組の影が交差した。
しかし、その正体を知るには、まだ時間が必要だった。
オリカたちは慎重に修道院を後にし、ベルナーク交易市場へと戻る道を急いだ。
ルーンベリーを手にした今、次の一手を考えなければならない。
(この薬草の行き先を探ることが、貴族派の裏を暴く鍵になるはず)
オリカはそう確信しながら、夜の市場の灯りを目指して歩みを進めた——。