第133話
静寂が戻った草原に、かすかに風が吹き抜けた。
ヴォルケリオンの影は遠ざかり、群青の空には、まだ戦いの余韻が漂っているようだった。
オリカは深く息を吐き、体に残る緊張を解くように手を握り直した。
「……助けてくれて、ありがとう」
彼女が改めて礼を言うと、弓を肩に掛けたまま立つカイエが、じっとこちらを見下ろした。
「礼はいい」
冷たい声だった。
表情は硬く、微塵の感情も浮かべていない。
まるで、彼女の言葉のひとつひとつを慎重に選びながら発しているようだった。
オリカは、わずかに眉をひそめる。
「あなたは?」
「……カイエ・オルグ」
名乗りはしたものの、彼女はそれ以上の説明を加えなかった。
ルシアンが小さく舌を打つ。
「……何者かぐらい、もう少し説明してくれてもいいんじゃないのか?」
カイエは答えず、ただ、風に流れる緑黄色の髪をかき上げると、鋭い眼差しで空を見上げた。
「——お前たち、このままここにいるつもりか?」
「え?」
エリーゼが怪訝そうに眉を寄せる。
カイエは、先ほどまでヴォルケリオンがいた空をじっと見据えながら、静かに言った。
「今のヴォルケリオンは、単独で狩りをしていたわけじゃない」
オリカの背筋に冷たいものが走った。
「……どういうこと?」
「群れで狩りをする鳥は、一度目の襲撃で相手の戦力を見極める」
「……まさか」
ルシアンが低く呟く。
「奴は、“仲間を連れて”戻ってくる可能性が高い」
カイエは、弓を軽く指で弾きながら続けた。
「この場所に留まるのは、賢い選択とは言えない」
ルシアンとエリーゼが、わずかに身構えた。
「——それで?」
オリカは、まっすぐにカイエの目を見据える。
「…何が、言いたいの?」
カイエはしばし沈黙した後、言葉を選ぶように口を開いた。
「死にたくなければ、——来い」
「……え?」
エリーゼが困惑の表情を浮かべる。
「来いって、…どこに?」
「近くに天幕がある。私が住んでいる“村”だ」
「この近くに?」
「少し走るがな。私はもう行くが、どうする?」
3人はお互いに目を合わせた。
当初の目的はすでに達成した。
レッド・ヴァーミリオンの採取は完了し、あとはベルナークに戻るだけだ。
…ただ、彼女が言うように、ヴァルケリオンの襲撃が再度あった場合は、今のように対処できない可能性もあった。
「…でも」
「信用しろとは言ってない」
困惑する3人を見て、カイエは即座に反応した。
「少なくとも、ここに留まるよりは安全だ」
「……安全?」
「群れが動き出す前に距離を取る。それだけの話だ」
カイエは、手綱を軽く引き、馬を翻す。
その動きには迷いがなく、まるでこちらの決断を待つつもりもないようだった。
「——選ぶのはお前たちだ」
風が吹き抜け、カイエの髪がなびく。
オリカたちは、それぞれ視線を交わし合った。
「……どうする?」
エリーゼが小さく呟く。
「……この場にとどまるリスクは高い」
オリカは、低く息を吐いた。
「案内してくれるなら…」
カイエは小さく頷くと、何も言わずに馬を進める。
ルシアンとエリーゼも、それに続いた。
そうして、オリカたちは風の丘を後にする。
“星の民”の領域へと足を踏み入れることになるとも知らず——。
丘の上を吹き抜ける風は、先ほどまでの激戦の余韻を残しながらも、次第に穏やかさを取り戻していた。
オリカたちは、カイエの馬の後を追いながら、緩やかに起伏する草原を進んでいた。
周囲には、背の高い草が柔らかく波打ち、遠くでは森の緑が霞のように広がっている。
「……けど、こんな場所に遊牧民がいるなんて」
エリーゼがぽつりと呟く。
カイエが言っていた「天幕」の意味。
そのことを、彼女は一言で理解していた。
目を引いたのはカイエの衣装だ。
遊牧民特有の軽装に、独特な形状の長弓。
カイエが「遊牧民」であることは、なんとなく察しはついていた。
「確か、自然の草や水を求めて移動生活をする人々のこと…でしょ?」
オリカは視線を巡らせる。
見渡す限り、青々とした草原と、所々に点在する大きな樹々が広がっていた。
風が通り抜けるたびに、草の香りがほのかに漂い、鳥のさえずりが心地よく響いていた。
「それで、何しにここへ来た?」
カイエがそう尋ねる。
——何しに?
目的は1つだった。
ただ、それを正直に伝えていいものかどうか、——そう“懸念”していたのは、エリーゼだった。
レッド・ヴァーミリオンはこの地方では希少な植物の一つだ。
交易の商品としても比較的高価な価格で取引されており、密猟者も多いと聞く。
もし彼女が遊牧民だとするなら、ここら一帯を交易の“場”として取り仕切っている可能性がある。
それこそ、密猟者には厳しい「目」を向けてくるだろう。
すんなり目的を伝えていいものかどうか、口を噤んでしまう時間があった。
「あなたは遊牧民…よね?」
「…ああ。お前たちはベルナークから来たのか?」
「そうよ。…といっても、“市民”ではないけれど」
「ほう」
興味深そうに言葉を返し、じっと前を見据える。
その様子はどこか不気味で、よそよそしかった。
「この地域で暮らしてるの?」
エリーゼが尋ねたのは、遊牧民の暮らしに対する「疑問」だった。
エルドラシア大陸の南東部はゼルファリア大陸との入り口も近く、ここからさらに南下すればセリオス海に浮かぶ美しい島々が見えてくる。
南下するといってもそれなりに距離はあるが、遊牧民の暮らしはゼルファリア大陸を中心に行われていると聞いていた。
定住地を持たない彼らにとっては、国と国を結ぶ国境はあまり意味をなさないのかもしれないが、この付近ではロストンとベルナークを結ぶ交易ルートの強化が進められており、近年増加傾向にある盗賊や海賊の大々的な規制が進められているらしい。
ましてや、この付近の丘陵地帯には魔獣も多い。
それが不思議だった。
「気になるか?まあ、お前たちが知らなくても無理はない」
カイエが短く答える。
「星の民は、風の導くままに移動する。定住地を持たない私たちは、外の者からすれば、影のような存在だろう」
「定住地を持たない……」
オリカはその言葉を反芻する。
「でも、どこで休んだり、生活したりするの?」
「自然の中で生きる。それだけだ」
カイエは淡々とした口調で続ける。
「水がある場所、草が豊かな場所、風が穏やかな場所。私たちは、それらを感じ取りながら、季節ごとに移動する」
エリーゼは興味深そうに頷いた。
「でも、こんな森や草原の中で、どうやって食料を確保してるの?」
「狩りと採集。それが基本だ」
カイエは視線を前に向けたまま答えた。
「草原には獣がいる。森には果実が実る。川があれば魚が捕れる。必要なものは、すべて自然が与えてくれる」
オリカはふと鼻をくすぐる草の香りを感じ、どこまでも広がる緑の景色を眺めた。
彼らは、この美しい自然とともに生きているのだ——。
◇
やがて、道はゆるやかに森の方へと続いていった。
樹々の間から差し込む木漏れ日が、馬の背を照らし、黄金の斑模様を作っている。
草の密度が増し、ところどころに小さな小川が流れていた。
「この先だ」
カイエが手綱を引き、馬の速度を緩める。
オリカたちもそれに倣い、歩を落とした。
「……本当に、ここに?」
エリーゼが不思議そうに辺りを見回す。
「何もないように見えるけど……」
「風を感じなさい」
カイエが静かに言った。
オリカたちが耳を澄ますと——
草木がざわめく音の向こう、確かに何かが揺らめいていた。
やがて——
風が吹き抜けた瞬間、木々の隙間に白い布がひるがえるのが見えた。
「——あれは」
ルシアンが息を呑む。
森の中、木々に紛れるようにして、いくつもの白い天幕が広がっていた。
風に溶け込むかのように、静かに佇むそれらは、まるで自然の一部であるかのようだった。
「……ここが、星の民の天幕」
カイエが馬を降り、静かに言った。
オリカたちは、ついに遊牧民の暮らしの一端を目の当たりにすることとなった。