第124話
ズズ……ズズ……
湿った地面を這うような、不気味な音が坑道に響く。
「……何かいる」
ルシアンが短剣を構え、警戒する。
エリーゼも魔法の光を強め、坑道の奥を照らした。
そして——
“それ”は現れた。
坑道の奥の闇から、ぬらりとした黒い影が姿を見せる。
「……!!」
オリカたちは思わず息をのんだ。
それは、巨大な“爬虫類“だった。
——いや、厳密には“爬虫類”というより、“軟体動物”に近い。
体長は長く、人より倍近くの背丈があり、ぬめりのある黒紫色の体表には微細な棘が無数に生えている。
そして、その巨大な骨格の真正面には、ぎょろりとした光を反射する眼が、ふたつ——。
「……最悪ね」
エリーゼが歯を食いしばった。
「“ガルヴァ・リーパー”よ……!」
ガルヴァ・リーパー——それは、この地方の湿った坑道や地下遺跡に棲む、肉食性の魔獣だった。
普段は地中や水脈の近くで潜んでいるが、侵入者を感知すると、獲物を仕留めるために襲いかかる。
何より厄介なのは、その“毒”だ。
「まずいわね……あれに噛まれたら、ただじゃ済まないわよ」
「毒……って、どんな?」
ルシアンが短剣を構えながら尋ねる。
「神経系を麻痺させるのよ。ガルヴァ熱と症状が似てる……でも、もっと直接的に効くわ。噛まれたら動けなくなる」
「……じゃあ、やられる前にやるしかねぇな」
ルシアンはそう言うと、勢いよく駆け出した。
「待って、ルシアン——!!」
オリカの制止を聞く前に、彼はすでにガルヴァ・リーパーの懐へと飛び込んでいた。
瞬間、闇の中で獣じみた唸り声が響く。
ルシアンの短剣が一閃し、ガルヴァ・リーパーの体表を斜めに斬り裂いた。
しかし——
「っ、硬い!」
刃が皮膚にめり込んだが、思ったよりも浅い。
表面を覆うぬめりが衝撃を吸収し、致命傷には至らない。
「——くそっ」
ルシアンは即座に後退しようとした。だが、その瞬間——
シュルッ——ッ!
暗闇の中から何かが閃いた。
「ルシアン、下!!」
エリーゼの声が鋭く響く。
ルシアンは反射的に横へ跳んだ——が、一瞬遅かった。
足元に伸びてきた黒光りする長い舌が、彼の脛をかすめる。
「っ……!」
ビリビリとした衝撃が、瞬時に足へと広がった。
まるで筋肉が凍りついたような感覚——。
「……毒か……!」
歯を食いしばりながらも、ルシアンは本能的に地面を蹴り、間合いを取る。
踏み出した足。
地面に食い込んでいく爪先。
——不意に違和感が走った。
まるで、泥の中に足を踏み入れたような感触。
思うように力が入らない。
右足の動きが鈍い。
麻痺がじわじわと広がっているのが分かった。
——まずい。
長期戦になれば、確実にやられる。
ガルヴァ・リーパーが唸りながら、再び舌をうねらせた。
「エリーゼ!」
オリカが叫ぶ。
「魔法で援護を!」
「わかったわ!」
エリーゼは素早く両手を翳し、魔力を集束させる。
構えた杖と、張り詰めた空気。
空中に魔法陣を描き出す。
——《フォーミュラ・セット》
魔法を発動するための第一段階。
彼女の内に流れるマナが活性化し、術式が展開されていく。
空間に刻まれる魔法の紋様。
それは、まるで光の糸で織りなされた神聖な紋章のようだった。
——《聖紋》
詠唱と共に、魔法が発動する。
青白い光が広がり、ルシアンの体を包み込んだ。
エリーゼは元々地属性の魔法使いだ。
ただ、彼女は魔法に対する知識量を多く蓄えている“術士”でもある。
霧の森での戦い以降、より実戦向きな魔法の扱い方について、多くのことを学んできた。
オリカの付き人に任命されて以降は、ヴィクトール家の使用人という職務から離れ、より幅広い分野で彼女の力になれるよう努力を続けてきた。
基礎からの修練。
「魔法学」への多様的なアプローチ。
ルシアンの足に広がっていた痺れが徐々に消えていく。
まるで冷え切った四肢に血が通い始めるように、神経が回復していく感覚——。
「……っ、助かった!」
ルシアンは足を軽く踏み込む。
先ほどまでの麻痺が嘘のように消え、動きが回復していた。
だが——その一方で。
シュルルル……ッ!
ガルヴァ・リーパーはその間にも、ルシアンに向かって舌を打ち放っていた。
「ルシアン、下がって!」
エリーゼは魔法の効果が完全に浸透する前に、彼が再び攻撃を受けることを恐れた。
しかし——
「いや、今ならやれる!」
ルシアンは動きの回復を感じ取り、即座に地を蹴った。
横へ飛び、舌の一撃を紙一重で回避。
そのまま着地するや否や、次の行動に移る。
「エリーゼ、今の魔法の特性を教えてくれ!」
「聖紋は、毒や麻痺を打ち消すだけじゃない!」
エリーゼの声が鋭く響く。
「一時的に、神経伝達の速度を上げる作用があるわ!」
「つまり……」
ルシアンは短剣を強く握る。
「今の俺は、動きが速くなってるってことか!」
ガルヴァ・リーパーの舌が、もう一度しなり、襲いかかる。
だが、ルシアンはそれを見切っていた。
——動きが読める。
——これなら、間に合う!
ヒュッ!!
身体を低くし、流れるように舌の攻撃をかわす。
同時に、敵の体表を観察する。
「……やっぱり、コイツは粘膜がバリアみたいになってるな」
斬撃を弾くぬめり。
だが、それは常に一定ではない。
攻撃を仕掛けた直後——舌を戻す“ほんの一瞬”、ガルヴァ・リーパーの表面が乾き、防御が甘くなる。
「……いける!」
ルシアンは、わずかに開いたその隙を見逃さなかった。
シャッ!!
低く跳躍し、敵の側面へ回り込む。
ザンッ!
今度は、短剣が深く食い込んだ。
「効いた……!」
ガルヴァ・リーパーが甲高い悲鳴を上げる。
オリカとエリーゼが、その様子を見て頷いた。
——敵の防御の“弱点”は、攻撃の直後。
——そして、エリーゼの魔法が、ルシアンの動きを加速させたことで、その隙を突くことが可能になった。
だが——
まだ終わりではない。
ガルヴァ・リーパーは痛みに怒り、全身の筋肉を膨張させていた。
「次の攻撃が来る……!!」
視界が安定しない暗闇の中で、獣の体が跳躍した。