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第139話




天幕の外へと一歩踏み出すと、ひんやりとした夜気が肌を撫でた。


星々の光に照らされた大地は静まり返り、遠くでは夜警の男たちの話し声と、かすかな家畜の鳴き声が聞こえる。


オリカは歩きながら、エリーゼの話を頭の中で反芻する。



——ヴァルキアは、大規模な粛清を行った。


——エゼル人は、ヴァルキアにとって「排除すべき存在」とされた。


——ルシアンは、「ヴァルキアから逃げてきた」と言っていた。



それが、どういう意味なのか。


彼の背負ってきたものを、どこまで自分は理解できるのか。


「……ルシアン」


名前を呼びながら、オリカは天幕の間を抜けていく。


幾つもの天幕の灯りが揺らめく中、星の民たちは夜の静寂を楽しむように、炉のそばで語らい、家族とともに過ごしていた。


天幕の奥では、母親が幼子を優しく抱きしめ、静かに歌を口ずさんでいる。


別の天幕では、若者たちが編み物をしながら、穏やかに談笑していた。


その光景を横目に、オリカは足を止めることなく歩き続ける。



どこかに、ルシアンの姿はないか。



夜の草原は、静寂に包まれていた。


空は満天の星で埋め尽くされている。


月光が草の波を優しく照らし、夜風がゆるやかに流れていく。


どこか遠くで、夜行性の鳥の声が響いた。



——その場に、ルシアンはいた。



天幕から少し離れた丘の上。


彼は、黙って星空を見上げていた。


オリカは、迷うことなく彼の元へと向かった。


「……眠れないの?」


彼女の声に、ルシアンは肩を揺らしたが、すぐにまた星を見つめる。


「……昔から、夜は好きだったんだ」


静かな声だった。


「夜は、すべてを隠してくれるからな」


オリカは、彼の隣に腰を下ろした。


風が二人の間を抜ける。


「エゼル人……」


オリカがそう呟くと、ルシアンは目を伏せた。


「——俺がその名前を聞いたのは、もう何年ぶりだったか」


彼は小さく笑う。


「まるで、忘れられることを望んでいたみたいにな」


「……あなたは、エゼル人なの?」


オリカの問いに、ルシアンはゆっくりと息を吐いた。


「……そうだった、のかもしれないな」


「でも、それを自分で認めたことはなかった」


ルシアンの瞳には、揺れる光が宿っていた。


「俺の記憶にあるのは、燃える村と、逃げ惑う人々。泣き叫ぶ声と、ヴァルキアの兵士たちの無機質な鎧の音——」


「そして——」


彼は拳を握りしめる。


「妹の手を、離してしまったこと」


オリカは、彼の横顔をじっと見つめた。


「妹……?」


「俺には、妹がいた」


ルシアンの声は、ひどく静かだった。


「名前は、レナ。俺より7つ年下で、俺が守らなきゃならなかった唯一の家族だった」


オリカは、彼の言葉を黙って聞いていた。


「“エゼル人”の大粛正が始まった後、ヴァルキアでエゼル人たちは自由に暮らすこともままならなくなった。それでも、まだかろうじて生き残っていた人たちがいた。その中に、俺たちはいた。……だけど結局」


「…政府のクソ野郎どものせいで、収容所に送られた」


「生き延びるためには、何をするか考えなきゃならなかった。だから——」


彼は、拳を握りしめたまま、静かに続けた。


「俺は、妹と一緒に逃げようとしたんだ」


「収容所の柵を越えて、森を抜けて、誰にも見つからないように」


「——でも」


彼の声が、一瞬詰まった。


「……妹は、途中で転んだ」


「立ち上がる時間なんて、なかった。追手が来て、俺は、手を伸ばしたけど——」


ルシアンは、強く目を閉じる。


「銃声が聞こえたんだ。——無我夢中で、何が起こったのか分からなかった」


「…気がついたら、レナは…」


オリカは、息を呑んだ。


ルシアンは、静かに続ける。


「……何もできなかった」


「俺は、ただ見ていることしかできなかった」


「妹の手を引くことも、代わりに戦うこともできず、ただ——」


「逃げた」


ルシアンは、自嘲気味に笑う。


「それ以来、俺はずっと思ってたよ」


「なんで、俺だけが生き残ったんだろうってな」


オリカは、彼の横顔を見つめた。


「それから……どうしたの?」


「死ぬこともできずに、たださまよってた」


ルシアンは、どこか遠くを見るように、夜空を仰ぐ。


「けど……ある日、行商人に拾われたんだ」


「バルドっていう男だった」


「俺は名前も、出自も言わなかったが、バルドはそんなこと気にしない男だった」


「どこへ行くでもなく、ただ一緒に旅をしながら、色んな国を見た」


オリカは、静かに問いかけた。


「その人と、ずっと一緒だったの?」


「いや……バルドは、俺に“自由”を教えてくれた」


「だから、俺はロストンを目指したんだ」


「自由の街に行けば、俺も何かを変えられるかもしれないってな」


ルシアンは、静かに笑う。


「バルドに金を借りて、魔力蒸気機関車に乗った」


「そしてロストンに着いた。けど……本当は死ぬ覚悟ができてたんだ」


そう言うと、今ではすっかり薄くなった腕の“痣”を、月明かりの下に照らす。


オリカは、目を細めた。


「それで、私の診療所に?」


「……ああ」


ルシアンは、少しだけ苦笑した。


「無一文で、な」


オリカは、小さく息をついた。


「……そうだったんだね」


「……そんなつもりはなかった」


ルシアンは、静かに星を見上げた。


「ただ……妹が生きていたら、どうだったかな、って思うことはある」


「もし、レナがいたら——」


「“自由”を、どう思ったんだろうな」


オリカは、しばらく何も言わなかった。


だが——


「あなたが生きてることに、きっと喜んでると思う」


そう静かに告げた。


ルシアンは、一瞬だけ目を見開く。


「……そうか?」


彼は、小さく笑った。


だが、その表情の奥には、まだどこか迷いが残っていた。


オリカは、そっと星空を見上げた。


「星の民の人たちは、星を読んで未来を考えるのよね」


「なら——あなたの未来も、これから決めていけばいいんじゃない?」


ルシアンは、しばらく何も言わなかった。


ただ、星を見つめていた。


夜風が二人の間を吹き抜ける。


やがて、ルシアンは静かに立ち上がった。


「……そろそろ戻るか」


オリカは、彼を見上げながら微笑んだ。


「ええ、そうね」


二人は、夜の草原を歩いて戻る。


星の光は、静かに彼らの背を照らしていた。

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