第141話
風が草原を撫でる中、カイエは静かに口を開いた。
「……世界が豊かになること。それは、決して人々が豊かになることと同じじゃない」
その言葉に、オリカは目を瞬く。
「文明が発展すれば、交易が増え、物は溢れ、人々の生活は便利になる。……そう信じられてきた」
カイエの目は、遠く鉄道工事の光景を映していた。
「けれどな、世界が“豊か”になった分だけ、何かが失われるのもまた事実だ」
「……何かが、失われる?」
エリーゼが問いかけると、カイエは頷く。
「昔、この草原は果てしなく広がっていた。どこまでも続く大地を、私たちは自由に駆けた。それが遊牧民の生き方だった」
「けれど、街が増え、交易路が整備され、農地が広がるにつれ——私たちが駆ける草原は狭まり続けた」
「今はまだ、わずかに残されている。けれど、この鉄道が完成し、新しい街が生まれれば……きっと、もっと土地を奪われる」
その言葉には、深い静けさがあった。
「生きるということは、死ぬということでもある」
「……それが“定め”なんだ」
オリカは、思わずカイエを見つめた。
「定め……」
「どんなに抗ったとしても、人は生きる限り、必ず何かを失っていく」
カイエは、空を仰いだ。
「草原の民も、いずれは変わらなければならないのかもしれない。でも、それが本当に“豊か”になることなのかは、分からない」
オリカは、その言葉を噛みしめるように聞いていた。
「自然とは、そこにあるもの。人の手で作られるものではない」
カイエの声は、穏やかだったが、芯があった。
「だからこそ、起こるべきことに対して抗うのも、また“自然”なんだ」
——抗うこともまた、自然。
オリカは、ふと、自分がいた世界のことを思い出していた。
かつての日本。現代社会の姿。
技術が発展し、都市は広がり、インフラは整い、人々の暮らしは便利になった。
けれど——その裏で、何かを失ってはいなかっただろうか。
満員電車に揺られ、スマートフォンを手放せず、時間に追われる日々。
自然を感じる余裕もなく、便利さと効率を求めるばかりの世界。
それが、本当に“豊か”だったのか——?
「……オリカ?」
エリーゼの声に、オリカはハッとした。
「……ごめん、ちょっと考え事をしてたの」
カイエは、そんな彼女をじっと見つめていた。
「お前たちにとって、この世界はどう映る?」
その問いかけは、風のように静かに響いた。
◇
カイエの先導のもと、オリカたちは慎重に山道を進んだ。
鉄道工事の現場から離れ、星の民の縄張りを抜けるための安全なルートを辿る。
「もう少し進めば、しばらくはヴァルケリオンの目から逃れられるはずだ」
カイエがそう言いながら、振り返る。
オリカたちは彼女の後を追いながら、次第に視界が開けていくのを感じていた。
広がる草原、風の匂い。
カイエと過ごした時間が、ふと心に焼きついていた。
やがて、見晴らしのいい丘の麓にたどり着いた頃、カイエは足を止めた。
「ここまでくれば大丈夫だ」
オリカたちは息を整えながら、彼女を見た。
「カイエ、本当にありがとう!」
オリカが大きく手を振る。
カイエは少し照れくさそうに目を伏せたが、すぐに小さく笑い、手を挙げて応えた。
「礼なんていらない。お前たちの旅路に、星の導きがあることを祈る」
それだけ言うと、カイエは草原の向こうへと歩き出した。
オリカたちはその背中を見送りながら、再びベルナークを目指して駆け出す。
——文明の地へ、再び戻るために。




