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第108話





ベルナーク交易市場の夜は、未だ眠らない。

月明かりが石畳を淡く照らし、雑踏のざわめきが遠くで響いている。


フィオナは、路地裏の奥へと続く細い道を進んでいた。

昼間は通らないような裏道だが、今は“指定された場所”へ向かうため、ためらいはなかった。


ポケットの中の紙片を指先で弄ぶ。

男から渡された情報。それが罠か、それとも本当に価値あるものなのかは、行ってみなければわからない。


指定された酒場――『朧の角』

交易市場の表通りから外れた場所にひっそりと佇む、薄暗い酒場。

“正規の商人”は決して立ち寄らないことで有名な場所だ。


フィオナは扉の前で足を止めた。

酒と煙草の香り、わずかに血の匂いも混じる。


「……随分と荒れてるね」


扉を押し開けると、途端に喧騒が溢れ出した。


薄暗いランプの灯りに照らされた店内。

木製のカウンターには、年季の入った酒瓶が並び、奥のテーブルでは数人の男たちが賭け事に興じている。

煙が立ち込め、空気は乾燥している。


そして、フィオナの姿を認めると、一瞬だけ店内の空気が変わった。


「おや、“竜の娘”じゃねぇか」


カウンターの奥から、低く笑う声が響いた。

声の主は、片目に眼帯をした大柄な男。

左腕には刺青が刻まれ、首元には金のチェーンが光る。


“グレイヴ”。

ベルナーク市場の”闇の取引”を取り仕切る人物の一人。


「何の用だ? こんな夜更けに」


フィオナはポケットから紙片を取り出し、無造作にカウンターに置いた。


「ここに来いって言われたんだよ」


グレイヴは紙を手に取ると、ちらりと目を走らせる。


「……なるほどな」


薄く笑みを浮かべ、フィオナを値踏みするような視線を向ける。


「お前、何を知りたい?」


フィオナはカウンターに肘をつき、低く笑う。


「魔導薬さ。最近、流通がやけに活発になってるみたいだけど……それがどこから来てるのか、ちょっと気になってね」


グレイヴの表情がわずかに変わる。


「……ほう。情報屋が、そんなことを知りたがるとはな」


「情報屋だから知りたいのさ。……で、どうなんだい?」


グレイヴはグラスの中の酒を軽く回しながら、思案するように目を細めた。


「タダで教えるほど、俺も甘くはねぇよ」


「だろうね」


フィオナは肩をすくめ、余裕の笑みを浮かべる。


「なら、取引といこうか」


「フッ……やっぱり、そう来るか」


グレイヴは短く笑い、グラスを置いた。


「街角にある個人の小さな店があるだろう。看板の塗装が剥げかけた、古びた雑貨屋だ」


「……ほう?」


「そこに、“借金を踏み倒した野郎”がいる」


「…借金?」


「わかるだろ?これは“取引”だ。そいつの情報を教えたってことは、——な?」


フィオナは目を細める。


「へぇ……そいつが、何か関係あるのかい?」


グレイヴはにやりと笑う。


「さあな。だが、そいつは“なかなか口が堅い”」


「なるほどね……」


フィオナは軽く舌打ちする。


「つまり、そいつをうまく転がせば、情報が手に入るってわけか」


「そういうこった」


グレイヴは肩をすくめる。


「どうする? ここで引き返してもいいんだぜ?」


フィオナは鼻で笑い、立ち上がる。


「アンタの話が本当なら、そいつは“とっておきの宝箱”みたいなもんだろ?」


「……フッ、いい表現だな」


グレイヴは興味深げに目を細める。


「じゃあ、私はその鍵を見つけに行くとしようか」


そう言い残し、フィオナは店を後にした。







ベルナーク交易市場の商店街から離れた、とある街角。


フィオナは腕を組み、目の前の扉をじっと見つめていた。

扉の向こうにいるのは、グレイヴが言っていた”借金を踏み倒した野郎”。


”お前の知りたい情報は、ソイツに聞け“と、彼は言った。

フィオナはその意味をよくわかっていた。


彼女は追っていたのだ。


「価値のある情報」を。


市場の”金の流れ”を。


「……さて、と」


扉の前で、短く息をつく。

手のひらを軽く握り、開く。


フィオナは戦いに慣れている。

だが、“情報屋”として動いている以上、無駄な暴力は避けるべきだとも分かっている。


「始末しろとは言われなかったけど……結局、私次第ってことか」


呟くと、扉に手をかけた。

ギィ……

重い木の扉が軋みながら開く。


——そして、目の前にいたのは、想像とはまるで違う男だった。


縮こまった背中。震える肩。

男は明らかに怯えていた。


「……な、なんだ……誰だ……!」


髪はボサボサで、頬はこけ、目の下には濃いクマ。

まともに食べてもいないのか、痩せ細っている。


フィオナは扉の前に立ち、静かに相手を見下ろした。


「アンタが”借金を踏み倒した野郎”?」


「ひっ……!」


男は後ずさる。


「俺は……! ただ……!」


「ただ?」


フィオナは腕を組み、眉をひそめる。


「ただ、生き延びたかっただけだって?」


男はギュッと唇を噛む。


「……アンタ、何か事情がありそうだね」


フィオナは腰に手を当て、ため息をついた。


「普通なら、今すぐこの場で痛めつけて、金を払わせるのが”流儀”なんだろうけど……私は商売柄、話を聞くのが仕事でね。どうせなら、少しだけ話してくれない?」


男は恐る恐るフィオナの顔を見た。


「……話したら……見逃してくれるのか?」


「さぁね。それは内容次第じゃない?」


フィオナは椅子を引き、どかっと腰を下ろす。


「で、アンタの借金、何があった?」


男は、しばらく沈黙していた。

だが、観念したように口を開く。


「……俺は、家族を守りたかっただけなんだ」


「家族?」


「妻と子供がいる……でも、商売がうまくいかなくて……追い詰められて……」


男は拳を握る。


「どうしようもなくなって、“アイツら”に頼ったんだ……」


「アイツら?」


フィオナが目を細める。


「……“貴族派の金貸し”さ」


男の言葉に、フィオナの表情が微かに変わった。


「貴族派……?」


「そうだ……ギルドとは別の筋の連中だ……“信用できる貸し主”だって紹介されて、俺は金を借りた……」


「……で、返せなくなったと」


男はギュッと拳を握る。


「最初は、返せるはずだった……だが、利子が……どんどん増えて……どうしようもなくなって……」


フィオナは小さく鼻を鳴らす。


「なるほどね。典型的な”罠”か」


貴族派が庶民を締め上げるために、裏で運営している”非合法な金融”。

利子を膨れ上がらせ、返済不可能に追い込み、財産を没収し、身ぐるみを剥ぐ。


「……で、金が払えないから逃げたってわけ?」


男は歯を食いしばる。


「俺には……守らなきゃならないものがある……!」


フィオナは椅子の背に腕を回し、空を仰ぐ。


「……さて、どうするかな」


目の前の男は、ただの借金踏み倒しの悪党じゃない。

貴族派の搾取に追い詰められた、“被害者”だ。


グレイヴは「始末しろ」とは言わなかった。

“好きにすりゃいい”と言った。


それはこの「業界」における“隠語”だ。


ならば——



フィオナは軽く顎を鳴らし、立ち上がった。


「よし、決めた」


男がビクリと身を縮める。


「お、俺をどうする気だ……!?」


フィオナは肩をすくめる。


「殺すわけないでしょ。……アンタ、逃げる場所ある?」


男は目を見開く。


「……え?」


「このままじゃ、貴族派の連中に捕まるよ。そうなったら、家族も巻き込まれるんじゃない?」


男はギュッと唇を噛む。


「……俺は、どうすれば……」


フィオナは腕を組み、考える素振りを見せた後——


「よし、こうしよう」


ニッと笑い、男に向かって指を突きつけた。


「“この借金、帳消しにしてやる”」


「なっ……!?」


「ただし、条件がある」


フィオナは悪戯っぽく笑う。


「ちょっと”仕事”を手伝ってもらうよ」


「し、仕事……?」


「貴族派の”裏金の流れ”。それを暴くのが、情報屋としての仕事さ」


男は息を呑む。


「お、俺に何ができる……?」


フィオナはにやりと笑う。


「“内部情報”ってやつを手に入れたいんだよね」


男はゴクリと唾を飲み込む。


「……それが、俺にできるなら……」


フィオナは頷く。


「決まりだね」


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