第140話
翌朝、天幕の外に出ると、草原に広がる空は透き通るような青だった。昨夜の冷え込みが嘘のように、太陽の光が地を温かく照らし、朝露に濡れた草がきらめいている。
天幕のあちこちでは、人々が朝の支度をしていた。
家畜の世話をする者、焚火に薪をくべる者、天幕を片付ける者。
旅を続ける者もいれば、ここで暮らし続ける者もいる。
彼らにとっては、今日も変わらない日常なのだろう。
オリカたちは、出発の準備をしながら、昨夜の出来事を思い返していた。
ルシアンは何事もなかったような顔をしていたが、その瞳の奥には、まだ何かを抱えているようにも見えた。
そんな中、カイエが歩み寄ってくる。
「お前たち、今日のうちにベルナークへ戻るつもりなんだろう?」
「うん。…だけど、ルートは変えようと思ってる」
オリカの言葉に、カイエは少し考えた後、地図を広げた。
「ヴァルケリオンの縄張りを避けるなら、北の山道を通るのがいい」
彼が指し示すルートは、天幕から北西へ向かい、山の尾根伝いにベルナークへ抜ける道だった。
「こっちは獣道だが、ヴァルケリオンの巡回が少ない。道は険しいが、安全を考えればこっちの方がいいだろう」
オリカたちは頷き、天幕の人々に別れを告げるため、最後の挨拶をすることにした。
「またどこかで」
族長のもとへ向かうと、彼は穏やかな笑みを浮かべながら迎えてくれた。
「短い間だったが、お前たちがここに来たことに、何かしらの意味があったのだろう。星の導きがあらんことを」
「こちらこそ、お世話になりました。またいつか、どこかでお会いできるといいですね」
オリカが深く頭を下げると、族長は頷いた。
周囲の天幕の人々も、笑顔で手を振る。
「お前たち、また無茶をするんじゃないぞ!」
「ベルナークの市は賑やかだろうが、油断するなよ!」
「今度来る時は、もっとゆっくりしていけ!」
その言葉のひとつひとつに、彼らの温かさが滲んでいた。
そして——
「オリカ!」
振り向くと、ルーシィが駆け寄ってきた。
「もう行っちゃうのか?」
「ええ、また旅を続けるわ」
「……そっか」
ルーシィは少し寂しそうに笑い、それから手を差し出した。
「短い間だったけど、楽しかった。また会えたら、今度はもっとたくさん話そうね」
オリカも微笑み、しっかりとその手を握り返した。
「うん、またね」
こうして、一行は天幕を後にした。
カイエを先頭に、彼らは慎重に山路を進んでいく。
岩の多い道を抜け、草木の生い茂る谷を越えながら、ベルナークへと向かう。
険しい道を登りきった時、オリカはふと、視界の先に広がる光景に目を奪われた。
「……あれは?」
目の前に広がっていたのは、工事の進む鉄道の光景だった。
山の斜面を切り開き、巨大な鉄橋が架けられようとしている。
何十人もの労働者たちが作業を進め、轟音とともに鉄を打つ音が響いている。
ベルナーク交易市場からロストンへと続く路線。
それは、この世界が変わろうとしている証。
「文明開花——」
ルシアンが低く呟く。
オリカは崖の上から、その光景をただじっと見つめていた。
崖の上から見下ろした鉄道工事の光景は、圧倒的だった。
何十人もの労働者が鉄材を運び、鍛冶師たちが槌を振るう音が響く。
重機のないこの世界では、魔導技術を駆使した建設が進められており、魔力炉を積んだ荷馬車が資材を運んでいるのが見えた。
鉄道の延長線上には、開発の進む新しい街があった。
〈リュースタッド〉——それが、その街の名だった。
ベルナーク交易市場の隣街として発展しつつあるリュースタッドは、近年、鉄道開通と共に交易拠点として整備され始めた場所だった。
もともと小さな宿場町に過ぎなかったが、鉄道網が計画されると同時に、ラント帝国やカルマーン皇国の商人たちが投資を始め、一気に発展の波に飲み込まれた。
「リュースタッド……」
オリカは静かにその名を呟いた。
ベルナークとは異なり、完全に計画都市として作られたその街には、商業施設や倉庫が建てられ、すでに多くの商人や職人たちが移り住んでいると聞く。
しかし——
「……また、土地が削られるな」
カイエの声が、沈んだ調子で響いた。
オリカたちが足を止めると、彼女は険しい顔で工事の様子を見つめていた。
「これが開通すれば、交易はもっと活発になる。新しい街もでき、商人たちは喜ぶだろう……」
カイエは、強く唇を噛む。
「ただ……遊牧民の土地は、また一つ減る」
オリカは、カイエの横顔を見た。
彼女にとって、この光景は希望ではなく、脅威そのものなのだ。
「遊牧民の暮らしは、草原と共にある。土地を奪われれば、私たちは生きていけなくなる」
草原を自由に移動し、自然と共に生きる——それが彼女たちの生活だった。
だが、鉄道が伸び、交易都市が増え、定住型の社会が広がれば、その自由は次第に失われていく。
「文明が発展することは、いいことばかりじゃない」
カイエの言葉には、深い憂いが滲んでいた。
オリカは、リュースタッドへと続く鉄道工事の光景を改めて見下ろした。
人々が汗を流し、懸命に働いている。
その姿は、彼らにとっての「未来」を築いているようにも見えた。
けれど——
その未来が、誰かの「過去」を奪っているのだとしたら?
「世界は……どこへ向かうんだろう」
オリカの呟きは、誰に向けたものでもなかった。
——その時、風が吹いた。
草原を抜け、谷を越え、彼らの頬を撫でる。
それはまるで、変わりゆく世界の行く末を問いかけるような、冷たくも静かな風だった。




