第120話
ライナーが鍵を回すと、木箱が小さく軋んだ音を立てて開かれた。
中には、いくつかの羊皮紙が丁寧に畳まれて収められている。
「これは?」
オリカが尋ねると、ライナーは一枚の羊皮紙を取り出し、広げながら答えた。
「この街で“薬草”を扱う商人や薬師なら、みんなこいつの名前を知ってるはずさ」
彼は指で文書の一部を示した。
「ここにあるのは、ベルナーク交易市場における薬草流通の記録だ」
オリカとエリーゼは羊皮紙を覗き込んだ。
そこには、過去数年間の薬草の流通量や価格の推移が記されていた。
しかし、ある時期を境に、ルーンベリーの流通量が極端に減少していることがわかる。
「……ここ最近、一気に市場から姿を消しているわね」
オリカがそう指摘すると、ライナーは腕を組んで唸った。
「そうだ。ちょうど“組合”が動き出した頃からな」
「組合……?」
エリーゼが反応すると、ライナーは軽く頷く。
「帝国薬学機構(I.P.O)だよ。ここ最近、…つってももう何年も経つが、貴族派の後ろ盾を得て、薬草の流通を牛耳るようになった機関だ。王国の医療制度にまで手を突っ込んで、薬の流通を“管理”する名目で、市場を操作し始めている」
「……つまり、ルーンベリーもその影響を受けているってこと?」
オリカが問いかけると、ライナーは渋い顔をした。
「おそらくな。ルーンベリーは昔から希少な薬草だったが、それでも市場には細々と流通していた。だが、ここ数カ月でまったく姿を消したんだ。その代わり、組合を通じて“高額な価格”で取引されるようになった」
「……つまり、供給元を独占して、価格を吊り上げているということね」
オリカの言葉に、ライナーは苦々しく頷く。
「そういうこった。もはや“普通のルート”じゃ手に入らねぇ。今、ルーンベリーを手に入れようと思ったら、奴らを通すしかない」
エリーゼが静かに息を呑む。
「でも、私たちがそこから直接買うのは……」
「無理だな」
ライナーがきっぱりと言い切る。
「薬剤師組合は“貴族派”と繋がっている。あんたたちが商人ギルドの関係者で、貴族派の後ろ盾もない「医者」として薬剤を買おうなんざ、真正面から喧嘩を売ってるようなもんだ」
オリカは羊皮紙を握りしめながら考え込んだ。
(……どうすればいい?)
市場で手に入らず、正規のルートでは購入できない。
だとすれば――
「……流通の“裏”を探るしかないわね」
オリカは静かに言った。
ライナーは少し驚いたように眉を上げる。
「……本気か?」
「ここで諦めるわけにはいかないもの」
オリカの声には、確固たる意志が宿っていた。
「私は“医者”よ。患者を見捨てることなんてできないわ」
ライナーは彼女を見つめ、しばらく沈黙した。
そして――
「……チッ、仕方ねぇな」
舌打ちしながらも、どこか諦めたような笑みを浮かべた。
「なら、“もう一つのルート”を教えてやるよ」
オリカとエリーゼはライナーを見つめた。
「もう一つのルート……?」
ライナーは再び木箱の中を漁ると、一枚の紙片を取り出した。
そこには、一つの名前が記されていた。
「この街には、薬剤師組合とは“別のルート”で薬草を扱うやつがいる。闇市の薬商人だ」
エリーゼの表情が険しくなる。
「……闇市?」
「表の市場には流通しない品物を扱う連中さ。どんな手を使ってるかは知らねぇが、市場に出回らない薬草を、秘密裏に仕入れるルートを持ってるらしい」
オリカは紙片を受け取り、そこに記された名前を見つめた。
「“ダリウス”……?」
ライナーは肩をすくめる。
「詳しいことは知らねぇ。ただ、こいつに話を通せば、何かしらの情報は得られるかもしれねぇ」
オリカは紙片を握りしめた。
(……ここに、希望があるかもしれない)
ルーンベリーの行方を探るために、新たな道を探す必要があった。
彼女は深く息をつき、決意を固めた。
「ありがとう、ライナー」
「礼なんざいらねぇよ。ただ——」
ライナーは少し渋い顔をしながら、忠告を付け加えた。
「“ダリウス”は、金と信用の話しかしねぇ男だ。下手なことをすれば、こっちが食い物にされるかもしれねぇぞ」
「……わかってる」
オリカは真っ直ぐにライナーを見つめた。
「でも、やるしかないわ」
エリーゼも静かに頷く。
ルーンベリーを手に入れるための、次の一歩——
それは、“ダリウス”という闇の薬商人との接触だった。
◇
夜のベルナーク交易市場は、昼間とはまったく異なる表情を見せていた。
日が沈むと、賑やかな露店の多くは店じまいをし、代わりに裏通りの影に潜む者たちが活動を始める。
不釣り合いなほどの静かな通り。
建物の間には灯りがともっているものの、どこか陰鬱な雰囲気を漂わせていた。
オリカは、紙片に書かれた名前を改めて確認した。
「ダリウス……」
この街で薬の裏取引を行っている商人の一人。
正式な流通ルートを外れた薬草や魔導薬を扱い、普通の商人が手を出せないものを売買しているらしい。
「……ここで合ってるの?」
エリーゼが小声で尋ねた。
二人が立っていたのは、市場の外れにある細い路地の奥だった。
ライナーから教えられた“場所”は、一般の商人が近寄らない半ば放棄された建物の一角にあった。
看板もなく、まるで廃墟のような雰囲気。
「見た感じ、普通の店には見えないわね……」
オリカは周囲を警戒しながら、ゆっくりと扉に手をかけた。
ギィ……
古びた木の扉が軋む音を立てながら開く。
中には、灯りがひとつだけともされた狭い部屋があった。
奥のカウンターには、一人の男が座っている。
長い黒髪を後ろで束ね、細身の体をゆったりと椅子に預けていた。
男は、オリカたちに気づくと、ゆっくりと視線を上げた。
「……ふぅん?」
細い目が、興味深げに彼女たちを見つめる。
「珍しいな。こんな時間に“新しい客”が来るとは」
男の声は穏やかだったが、その奥にはどこか底知れぬものが感じられた。
「……あなたが、ダリウス?」
オリカが警戒しながら問いかけると、男は肩をすくめた。
「さてね。その名前をどこで聞いた?」
「ライナーから」
そう答えると、男は小さく笑った。
「ライナーね……なるほど、アイツが紹介したのなら、それなりに話は聞いてやろう」
ダリウスは指先でカウンターを軽く叩きながら、オリカをじっと見つめる。
「さて、何を探しに来た?」
オリカはためらわずに答えた。
「ルーンベリーよ」
その瞬間、ダリウスの指が動きを止めた。
一瞬の沈黙。
やがて、彼は小さく息を吐き、カウンターに肘をついた。
「……そいつは、なかなか面倒な依頼だな」
「あなたなら、手に入れられるんでしょう?」
オリカが詰め寄ると、ダリウスは少し考えるように目を伏せる。
「確かに、昔は市場にも流れていた。だが、今は違う。……市場に流れるルーンベリーは、すべて管理されている」
「知ってるわ。薬剤師組合の仕業でしょう?」
ダリウスは、興味深そうにオリカを見た。
「……詳しいな。だが、それを知っていて、なぜ俺のところに来た?」
「市場のルートを抑えられたなら、“市場の外”のルートを探すしかないわ」
オリカの言葉に、ダリウスはわずかに口角を上げた。
「なるほど。お前、ただの医者じゃないな」
「ただの医者よ」
オリカは静かに答えた。
「でも、患者を救うためなら、どんな手でも使うわ」
その言葉に、ダリウスはしばらく沈黙した後、小さく笑った。
「……悪くないな」
彼はカウンターの下から、小さな羊皮紙の束を取り出した。
「いいだろう。だが、俺は慈善家じゃない。情報にも“価値”がある」
「何が欲しいの?」
オリカが即答すると、ダリウスはゆっくりと指を一本立てた。
「簡単なことだ。“俺に協力しろ”」
オリカとエリーゼが警戒するのを見て、ダリウスはくすりと笑う。
「心配するな。物騒なことを頼むつもりはない」
彼は羊皮紙の束を指で弾きながら、静かに続けた。
「実は最近、“ある厄介な取引”が横行している」
「取引?」
エリーゼが眉をひそめる。
ダリウスはゆっくりと頷いた。
「……偽薬だ」
オリカの表情が変わった。
「偽薬……?」
「そうだ」
ダリウスは低く呟く。
「薬剤師組合が薬の流通を独占して以来、本来の薬が市場から消えた。その影響で、裏では“安価な偽薬”が出回るようになった」
「そんな……!」
エリーゼが息をのむ。
「……つまり、あなたはそれを止めたい?」
オリカが核心を突くと、ダリウスは小さく笑った。
「止めるのは無理だ。だが、“誰が流しているのか”を知る必要がある」
彼はオリカをじっと見つめる。
「お前、“医者”なんだろう? なら、偽薬を摂取した患者を診てみるのはどうだ?」
オリカは一瞬考えた。
(偽薬が横行している……それは、医療の根幹を揺るがす問題よ)
「……いいわ」
オリカは決意を込めて頷いた。
「その患者を診て、その薬が何なのかを突き止める」
ダリウスは満足そうに頷いた。
「取引成立だ」
彼は羊皮紙の束から、一枚を抜き取り、オリカに渡した。
「患者はこの場所にいる。……診てみるといい」
オリカは紙を受け取り、その内容を確認した。