第12話
夕陽が港の水平線に沈み始める頃、私たちはギルドの前まで戻ってきた。
「今日は色々と助かりました、ヴィクトールさん」
「……いや、こちらこそ」
彼は静かに言った後、しばらく私の顔を見つめた。
まるで、何かを確かめるように——。
「……オリカ」
「はい?」
「君は、なぜ“医者”になろうと思っている?」
「……!」
私は、思わず足を止めた。
質問の意図を測りかねて、ヴィクトールの顔をじっと見つめる。
彼はただ、淡々とした口調で続けた。
「この街では、医療は“特権”だ。
より高度な治療を受けられるのは、金を持つ者だけ。
君のような“よそ者”が、なぜそこまでして医療を施そうとする?」
「……」
その問いに、私は心の奥にしまい込んでいた記憶を呼び起こされた。
そして、私は口を開いた。
「……話せば、長くなりますけどね」
「構わん。聞こう」
「……私が“医者”になりたいと思ったのは、たぶん……幼い頃のことがきっかけです」
私は、遠い昔の景色を思い出す。
夕暮れの公園。
ブランコのきしむ音。
乾いた風が落ち葉を運ぶ音。
そして——
地面に横たわる子猫の姿。
「私がまだ小さい頃、ある日、道端で瀕死の子猫を見つけたんです」
「……子猫?」
「ええ。足を怪我していて、息も荒くて……私は必死に助けたかった」
あの日、私はただの子供だった。
医療の知識なんて何もなくて、
ただ、「助けたい」と思っただけだった。
でも——
「結局、助けられませんでした」
「……」
「私が何をしても、子猫の呼吸はどんどん弱くなっていって、
最後には……動かなくなってしまったんです」
私は、あの日のどうしようもない無力感を今でも覚えている。
「あの時、私は何もできなかった。
だから……私は思ったんです。“もっと力があれば、救えたのに” って」
ヴィクトールは黙って聞いていた。
「それから、私はずっと“命を救う”ことについて考えました。
中学生になる頃には、もう医者になろうと決めていたんです」
「なるほどな……」
「でも、医者になるのって簡単じゃないんですよ。
医学部に入るには、信じられないくらい勉強しなきゃいけなくて……
私は必死に勉強しました」
高校時代は、毎日10時間以上の勉強。
模試の成績が悪かった日は、悔しくて泣いたこともあった。
「それでも、私はどうしても医者になりたかった。
だから、頑張りました」
ヴィクトールは、聞き慣れない言葉を何度か聞き直してきた。
当然だ。
ここは私がいた世界とはまるで違う。
“中学生”とか“医学部”とかって言ったって、わかんないよね?
でも、彼は何度か説明するうちに、言葉をある程度理解してくれた。
「……そして、その“医学部”とやらに?」
「はい。やっとの思いで医学部に合格しました」
私は、医学部の門をくぐった日のこと を思い出した。
あの日の私は、夢と希望に満ちていた。
「これで、私は本当に“命を救う側”に行けるんだ」——そう思っていた。
でも——
「……そこからが、本当の地獄だったんです」
「医学部って、思っていたよりずっと厳しくて……
授業の内容は膨大だし、毎日が試験との戦い で、
ついていけなくなった人からどんどん脱落していくんです」
「……」
「私も、何度も心が折れそうになりました。
解剖実習では、本当に人の死と向き合わなきゃいけなくて……
最初の解剖実習の後、私は1週間まともにご飯が食べられませんでした」
「……人の死に直面したのか」
「はい。でも、それだけじゃなくて……医療の現場の“現実” も突きつけられました」
病院実習に行ったとき、私は初めて“救えない命”を目の当たりにした。
病室のベッドで、静かに息を引き取る患者。
家族が泣き崩れる姿。
それを黙って見つめる医者たち。
「“医者”って、万能じゃない んです」
「……」
「どんなに努力しても、どんなに治療しても、救えない命がある。
それが、あまりにも辛くて……」
私は、自分の手をじっと見つめた。
「私、途中で思ったんです。
“私が医者になったところで、結局、救えない命は救えない”って」
「……」
「だから、私は……医者になるのを諦めかけていました」
「でも……」
私は、静かに目を閉じる。
「それでも私は、“救えない命を救いたい”って、ずっと願っていました」
どんなに無力でも、どんなに非力でも、
誰かの命を救える力がほしかった。
「……そんな時に、私はこの街に来たんです」
私は、ふっと笑った。
「そして、“治癒魔法”を使えるようになった」
ヴィクトールは、少し目を細めて私を見つめた。
「君にとって、この力は“奇跡”か?」
「……奇跡、ですか」
私はしばらく考え、静かに首を振った。
「いいえ、これは“チャンス”です」
「……チャンス?」
「私は、この世界で医者としての夢を諦めないためのチャンスをもらったんです」
だから、私は “医者“になる。
もう一度、「医学」についてを見つめ直す。
この世界で、
今度こそ——
「“救えない命を救う” ために。」
しばらくの沈黙の後——
「……なるほどな」
ヴィクトールは、そう呟いた。
「君は、ただの酔狂な医者崩れではないということか」
「……どういう意味です?」
「君は、本当に“命”を見つめているということだ」
彼は、ふっと小さく笑った。
「君の医療が、この街でどれだけの価値を持つのか——
俺も、見届けさせてもらうとしよう」
「……!」
私は、ヴィクトールのその言葉に、ほんの少し “信頼” を感じた気がした。