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第117話




ロストンの空が、静かに夜明けを迎えていた。


薄紅色の光が地平線から滲み出し、街の屋根や尖塔を金色に染め上げていく。朝霧が立ち込める街道は、朝露に濡れた草花を揺らし、かすかな風の音が静寂を裂くように響いていた。


オリカたちはすでに馬車の代わりとなる“スレイヴォルグ”に跨り、ベルナーク交易市場へ向けての長い旅路に備えていた。


スレイヴォルグ——それは、草食性でありながら俊敏な脚力を誇る大型の陸翔獣である。

長い首と滑らかな毛並みを持ち、馬よりも一回り大きな体躯を誇る。

広い平原を疾走するその姿は、まるで空を駆けるように軽やかだった。


「随分、静かな朝ですね」


エリーゼが澄んだ声で呟く。

金色の髪を束ね、オリカの隣でスレイヴォルグの手綱を操る彼女の姿は、朝の光の中で神秘的な気品を帯びていた。


「静かすぎるくらいだな」


ルシアンがぼやきながら、スレイヴォルグの首筋を軽く撫でる。

長旅を前にしても、彼の表情はいつも通りの飄々としたものだった。


「ベルナーク交易市場まで、何日くらいかかるんだ?」


「順調なら10日ほどって聞いたよ」


オリカがスレイヴォルグの背を軽く叩きながら答える。


「それでもこの子たちがいなければ、1ヶ月以上はかかったでしょうね」


スレイヴォルグは、かつて遊牧民族が大陸を越える際に使ったとされる生き物だ。

馬の三倍の速度で走ることができ、その持久力は類を見ない。

長距離移動の際には、この獣を使うのが常識となっている。



オリカ、エリーゼ、ルシアンの三人は、それぞれのスレイヴォルグに跨り、

診療所「うさぎのおうち」の前で最後の確認をしていた。



——だが、オリカにはもう一つ、大切なことが残っていた。



◇◇◇



診療所の一室。


朝の光が窓から差し込み、ベッドの上のギルバートを照らしていた。

彼の呼吸は以前よりも落ち着いており、治療が確実に効果を上げていることを示していた。


オリカはその姿を確認すると、部屋の片隅で控えていたマーサに視線を向けた。


マーサは修道女としての誓いを立てたばかりの若い女性で、医学への熱意と探究心を持ち、オリカの助手として働いていた。

まだ経験は浅いが、彼女の誠実さと努力家な性格は、オリカにとって頼もしいものだった。


「マーサ、ギルバート様の治療はあなたに任せるわ」


「……本当に、私で大丈夫でしょうか?」


マーサは不安げにオリカを見つめる。


「私一人で、ギルバート様の診療を……」


「大丈夫よ」


オリカは優しく微笑み、マーサの肩に手を置いた。


「あなたには、私が調合した魔法薬と、治療療法の指示書がある。

 決して無理はしないこと。

 何か異変があったらすぐにエリーゼに手紙を送ること。

 それさえ守れば、あなたは立派にやれるわ」


マーサはしばらく逡巡していたが、やがて覚悟を決めたように深く頷いた。


「……分かりました、先生。私、精一杯やってみます」


「ありがとう、マーサ。あなたならきっと大丈夫よ」


オリカはギルバートの枕元にそっと手を添えた。


「必ず戻ってくるから」


彼女がそう静かに囁くと、朝の風がそっとカーテンを揺らした。


◇◇◇


ロストンの街門をくぐり、彼らは旅へと出た。


眼前には、果てしなく広がる草原と青空が続いていた。


スレイヴォルグの蹄が大地を蹴り、軽やかに駆ける。

金色の草原が風に揺れ、遠くには森や丘が点在している。

鳥たちが高く舞い、流れる雲がゆっくりと形を変えていく。



オリカは視線を遠くに向けながら、ゆっくりと息を吸った。

澄んだ空気が肺の奥まで満ちる。

だが、心の奥にある曇りは、まだ晴れそうになかった。


ロストンを出た今、私はどこへ向かうのだろうか?


この旅は、単なる物資調達ではない。

これは挑戦だった。


失いかけたものを取り戻すための——

診療所の未来を切り開くための——


そして、何よりこの世界に“正しい医療”を根付かせるための戦いだった。


世界は広い。


だが、その広さを前に、オリカの胸には言い知れぬ孤独があった。


◇◇◇


スレイヴォルグは次第に速度を上げ、地平線へと駆けていく。


彼らの進む道は、やがて草原を抜け、岩山の大地へと差し掛かった。


切り立った断崖が続く峠道——

長い年月の風が削り出した、鋭く雄大な峰々——

遥か遠くの山々は、白く雪をいただき、その裾野には深緑の森が広がっている。


ここはグラン=リンド渓谷。


古くから交易の要所として知られ、

峠を抜ければ、広大な湖や森林地帯へと続いていく。


「……すごい」


ルシアンが、思わず声を漏らした。


彼の視線の先には、光と影が交錯する幻想的な景色が広がっていた。


渓谷の間を流れる清流が、陽光を受けて銀色に輝き、

川辺には巨大な飛石が点在している。

時折、そこに翼を広げた白鷺が舞い降り、静かに水面を見つめていた。


「こんな景色……初めて見た」


彼の言葉は、驚きと感嘆に満ちていた。


長い間、閉ざされた収容所の中で生きてきた彼にとって、

世界とは壁の向こう側だった。


——だが、今は違う。


世界は開け、果てしなく続いていた。


オリカはそんな彼の横顔を見つめながら、小さく微笑む。


「まだまだ、これからよ。旅は始まったばかり」



◇◇◇




さらに進むと、風景はまた大きく変わった。


渓谷を越えた先には、青々とした森と、大きな湖が広がる。


ラグナ湖とセリカの森。


湖は鏡のように澄み渡り、周囲の森を映し出している。

湖面には水鳥が浮かび、風が吹くたびに水面がきらめく。

湖のほとりには、苔むした岩や野生の花々が咲き乱れ、

その香りが柔らかく空気を包み込んでいた。


「……まるで、絵の中にいるみたいだな」


ルシアンが呟いた。


「ここは、昔から“精霊の眠る湖”って呼ばれているのよ」


エリーゼが静かに説明する。


「湖の底には古代遺跡が沈んでいて、今でも時々、不思議な光が水中を漂うことがあるらしいわ」


「不思議な光?」


ルシアンが興味を示すと、エリーゼは微笑んだ。


「ええ。伝説では、それは精霊の魂だって言われているの」


湖を取り囲むセリカの森は、柔らかな木漏れ日を落としながら、静かに揺れていた。

豊かな緑の間を、清らかな小川が流れ、小さな魚たちが戯れている。


この地は、かつて交易の中継地だったが、

人々が増え、文明が発展するにつれて、次第にその役目を終えていった。


今では、ただ静寂と自然が残るのみ——


オリカはスレイヴォルグから降り、湖の水を掬った。

指先を伝う冷たさが、彼女の心を少しだけ鎮めてくれるような気がした。


「ねぇ、ちょっと休憩しない?」


エリーゼが提案する。


「そうね……この子達も少し休ませたほうがいいし」


彼らは湖のほとりでひと息つき、持ってきた干し肉と黒パンを取り出した。


川のせせらぎ。


鳥の囀りのような軽やかな虫の声。


静かに流れる時間の中、彼らは未来について語り合った。


「ロストンに戻ったら、診療所はどうするつもり?」


エリーゼがオリカに問いかける。


オリカは小さく息をつき、湖面を見つめた。

波紋ひとつない透明な水は、まるで彼女の迷いを映し出しているようだった。


「……今のままじゃ、いずれ潰されるよね」


静かながら、確かな覚悟を帯びた声だった。


「貴族派の圧力は強まるばかり。商人ギルドも不安定で、市民たちは噂に惑わされてる」


オリカは膝の上で指を組む。


「でも、それでも、私は診療所を諦めるつもりはない。医療は“貴族の道具”なんかじゃないんだから」


ルシアンは干し肉を齧りながら、じっと彼女を見つめる。


「じゃあ、どうするんだ?」


「……まずは、市場で医療用の物資を手に入れること。今回の旅は、それが第一の目的よ」


オリカはルシアンとエリーゼを見回しながら、言葉を続ける。


「その先に、診療所を存続させるための道が見えてくるかもしれない。……ベルナーク交易市場で、何か手がかりを探しましょう」


エリーゼは頷き、ルシアンも肩をすくめながら「まぁ、やるしかねぇか」と呟いた。


そうして、彼らは再びスレイヴォルグに跨り、旅路へと戻った。


◇◇◇


湖を背に、道はやがて深い森へと続いていった。


セリカの森を抜けると、草原と丘陵が広がる大地へ——


風に揺れる緑の絨毯のような丘陵地帯を、スレイヴォルグの蹄音が響く。

昼下がりの太陽が柔らかく地を照らし、彼らの影が長く伸びていた。


「これが“旅”ってやつか……」


ルシアンが呟く。


収容所で閉ざされた世界にいた彼にとって、こんなにも広大な景色を目にするのは久しぶりだった。


行商人バルドとの旅を思い出す。


どこまでも続く大地と空。


果てのない道。


世界は、——こんなにも広い。



さらに進むと、丘陵地帯は次第に姿を変えていった。


道は岩がちな山岳地帯へと入り、切り立つ断崖の間を縫うように進んでいく。

巨大な岩盤がむき出しになった絶壁、風化した石柱のようにそそり立つ奇岩群。

時折、谷底から吹き上がる風がスレイヴォルグのたてがみを揺らす。


「すげぇな……まるで神話の中の世界みたいだ」


ルシアンが驚嘆する。


エリーゼは微笑みながら、小さく頷いた。


「この地には、昔“石の巨人”が住んでいたという伝承があるのよ」


「巨人?」


「ええ。彼らが作ったとされる遺跡も、このあたりにはいくつか残ってる」


遠く聳える山肌には、崩れかけた石造りの門や、苔むした階段が見える。


かつて栄えた文明の名残——今はただ、風だけがその廃墟の中を吹き抜けていた。



やがて、山岳地帯を抜けると、空が広く開けた。


視界の先には、緩やかに波打つ丘の向こうに、金色の平原が広がっている。


風が強くなり、草がさざ波のように揺れた。


この広大な平原を越えた先に、ベルナーク交易市場がある。


「そろそろ野営の準備をしないとね」


オリカの言葉に、エリーゼとルシアンも頷く。

彼らは小さな林のそばに馬を止め、焚き火の準備を始めた。


焚き火が静かに燃え、空には無数の星が瞬く。


夜の大地は冷え込み、遠くで野生の獣の鳴き声が響いていた。

だが、焚き火の温もりが、彼らの心を穏やかにしてくれる。


「ベルナーク交易市場には、どんなものが売られてるんだ?」


ルシアンが火を見つめながら尋ねる。


「ほとんど何でも手に入るわ。薬草や魔導薬も、珍しい品種が揃ってるはず」


「へぇ……そんなすごい場所があるんだな」


「でも、同時に、貴族派の目も光ってる。慎重に動かないと」


エリーゼの言葉に、ルシアンは小さく唇を噛んだ。


今や、彼らは危険の中にいる。

だが、それでも——進まなければならない。


◇◇◇


そして、旅立ちから約10日後——


ついに彼らは、ベルナーク交易市場の門前へとたどり着いた。


朝日が昇る中、遠くに見える市場の街並みは、まるで大河のように活気に満ちていた。

馬車が行き交い、人々の声が響き、色とりどりの商人の旗がはためいている。


「……これが、ベルナーク交易市場」


オリカは、目の前に広がる光景を静かに見つめる。


果たして、この場所で何を得ることができるのか——


彼らの旅は、まだ始まったばかりだった。



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