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第122話




レイモンド診療所の奥の部屋は、狭く簡素な作りだった。


木の机の上には、使い込まれた薬草の束と擦り切れた本の山。


窓の外から差し込む夕陽が、薄暗い室内に淡い橙色の光を落としている。



オリカは診察台の上に横たわる老人の手を取り、慎重に脈を測った。


皮膚には赤黒い斑点が浮かび、呼吸は荒く、不規則。


関節は異様に腫れ、わずかに触れただけで苦痛の表情を浮かべた。


「先生……彼は、助かるんでしょうか?」


傍らに立つ付き添いの男が、不安そうに問いかける。


その身なりから察するに、市場で働く一般の商人だろう。


「治療の手段はあります。ただ、すぐに治せるわけではないです」


オリカは静かに答えた。


「ほ、本当ですか? 俺、どこへでも薬を探しに行きます!」


その言葉に、レイモンドが苦々しい顔をした。


「だが、薬は高いぞ。お前に払えるのか?」


男の表情が強張る。

この市場の医療が金によって支配されていることを、彼は知っていた。


「……お金がないと、助けられないのか」


絞り出すような声だった。


オリカは静かに彼を見つめた。


「お金がなければ、今の市場では薬を手に入れるのは難しいわ」


「……っ」


男は唇を噛みしめる。


(でも、それはおかしい)


オリカは心の奥底で怒りに似た感情が込み上げるのを感じた。


病を治すことに、なぜこれほど多くの障害があるのか。





「……この症状、間違いない」


オリカは老人の腕をめくり、赤黒い斑点を指でなぞった。


「……ガルヴァ熱?」


「なんだと?」


レイモンドが怪訝そうに眉をひそめた。




病名:ガルヴァ熱(Galva Fever)


症状:

☑︎ 高熱と激しい関節痛——突然の高熱(40℃以上)と、関節の腫れや痛みが特徴。

☑︎ 皮膚の赤黒い斑点——血流の異常によって現れる。

☑︎ 手足のしびれと感覚異常——末端神経に影響を及ぼし、徐々に感覚が鈍くなる。

☑︎ 極度の疲労感と脱力——筋肉の異常な硬直や震えが生じる。

☑︎ 進行すると呼吸困難——肺や心臓に負担がかかり、息苦しさを感じるようになる。


原因:

☑︎ 特定の水源に生息する寄生虫ガルヴァ・ワームが体内に入り、血管を傷つけることで炎症を引き起こす。

※ただしこの世界では、細菌学と同じく寄生虫などの知識は医学的な観点から周知されていない、もしくは広く浸透していないため、公的な文献には載っていない。

※「ガルヴァ・ワーム」というのは、”ガルヴァ熱”という名前にあやかってオリカが名付けた。

☑︎ 主に汚染された飲み水を通じて感染する。

☑︎ 低温・湿潤な環境で繁殖しやすく、市場周辺の一部の井戸や地下水脈が感染源となる可能性が高い。

☑︎ 一部の安価な薬剤には、一時的に熱を抑える効果があるが、根本的な治療にはならない。




「この地域でガルヴァ熱の症例なんて、聞いたことがないぞ」


「普通なら、そうよね」


オリカは静かに答えた。


ガルヴァ熱——それは、特定の水源に生息する寄生虫が原因で発症する病。


感染すると、血管が炎症を起こし、高熱や関節痛、呼吸困難を引き起こす。


だが、ベルナーク交易市場のような乾燥した地域では、本来この病気は珍しいはずだった。


「……こんな場所で、なぜ?」


オリカは疑念を抱いた。


もしガルヴァ熱なら、水源を介して広がるはず。


だが、この患者たちの生活圏に、その感染経路があるとは考えにくい。


(違う……やっぱりこれは……)


彼女は魔法薬についてを考えていた。


「薬」のせいだと断定することができないが、症状がほぼ一致している。


ロストンの診療所で分析した時以来だ。


…だけど、ガルヴァ・ワームが体内にいる形跡はない。


にも関わらず、症状は悪化し続けている。


「先生、昨日の魔法薬を服用した患者たち、彼らの症状は共通していますよね?」


「……そうだな」


レイモンドが腕を組む。


「発熱、関節の腫れ、皮膚の異常。症状はほぼ同じだ」


「つまり……」


オリカは静かに息をついた。


「この症状は、ガルヴァ熱ではなく、あの魔法薬によるものの可能性がある」


「……やはりか」


レイモンドの顔が険しくなる。


「ガルヴァ熱は水源の感染が主です。ですが、この患者たちはそんな場所に近づいていないはず」


「もし魔法薬が原因なら、そこに“何か”が混ざっている可能性が高い」


エリーゼが鋭い目を向ける。


「つまり、誰かが意図的に不純物を混ぜたということ?」


「…そう思いたくはないけどね」


オリカは深く頷いた。


「……先生」


レイモンドが、渋い顔で口を開く。


「俺は、この診療所を守るために、貴族派の薬剤を使わざるを得ないんだ」


彼の声には、言い訳めいた響きがあった。


「だが、それでも救えない命がある。……お前の知識が、本当にこの病に効くなら」


彼は苦しげな表情を浮かべながら続けた。


「俺は、お前に賭けてみる価値があると思ってる」


オリカは、静かにレイモンドを見た。


「……わかりました。私に任せてもらえますか?」


彼女の目には、迷いはなかった。


だが、この症状を治すには、薬草だけでは不十分だ。

血管内を傷つけている魔力(毒素)の分解と、炎症を抑えるための成分を調合しなければならない。


「治療に必要な薬を作るには、いくつかの素材が必要になる」


オリカは、考えながら言った。


「ただ、市場に流通している薬草や素材だけでは足りないかもしれない」


「まず必要なのはファングラナイト。これは“必須”よ」


「……ファングラナイト。これまた希少な素材だな」


レイモンドが呟く。


「どこか、信頼できる薬師、…もしくは宝石商を紹介できる?」


オリカの問いに、レイモンドは一瞬考え込み、やがて小さく頷いた。


「……宝石商には疎いが、薬師ならひとりだけ、心当たりがある」


「誰?」


「リヒャルト・ウェーバー」


その名前を聞いた瞬間、エリーゼが微かに目を見開いた。


「……リヒャルト? あの“変わり者”の薬師?」


レイモンドは苦笑する。


「そうだ。あいつは数少ない独立系の薬師だ」


オリカは目を細めた。


「独立系? どうして?」


「……簡単な話さ。あいつは元々この街の古株だ。貴族派の連中が蔓延る前から、長いこと営業してたんだよ」


レイモンドは溜息をついた。


「だが、最近になって、リヒャルトのような個人運営の薬師はまともな商売ができなくなった。今は市場の外れでひっそりと店を構えてる」


オリカは、エリーゼとルシアンを見た。


「行ってみる価値はあるわね」


エリーゼは少し考えた後、小さく頷いた。


「ええ。ただ、リヒャルトは警戒心が強いわ。簡単には信用してくれないでしょうね」


「なら、信用を得るための手段を考えないとね」


オリカは、静かに口元を引き締めた。


ガルヴァ熱を治すために。

そして、この街に蔓延る医療の歪みを知るために。


新たな道が、開かれようとしていた。




ベルナーク交易市場の喧騒を背に、オリカたちは市場の外れへと歩を進めていた。


広場を抜けると、やがて道は細くなり、店の数もまばらになっていく。


人通りは減り、ところどころに古びた木造の建物がひっそりと並んでいた。


ここは、表の市場とは違う、いわば“周縁部”——権力や資本に縛られずに生きる者たちが集う場所。


「……こんな場所に薬師がいるの?」


ルシアンが訝しげに辺りを見回した。


「ええ、リヒャルトはこの辺りで店を開いているはずよ」


エリーゼが頷きながら進む。


オリカは、ふと周囲の雰囲気に違和感を覚えた。


道端には、布をまとった男たちが焚き火を囲み、小さな袋を手渡しながら何かを囁き合っている。


その横を、薄汚れた子供たちがうつむきながら歩いていく。


(……ここは、貧しい者たちが集う場所)


市場での賑わいとは対照的に、このエリアには活気がない。

目の前の建物はどれも古く、壁のあちこちに亀裂が走っていた。


「この辺りに住む人々は、市場でまともな医療を受けられないのよ」


エリーゼが静かに言った。


「だから、リヒャルトのような独立系の薬師が頼りにされるの」


「市場で薬が買えないなら、ここで調達するしかないってことか……」


ルシアンが小さく舌打ちする。


(それでも、この辺りの人々はまだ“薬”を買えるだけマシ……か)


オリカは思う。


ロストンでは、金のない者は“医療”という概念そのものにすら触れることができなかった。


それを思えば、ここにはまだ救いがある。


「ここよ」


エリーゼが足を止め、目の前の小さな店を指さした。


建物はこぢんまりとしているが、表には「ウェーバー薬房」と書かれた木の看板が掛かっていた。

扉の前には鉢植えが置かれ、香りの強い薬草が風に揺れている。


オリカは軽く息を吸い、扉を叩いた。


コン、コン。


数秒の沈黙の後、中から足音が近づくのが聞こえた。


「……誰だ?」


低く、警戒心の強い声。


扉がわずかに開き、細い隙間から、鋭い青灰色の目がこちらを覗き込んでいた。


ぼさぼさの黒髪、頬には無精髭が生え、疲れたような眼差しをしている。


「あなたが、リヒャルト・ウェーバー?」


オリカが静かに尋ねると、男は目を細めた。


「……何の用だ?」


「患者の治療に、あなたの知識と薬が必要なの」


男はしばらく沈黙した後、低く鼻を鳴らした。


「薬が欲しければ市場へ行け。ここは、安い薬を売る店じゃない」


「市場じゃ手に入らないのよ。だからここへ来たの」


オリカは一歩前へ出る。


「あなたしか頼れないの」


リヒャルトはオリカの目をじっと見つめた。

その表情には、彼女を試すような色が滲んでいる。


「……話は中で聞こう」


そう言って、彼は扉を大きく開けた。


——ウェーバー薬房の扉が、ゆっくりと軋みを上げながら開かれる。



ウェーバー薬房の扉をくぐると、そこは市場の喧騒とはかけ離れた静けさに包まれていた。


狭い店内には、棚いっぱいに並んだ瓶や箱が整然と収められている。

乾燥させた薬草、刻まれた樹皮、動物の骨や角。

どこか異国の雰囲気を思わせる装飾もあり、香辛料のような独特の匂いが空気に混ざっていた。


リヒャルト・ウェーバーは奥の机の前へと歩き、オリカたちに向き直った。

男は椅子に腰掛けると、じっとこちらを観察するように腕を組んだ。


「さて……俺に何の用だ?」


「あなたの持つ薬草や素材が必要なの」


オリカは率直に答えた。


「具体的に言えば、ガルヴァ熱に有効な素材を分けてほしい。取り扱ってるはずでしょ?——“ファングラナイト”を」


リヒャルトは目を細める。


「……それだけじゃ、具体的じゃねぇな」


「市場の流通は不安定で、信用できないわ」


エリーゼが静かに言葉を挟む。


「貴族派の流通規制もあるし、本物かどうかもわからない」


「ふん……確かにな」


リヒャルトは、軽く鼻を鳴らした。


「で? 俺が“信用できる”ってのは、どういう理由だ?」


「この町の薬師としての評判を聞いたわ」


オリカは真っ直ぐに彼の目を見つめる。


「あなたは、患者を“救う”ための薬を作っている。でも、同じ薬でも使い方次第では毒にもなる……違うかしら?」


「……」


リヒャルトの目が鋭く光る。


「言いたいことは分かる。だが、俺はお前を知らない」


男は椅子の背もたれに寄りかかり、細く息を吐いた。


「俺は“信用できる相手”にしか薬を渡さない。ましてや、ここにあるのはただの魔法薬や薬草じゃない。医療に携わる者としての覚悟がなければ扱えない代物だ」


「……信用が必要なら、お金で証明するわ」


オリカは躊躇なく、懐から袋を取り出した。


リヒャルトの眉がわずかに上がる。


「……ほう?」


「私たちは、ただの旅人じゃないわ」


エリーゼが続ける。


「ロストンで診療所を運営している医者よ」


リヒャルトはしばらく彼女たちを値踏みするように見つめていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。


「……面白い」


男は机の上の小箱を指で叩く。


「いいだろう。ただし、お前が求めてる“鉱石”は、手元にない」


「ない……?」


オリカが眉をひそめると、リヒャルトは肩をすくめた。


「いや、正確には“取り寄せてない”だけだ」


男はふと視線を横に流し、店の奥を示す。


「この店には、貴族派の連中の監視がついてるんでな。今は“特定の素材”を扱うのが難しくなっている」


「……監視?」


「そうさ」


リヒャルトは低く笑った。


「この町の薬剤師のほとんどは、貴族派の『薬剤師組合』に登録させられてる。昔はそんな“制度”がなかったんだが、取り締まりが強化されてな。俺のとこも例外じゃねぇ」


「……なるほど」


オリカは腕を組む。


「つまり、貴族派に目をつけられたくないから、ガルヴァ熱に効く素材は扱えない……そういうこと?」


「そういうことだ」


リヒャルトは短く頷く。


「だがな……最近の貴族派のやり方は、気に食わねぇ」


「……?」


「市場から薬草を締め出し、高値で売りつける。患者なんざどうでもいいって態度だ」


男は低く舌打ちをする。


「商売ってのはな、本来、売る側も買う側も“得”をするもんだ。だが、あいつらのやり方は違う。“持つ者”が“持たざる者”を食い物にするための手段になっちまってる」


リヒャルトの目が鋭く光る。


「だから、俺はお前らに“情報”をやる」


「情報……?」


リヒャルトはゆっくりと身を乗り出し、声を潜める。


「ガルヴァ熱に効く素材の一部は、取りに行くことが可能だ」


「……どういうこと?」


「街から少し離れた“旧鉱山跡”だ」


リヒャルトは地図の一部を指でなぞった。


「昔、鉱山として使われていた場所でな。今は封鎖されてるが、そこで“ファングラナイト”が採れる」


「ただし、旧鉱山跡は今や野盗や獣の住処になってる。おまけに、貴族派の監視がある場所でもある」


ルシアンが苦笑する。


「要するに、“楽な道”はねぇってことか……」


「まぁ、そういうことだな」


リヒャルトは笑いながら、金貨を手に取った。


「さて、坑道の地図はここにある。お前ら、どうする?」


オリカは目を細め、ゆっくりと地図を見下ろした。


選択肢は一つしかない。


「行くしかないわね」


彼女の声には、迷いはなかった——。

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