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第119話




ベルナーク交易市場の喧騒を抜け、オリカたちは裏通りへと足を踏み入れた。


大通りの活気とは異なり、ここは静かで、どこか湿った空気が漂っている。


狭い路地には、小さな店や作業場が並び、時折、布で顔を覆った商人が荷を運んでいた。


「……この辺り?」


ルシアンが辺りを見回す。


「ええ。アレクシス家の知人——ライナー・ホルツ薬師は、この通りのどこかで店を構えているはずよ」


オリカは慎重に周囲を見渡しながら、目的の店を探す。


ライナー・ホルツ——彼は元々、ロストンでも有名な薬師だった。


だが、貴族派が薬剤市場を独占し始めてからは、表の市場での活動を控え、今は細々と裏通りで薬屋を営んでいるという。


「ほら、あそこだ」


エリーゼが指さした先に、小さな木の看板が掲げられた店があった。

扉の上には「ホルツ薬房」と古びた文字が刻まれている。


オリカは息を整え、扉をノックした。



扉の向こうから、重い木の軋む音が聞こえた。


数秒の沈黙の後、扉がわずかに開き、中から一人の男が顔をのぞかせる。


「……あんたら、誰だ?」


鋭い灰色の瞳。


小柄だが、無駄な肉のない引き締まった体つき。


年齢は五十代ほどだろうか。


無精ひげを生やし、くたびれた麻の上着を羽織っていた。


「ライナー・ホルツ薬師ですね?」


オリカが静かに言うと、男は怪訝な顔をした。


「……さて、そんな名の薬師がいたかね?」


「アレクシス家の紹介で来ました」


その名を聞くと、男の目つきがわずかに変わった。


「……アレクシス家? ヴィクトールの差し金か?」


「いいえ。個人的な頼みがあって来ました」


オリカは慎重に言葉を選ぶ。


男はしばらく彼女を見つめたあと、ため息をつき、扉を開けた。


「……まぁ、入れ」



店の中は狭く、棚には乾燥した薬草や小瓶が並んでいた。


机の上には、調合途中の薬包がいくつも並び、ほのかに苦味のある香りが漂っている。


ライナーは椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。


「で? 何を求めてここに来た?」


「ルーンベリーを探しています」


その言葉に、ライナーの目が細くなった。


「……ルーンベリー、ねぇ」


彼は指で机をトントンと叩きながら、考え込むような仕草をした。


「悪いが、それは扱ってねぇ」


「……やっぱり、もう手に入らないんですか?」


ライナーは短く鼻を鳴らした。


「手に入らないわけじゃねぇ。ただ、そう簡単に渡せる代物でもねぇんだよ」


「どういうこと?」


エリーゼが眉をひそめる。


「今のルーンベリーは、貴族派の製薬工場で独占されちまった。市場に出回らないってことは、裏ルートを探すしかねぇってことだ」


「あなたは、持っているんですね?」


オリカがじっとライナーを見つめる。


彼はしばらく沈黙したあと、ニヤリと笑った。


「さぁな。だが、仮に俺が持っていたとして——簡単にくれてやる義理もねぇ」


「……では、どうすれば?」


ライナーは椅子から立ち上がり、棚の奥から小さな袋を取り出した。

袋の口を少し開くと、中から淡い赤紫色の乾燥した果実が見えた。


確かに、ルーンベリーだ。


「……!」


オリカたちは思わず息をのんだ。


「これはほんの少しだけ市場に出回っていた時に仕入れたものだ。だが、もう二度と手に入らねぇかもしれねぇ」


ライナーは袋を閉じ、じっとオリカを見た。


「お前は医者だな?」


「……はい」


「ならば、証明してもらおうか」


ライナーは不敵に笑った。


「この薬草を渡すかどうかは、お前の腕次第だ」


「……どういう意味ですか?」


ライナーは店の奥を指さした。


「そっちに、今にも死にそうな患者がいる。医者なら、そいつを助けられるはずだろ?」


オリカは息を呑んだ。


(患者の治療……?)


「……わかりました」


オリカは迷うことなく立ち上がった。


ライナーは静かに頷き、店の奥へと案内する。


「ついて来な」



ライナーの薬房の奥へと進むと、空気が一変した。


棚には乾燥させた薬草や瓶詰めの薬液が並び、独特の香りが充満している。


しかし、その整った空間とは対照的に、部屋の隅の寝台には、荒い息遣いが響いていた。


「——彼だ」


ライナーが顎で示した先には、一人の男が横たわっていた。



◆ 瀕死の患者


四十代半ばの男性。

額には脂汗が浮かび、シーツの上で身を捩るように苦しんでいる。


オリカはすぐに患者の状態を観察し始めた。


☑︎ 呼吸が不規則で、喉の奥で異様な音が鳴っている

☑︎ 皮膚が不自然に赤黒くなり、火傷のような炎症が広がっている

☑︎ 関節の動きが鈍く、手指がわずかに硬直している

☑︎ 脈拍が異常に速く、異常な発熱が続いている

☑︎ 目を開けさせると、光に対する反応が鈍い



(……これは、単なる感染症とは違う)


オリカは患者の喉元に手を当てた。

体温は異常なほど高く、まるで中から焼けるように熱を発している。


「……最近、この人は何をしていました?」


オリカはライナーに尋ねた。


「市場に出る以外は、普段と変わらねぇ。ただ、最近になって“変な虫に噛まれた”って話してたな」


「虫……?」


「最初は蚊に刺されたくらいに思ってたらしいが、数日経つうちに皮膚が赤黒くなってきて、そっから急激に悪化したんだとよ」


「……!」


オリカの中で、いくつかの症例が結びつく。


(もしかして、“ワームフレイム症候群”……?)


ワームフレイム症候群――それは、特定の吸血昆虫によって媒介される毒素が原因で起こる症候群だ。


☑︎ 毒素が神経を刺激し、発熱を引き起こす

☑︎ 皮膚の炎症とともに、関節や筋肉の硬直が進行する

☑︎ 放置すれば、最終的には全身の神経が麻痺し、死に至る


オリカは患者の手を取り、指先の硬直具合を確かめる。


そして、患者の腕に小さな噛み跡があるのを確認した。


「……やっぱり」


彼女は静かに息をついた。


「これは“ワームフレイム症候群”の可能性が高いわ」


ライナーとエリーゼが顔を見合わせる。


「ワーム……なんだって?」


「“ワームフレイム症候群”。南方の湿地帯や、沿岸部の低湿地に生息する特定の昆虫が媒介する病気よ。……でも、私は実際にこの病を治療したことはないの」


「……ってことは、確信はねぇのか?」


ライナーが眉をひそめる。


「完全な確信はないわ。でも、症状が一致している以上、この病気として対処するしかない」


オリカは少し考えた後、ライナーの方を向いた。


「ライナーさん、“シルバーバークの樹皮”と、“アイスワート”を持っている?」


「……シルバーバークはあるが、アイスワートはなぁ」


「でも、それが必要なの」


ワームフレイム症候群に対処するには、毒素を抑える成分と、異常な神経興奮を鎮める成分が不可欠だった。


☑︎ シルバーバークの樹皮 → 抗毒作用があり、体内の毒素を中和する効果

☑︎ アイスワート → 神経の炎症を抑え、筋肉の硬直を和らげる効果


「それが手に入らないなら、代用できるものは?」


エリーゼが尋ねる。


オリカは少し考えた後、頷いた。


「……アイスワートの代わりに、“フレイムグラス”を試せるかもしれない。これには熱を抑える作用があるわ」


ライナーはしばらく黙っていたが、やがて小さく溜息をついた。


「……チッ、仕方ねぇ。倉庫を探してくる」


彼は店の奥へと消えていった。



◆ 応急処置


ライナーが持ってきたシルバーバークの樹皮とフレイムグラスを手に、オリカはすぐに調合を始めた。


まず、シルバーバークの樹皮を煎じた液を少量ずつ飲ませる。

これは体内の毒素を少しずつ排出させるためだ。


次に、フレイムグラスをすり潰し、冷水と混ぜたものを患者の肌に塗布する。

これにより、異常な熱を抑え、皮膚の炎症を和らげる。


「……これで、少しは落ち着くはず」


患者の呼吸が、少しだけ安定してきた。


「……すげぇな」


ライナーが腕を組み、興味深そうにオリカを見つめる。


「俺も長いこと薬屋をやってきたが、こんな治療法は初めて見たぜ」


オリカは静かに答えた。


「……私は、ただの医者よ」


ライナーは短く笑い、肩をすくめる。


「そうは思えねぇがな。…まぁ、あんたの腕が本物なら、それでいいさ」


オリカは改めて患者の様子を見つめた。


「あと数日、様子を見て。症状が改善しなかったら、また別の方法を考えないといけないわ」


「……わかった」


ライナーは大きく頷くと、深く息をついた。


「……約束通り、あんたを信用しよう」


そして、彼はカウンターの奥へと手を伸ばし、鍵のかかった小さな木箱を取り出した。


「俺の知ってる限りの“ルーンベリー”に関する情報を教えてやるよ」


オリカの視線が、木箱へと向けられる。


——ついに、次の手がかりが手に入る。


(……ルーンベリーの行方が、これでわかるかもしれない)


彼女は小さく息を呑み、ライナーの言葉を待った。


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