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第137話



「あなた、名前は?」


思わず問いかけると、少女は少し驚いたようにオリカを見つめ、それからにっこりと微笑んだ。


「私?ルーシィよ」


ルーシィ。


やっぱり、ミアとは違う名前。


でも、名乗るときの気取らない仕草や、笑顔の端に浮かぶえくぼが、どこか似ている。


「オリカでしょ? カイエから聞いたわ」


「ええ、そうよ」


ルーシィは軽々と水瓶を持ち直しながら、オリカを促した。


「こっちよ、食事の支度は天幕の中央でやるの」


彼女に導かれるまま、オリカは天幕の奥へと進んでいく。



***



夕暮れの光が薄れていく中、天幕の内部は生活の温もりに満ちていた。


燻された獣革の香りが漂い、干し草の上に織物が敷かれ、中央には炉が据えられている。


火のそばでは年配の女性たちが羊肉を串に刺し、スパイスをまぶしていた。


別の場所では、子どもたちが母親に教わりながら、平たいパンを練っている。


ルーシィは慣れた様子で、オリカに木製の器を手渡した。


「これを持って、こっちへ」


オリカは器を抱えながら、周囲の様子を眺める。


見慣れない調理法ばかりだが、不思議と懐かしさを感じた。


「……ねえ、ルーシィ」


「ん?」


「遊牧民って、どうしてこんな暮らしをしてるの?」


ルーシィは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。


「そうね……私たちにとって、家は“場所”じゃないの」


「場所じゃない?」


「そう。風と共に移動することが、私たちの生き方なの」


そう言うと、彼女は天幕の布を少し持ち上げて、外の広大な草原を示した。


「ほら、見て。あの草原が私たちの土地であり、道なのよ」


風が吹き抜け、遠くには夕陽に染まる地平線が広がっていた。


「定住することは、私たちにとって不自然なの。

この大地と共に生きることが、私たちの“暮らし”だから」


ルーシィの言葉は、どこか迷いのない、まっすぐなものだった。



—— そうか、この人は「迷っていない」。



オリカはふと、自分の過去を思い出す。


自分はいつも、何かに迷ってばかりだった。


医学の道を進みながらも、それが本当に自分に向いているのか分からなかった。


でもルーシィは違う。


彼女は風と共に生きることを迷わず選び、そして、それを誇りに思っている。


「……オリカ?」


「あ、ごめん。ちょっと考えごとをしてた」


オリカがそう言うと、ルーシィは不思議そうに首をかしげたが、気にする様子もなく笑った。


「さ、話してないで手を動かさなきゃ。皆、お腹を空かせてるからね!」


「うん、そうだね!」


オリカは器を持ち直し、彼女の後を追った。


風のように軽やかに、迷いのない足取りで歩くその背中を見つめながら——。




夕食の時間が来る頃には、天幕のあちこちで火が焚かれ、大鍋のスープが煮立ちはじめていた。


香ばしい肉の焼ける匂いと、香辛料の豊かな香りが空気を満たす。


オリカたちは、星の民とともに円陣を作り、素朴ながらも温かい食事を囲んだ。


焼き羊肉の串焼き、香草入りの煮込みスープ、ナンのような薄焼きパン——すべてが異国の味わいだった。


「……おいしい!」


オリカが感激の声を上げると、カイエが満足げに頷いた。


「だろう? これは長旅を支えるための料理だ」


「スパイスが効いてるわね。身体がぽかぽかする」


エリーゼがスープをすすりながら言うと、隣に座っていた老人が頷いた。


「砂漠の夜は冷えるからな。身体を温めるのは大事なことだ」


ルシアンは黙って羊肉をかじっていたが、どこか遠くを見るような目をしていた。


その視線の先には、夜空にまたたく無数の星。


——この広い世界のどこかに、かつての自分の故郷もあったのかもしれない。


そんな思いを胸に抱えながら、彼はただ静かに、星の民の夜を感じていた。


オリカもまた、空を見上げる。


果てしなく広がる夜空に、かつて彼女が見たことのないほどの星が瞬いていた。


(この空の下で……私たちは、どこへ向かっていくんだろう)


そんなことを思いながら、オリカは、静かにスープの器を手に取った。



「星を読むのは、お前たちの国にもある習慣か?」


焚き火の向こう側から、低く穏やかな声が響いた。


オリカが視線を向けると、そこには髭をたくわえた壮年の男がいた。


長い旅の果てに積み重ねられた風格を持ち、その琥珀色の瞳は夜空の星々と同じくらい深みを湛えている。


「天空暦を知っているか?」


「天空暦?」


オリカが首をかしげると、カイエがスープの器を片手に説明を加える。


「星の民は、空を読んで時を知る。太陽の昇る位置、月の満ち欠け、風の流れ……それらを総じて“天空暦”と呼ぶんだ」


「それって、つまり……カレンダーみたいなもの?」


オリカの問いに、男は渋く笑った。


「違うな。天空暦は単なる“時間の数え方”ではない。生きるための知恵だ」


男は火を見つめながら、ゆっくりと話し続ける。


「夜空の星を見れば、季節の移ろいが分かる。月の光の具合で、天候の変化が予測できる。雨の降る時期、草の芽吹く時期、獣の移動……すべては星と風が教えてくれるのさ」


「つまり、星を読むことが——この草原で生きる術だってことね」


「その通り」


ルーシィが得意げに頷いた。


「だからね、私たちは“どこにいても迷わない”の。どこに行けば水があるのか、どの道を進めば安全なのか……星が導いてくれるから」


「……不思議な文化ね」


エリーゼが感心したように呟いた。


「まぁな。だが、お前たちには馴染みがないだろう」


男が少し視線を鋭くしながら、問いかけるように言った。


「お前たちはどこから来た?」


その問いに、場の空気が少しだけ張り詰める。


オリカは一瞬、言葉を詰まらせた。


——どこから来た?


本当のことを言えば、「別の世界から来た」となる。


だが、それを説明しても誰も信じないだろう。


(私たちは……どこから来たんだろう)


そう考えていると、カイエがふっと息をついた。


「……まぁ、いいさ」


男が答えを待つ間もなく、カイエが静かに言葉を継いだ。


「ここに来た旅人たちは、何かしらの理由を抱えているもんだ。それが分かれば、わざわざ聞く必要もない」


「それにしても、お前たちは運がいい」


ルーシィが羊肉の串を口に運びながら、少し皮肉めいた口調で言った。


「普通、こんなふうに旅人を助けたりはしないんだから」


「え?」


オリカが驚いた顔を向けると、ルーシィは苦笑した。


「カイエの物言い、ちょっと冷たいでしょ? でも、あれでも根は優しいんだよ。あんたたちを助けたのがその証拠」


「……確かに、少しぶっきらぼうな印象はあったけど」


「でも、普通は見捨てられてもおかしくなかったってこと?」


エリーゼが眉をひそめると、ルーシィは小さく頷いた。


「この草原は厳しいからね。見知らぬ旅人を助けるってことは、それだけのリスクを背負うってこと。だから、本来なら関わらないのが一番安全なの」


オリカは、ふとカイエの横顔を盗み見た。

焚き火の光に照らされるその表情は、どこか静かで——しかし、どこか寂しげにも見えた。


「……なら、どうして?」


思わず口をついて出た言葉に、カイエはちらりとオリカを見た。


「どうして助けてくれたの?」


その問いに、カイエは少しだけ目を細めた。


「……風がそう言ったからさ」


「風?」


「お前たちが、まだ“ここ”で終わる者じゃないってな」


カイエはそう言いながら、静かに星を見上げた。


焚き火がはぜる音と、遠くで草が揺れる音が夜の空気に溶けていく。


オリカはその言葉の意味を測りかねながらも、ただ静かに、同じように夜空を仰いだ。


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