第136話
アシェンの言葉を胸に抱えたまま、オリカたちは天幕の一角へと足を運んだ。
そこでは、子供たちの笑い声が響いていた。
遊牧民の子供たちは、裸足で草原を駆け回り、羊飼いの少年が指笛を吹くと、一斉にその音に応じて動く羊の群れを追いかける。
天幕の入り口では、年長の少女たちが幼い子供たちの髪を編み込み、薬草を擦り込んで虫除けを施していた。
「活気があるわね……」
エリーゼが感心したように呟く。
「こうして見ると、俺たちとは全く違う暮らしをしてるな……」
ルシアンもまた、普段の都市の喧騒とは異なる、静かでありながら力強い生活の営みに目を向けていた。
その中で、彼らが探していた人物——カイエの姿を見つける。
カイエは天幕の子供たちの世話をしながら、手際よく壊れかけた革袋を縫い直していた。
「あっ、カイエ!」
オリカが声をかけると、カイエは手を止め、鋭い琥珀色の瞳を向けた。
「お前たちか。どうした?」
「その……改めて、お礼を言いたくて」
オリカが頭を下げると、エリーゼも続く。
「あなたがいなかったら、…きっとあのまま無事に帰れなかったと思うわ。本当に、ありがとう」
「……助かったよ。俺たち、ここまで歩き詰めだったしな」
ルシアンは気恥ずかしそうに頬をかきながら言う。
だが、カイエは肩をすくめて鼻で笑った。
「お礼なんかいらないさ。旅人を助けるのは、星の民の掟だ」
「それでも、何かお礼を——」
オリカが言いかけた瞬間、カイエは不敵な笑みを浮かべた。
「そうか。そんなに礼を言いたいのなら——夕食の準備を手伝え」
「……え?」
「天幕には百人以上の仲間がいる。食事の支度は分担しないと回らない」
「お前たちも手を貸せば、その分早く終わるだろう?」
カイエの言葉に、一瞬沈黙が流れた。
エリーゼが、ちらりとルシアンを見る。
「……やる?」
「……ま、何もせずに飯をもらうわけにもいかねぇしな」
ルシアンは肩をすくめた。
オリカも笑って頷く。
「じゃあ、私たちにできることを教えて!」
カイエは満足そうに頷き、手を打った。
「よし、なら手分けするぞ。エリーゼ、お前は薬草と香辛料を調合して、スープの準備をしてくれ」
「えっ、私が?」
「この天幕にもエルフが何人かいる。薬草の扱い方に熟知した薬師がいるんだが、“彼女”の手伝いをしてくれないか?」
「なるほど……やってみるわ」
「ルシアンは火をおこせ。鍋を温める準備だ」
「了解」
「オリカ、お前は……」
カイエが言いかけたとき、背後から子供たちの笑い声が響いた。
「カイエ姉ちゃん! 羊の乳搾り、手伝ってー!」
「ちょうどいいな。オリカ、お前はこの子たちと羊の世話をしてこい」
「ええっ、羊の世話!?」
オリカは驚いたが、子供たちは興味津々の目で彼女を見つめている。
「やったー! お姉ちゃん、新しい人だ!」
「手伝ってくれるの? こっちこっち!」
小さな手がオリカの袖を引っ張る。
「ふふっ……仕方ないわね、行きましょう」
オリカたちは遊牧民の暮らしに触れながら、天幕での一夜を迎える準備を始めた。
夕暮れが近づくにつれ、天幕の中は食事の準備で活気づいていた。
エリーゼは、天幕の端にある調理場で、星の民が使う薬草や香辛料を調合していた。
彼女の前には、乾燥させた香草の束や、不思議な色合いの粉末が入った小瓶が並んでいる。
「これは……見たことのない香草ばかりね」
エリーゼは興味深そうに手に取る。
すると、そばにいた薬師のエルフがにこりと笑った。
「それは『サリヤ草』よ。刻んでスープに入れると、身体を温める効果があるわ」
「サリヤ草……なるほど、薬効が強そうね」
彼女は慎重に香りを確かめながら、適量を粉末状にすり潰していく。
ルシアンは、天幕の中央にある大きな炉で火をおこしていた。乾燥した木材と家畜の糞を混ぜて燃やすことで、効率よく炎を維持するのが星の民のやり方らしい。
「こうやって燃料を組み合わせて使うのか……うまくできてるな」
彼は薪の組み方を調整しながら、じっくりと炎の勢いを安定させていった。
オリカは、子供たちとともに羊の世話をしていた。
「お姉ちゃん、こっちの羊がミルクを出すよ!」
「そっちはまだだよ! まずは手を温めて!」
子供たちが無邪気に声を上げる中、オリカは言われた通りに羊の乳搾りを試みた。しかし——
「……な、なかなか難しいね」
思うようにミルクが出ず、オリカは少し困った顔をする。
すると、隣にいた少女がにっこりと笑いながら、そっと手を添えてきた。
「力を入れすぎるとだめ。優しくね」
「優しく……」
オリカが指先の力を抜き、ゆっくりと搾ると、白い液体が器に滴り落ちた。
「……あ、できた!」
「すごいすごい!」
子供たちが歓声を上げ、オリカはほっと息をついた。
羊の乳搾りを終えたオリカは、子供たちの笑顔に見送られながら、大きな水瓶を持って水場へ向かった。
天幕の外れには、地下水を汲み上げる井戸があり、そこでは数人の遊牧民が食事の準備のために水を汲んでいた。
オリカが水瓶を持ち上げようとすると、隣で同じように水を汲んでいた少女が手を差し伸べてきた。
「重いでしょ? 手伝うわ」
柔らかな声だった。
オリカが顔を上げると、自分と同じくらいの年頃の遊牧民の少女が立っていた。
日焼けした肌に、くせのある栗色の髪を三つ編みにした姿。
そして、何より——その笑ったときの表情が、かつての世界での幼馴染と重なった。
「……えっ?」
思わず声が漏れる。
少女が不思議そうにオリカを見つめた。
「どうしたの?」
「い、いえ……あなた、どこかで……」
言葉に詰まりながらも、オリカは彼女の顔をじっと見つめた。
当然、見覚えがあるはずがない。
ここは異世界であり、オリカが生きていた“元の世界”とは別の場所なのだから。
それでも、彼女の雰囲気が——
(……友達に、少し似てる気がする)
——ミア。
中学時代、オリカにとってかけがえのない存在だった幼馴染。
勉強は苦手だけど、運動神経は抜群で、いつもクラスの中心にいた。
オリカとは対照的に快活で、細かいことを気にしない大雑把な性格。
それなのに、不器用なオリカのことを何かと気にかけてくれていた——。
「オリカ、また忘れ物? ほら、貸してあげるから気をつけなよ」
「そんなガリ勉してばっかじゃダメ! ほら、外で遊ぼ!」
転生してからずっと封じ込めていた記憶が、ふとした瞬間にこぼれ落ちる。
(ただの偶然…だよね?)
(彼女はミアじゃない。ただ、ちょっと雰囲気が似てるだけ…)
そう思おうとするのに、胸の奥が妙にざわつく。
少女はそんなオリカの視線に気づきながらも、特に気にする様子もなく、水瓶を軽々と持ち上げた。
「旅の人が、こんな重い水瓶を運ぶのは大変でしょう?」
「……まぁ、そうだね」
「じゃあ、少しでも楽をしなきゃ」
少女はそう言って、オリカの水瓶を片手で支えながら、器用にもう一つの水瓶を自分の肩に担いだ。
「……すごい」
「このくらい、慣れてるからね」
少女は笑ってみせる。
——その笑顔が、やっぱりミアに似ていた。
——ミアは、もういないのに。
(転生して、もう別の世界にいるんだから)
(こんな偶然、気にするだけ無駄かも)
そう思いながらも、オリカはどこか懐かしい温もりを覚えていた。




