第135話
オリカは、一瞬視線を伏せ、考えを巡らせた。
自分たちは何者なのか——この問いにどう答えるべきか。
下手な言葉を選べば、警戒される。
だが、正直に話しすぎれば、相手がどこまで信用してくれるか分からない。
(ここは、慎重に……)
オリカが口を開く前に、ルシアンが先に動いた。
彼は一歩前へ進み、老人の目をまっすぐに見据える。
「俺たちは旅の者だ。ベルナーク交易市場で暮らしているが、必要なものを求めて、この地に来た」
端的な言葉だが、嘘はない。
ルシアンの低く落ち着いた声が、天幕の静寂に溶け込んだ。
老人は彼の言葉を聞き、しばらく沈黙した。
その表情からは、彼らをどう判断するかを見極めている様子が見て取れる。
「……市場の者か」
彼の言葉には、わずかに含みがあった。
ベルナーク交易市場——それは星の民にとって 「利益をもたらす場所」 であると同時に、「異邦の者たちの介入」 を象徴する場所でもある。
「市場の人間は、星の民を利用しようとすることが多い」
「交易のために我々を頼るが、同じだけの誠意を返してきた者は少ない」
彼の視線が鋭さを増す。
「お前たちも、その一人か?」
その問いに、オリカは静かに首を振った。
「違います」
落ち着いた声で言い切る。
「私たちは、ただ安全な場所を求めて、ここに来ただけです」
「安全…か。ではその腰袋に入っているものはなんだ?」
「…腰袋?」
オリカはハッとなる。
レッドヴァーミリオンを詰め込んだ袋。
…やっぱり、これを勝手に収穫したことを怒っている…?
それとも…
「…これは、必要なものなんです」
「ほう?」
「もし、あなたたちの領地で勝手なことをしてしまったのなら謝ります。…でも、どうしても必要なものなんです」
決してあなたたちを利用しようとしているわけじゃない。
その気持ちを奥に潜めながら、正直に話す。
老人は眉を顰めたまま、しかし丁寧に、オリカの言葉に対して答えた。
「儂らには“領地”などというものは存在せんよ。自然のものは自然のものだ。誰のものでもありはしない。しかし…」
「…しかし?」
「お前たちが、“ただの市場の者”であるというのはにわかには信じ難い。表に留めているあの陸翔獣。あれはかなり上等なものだった。ただの商人では手にすることもできまい」
…ギクッと、頭の中で反応してしまう。
それを見逃さなかったのか、老人は鋭くオリカたちを見つめた。
「…じつは、私たちはロストンから来た者でして…」
エリーゼが説明する。
張り詰めた空気を少しでも和らげたかったのだろう。
老人の観察力は並大抵のものではない。
エルフとしての経験と嗅覚が、そう察していた。
だからこそ、できる限りのことは打ち明けるべきだと思ったのだ。
「…ロストンから?」
オリカが続け様に言う。
「…私たちは医者です。このレッドヴァーミリオンを、ある薬剤を作るために必要なんです」
老人の眉がわずかに動く。
「……薬剤…だと?」
「ええ」
オリカは、天幕の中に吊るされた薬草を見上げた。
「ここに来る時、外で植物をすり潰している光景を見ました。この広大な草原には、様々な薬草や植物が実っています。それらをうまく活用すれば、傷や病気を癒す「薬」にもなる。そのことは知っていますよね?」
「…ふむ」
「エリーゼも言っていましたが、私は医者です。ロストンから来たのは、ベルナーク交易市場にある“ある薬草”を手に入れるためです」
まっすぐ、ただありのままを伝える。
オリカの見た目は、この地方ではあまり見かけない風貌をしていた。
それはロストンでも同じだったが、それもひとつ功を奏したのかもしれない。
“他所から来たもの”。
そして、洗練された陸翔獣と、薬学への知識。
オリカたちが盗賊や賊徒の一員ではないことは、老人の目にも明らかだった。
肩の力を抜くように一瞥し、蓄えた髭をそっと撫でる。
「……医者、か」
彼は少し考え込むように視線を落とす。
老人の目には、それでもまだ少し警戒の色が残っていた。
「名を聞こうか」
オリカは短く名乗る。
「オリカ・フローライトです」
続いて、エリーゼ、ルシアンもそれぞれ名乗った。
彼はじっと彼らを見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「儂はアシェン・ツァラ。この一族の長だ」
一族の長——その言葉が示すものは大きい。
彼は、この天幕に集う星の民たちを束ねる存在なのだ。
「お前たちをすぐには信用できん」
アシェンは率直に言った。
「だが、カイエが連れてきたのなら、少しは様子を見る価値があるかもしれんな」
そう言って、彼は天幕の奥を示す。
「まずは食事をとるといい。遠路を旅してきたのだろう」
それは 「星の民としての受け入れ」 を意味する言葉だった。
オリカたちは顔を見合わせ、ひとまず頷いた。
彼らはまだ 「異邦人」 であり、完全に受け入れられたわけではない。
だが、それでも——この一歩は、大きな意味を持つものだった。
遊牧民の世界に、彼らは足を踏み入れたのだ。
燻された獣革の香りが満ちる天幕の中で、オリカたちは静かに座していた。
天幕の中央には炉があり、赤々とした炭火が揺れる。
鍋の中では、香草を煮込んだスープがゆっくりと泡を立てている。
族長アシェン・ツァラは、炉の前の座にゆっくりと腰を下ろし、琥珀色の瞳でオリカたちを見つめた。
彼の表情は静かだが、どこか測るような目だった。
「……お前たちは、風に導かれたのだろうな」
そう言うと、アシェンは天幕の天井に描かれた星図を指差した。
「この星の巡りは偶然ではない。お前たちがこの地に来たのもまた、星々の運命が交差した結果なのかもしれぬ」
オリカはその言葉の真意を測りかねたが、エリーゼは天幕に吊るされた薬草の束を見上げながら言った。
「……ここは、本当に興味深いわね。外の世界では滅多に見られない薬草が揃っている」
アシェンは頷く。
「我々、星の民は大地と共に生きる。草原に根付くもの、風に乗るもの、全てを読み解き、己の力とする。それが我らの生き方だ」
オリカは薬草の匂いをかぎながら、ふとアシェンの視線がルシアンへと移るのを感じた。
「……おぬしは」
低く、しかし確信に満ちた声だった。
「おぬしの血は、どこから来た?」
ルシアンがわずかに眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「おぬしは“エゼル人”なのではないか?」
一瞬、天幕の空気が凍りついた。
ルシアンの背筋が僅かに強張る。
エリーゼは何も言わなかったが、どこか納得したような表情を浮かべていた。
オリカだけが、その単語の意味を理解できず、戸惑いながらルシアンとアシェンを見比べた。
「……エゼル人?」
彼女が問いかけると、アシェンは静かに頷いた。
「この世界には、かつて“世界樹の加護を受けた民”がいた」
「彼らは エゼル——『永遠の種』と呼ばれ、世界と調和して生きていた」
「だが今は……」
アシェンの琥珀色の瞳が、どこか遠くを見る。
「西の帝国によって、その民は歴史の表舞台から消えた。生き残った者は名を隠し、どこかで細々と生きるしかない……」
「忘れられた民。あるいは、忘れられねばならなかった民……」
オリカは息を呑んだ。
ルシアンが黙っている理由が、少しだけ分かった気がした。
彼は、目を伏せたまま、低く言った。
「……エゼル人なんて、もういない」
「俺はただ、逃げて、生き残っただけだ」
アシェンはその言葉を聞いても、否定も肯定もしなかった。
ただ、長い白髪を編んだ指をゆっくりと滑らせながら、静かに言葉を紡ぐ。
「——お前が何者であるかを決めるのは、お前自身だ」
「だがな……血というのは、風のようなものだ」
「どれほど遠くへ流れても、決して消えはしない」
ルシアンは何も答えなかった。
ただ、目を伏せたまま、拳を握りしめるだけだった。
オリカは、そんな彼の横顔を見つめながら、ゆっくりと問いかけた。
「ルシアン……エゼル人って……?」
「もういい」
彼はそれを遮った。
「……この話は、ここまでだ」
声は低く、しかし拒絶の色があった。
アシェンは、ただ静かに頷いた。
そして炉にくべられた薪の火を見つめながら、言った。
「……お前たちは、疲れているだろう」
「今夜は、ここで休むがいい」
それが、話の終わりを告げる合図だった。
オリカも、それ以上は何も聞かなかった。
ルシアンの心に踏み込むには、まだ時が早すぎる気がしたからだ。
エリーゼもまた、何か言いたげだったが、ただ小さく息をついた。
こうして、オリカたちは——
遊牧民の天幕の中で、一夜を過ごすことになった。