第106話
【ベルナーク交易市場の朝】
カン、カン、カン……
澄んだ朝の空気の中、遠くから鐘の音が響き渡る。
東の地平線がほのかに紅く染まり、黄金色の陽光がベルナークの街を照らし始める頃——
市場の喧騒はすでに息を吹き返していた。
日が昇るよりも早く、市場の労働者たちは忙しなく動き始める。
ベルナーク運河を行き交う船乗りたちは朝の潮風に帽子を押さえ、
商人たちは店先の天幕を広げ、色とりどりの絨毯や香辛料を並べる。
職人たちは火を入れた炉に向かい、鉄を叩く音が響く。
市場が動き出す——それはまるで生き物のような光景だった。
そして、この喧騒のど真ん中にいるのが——
フィオナ・アズレーンである。
「んぁぁ〜……あっつ……」
まだ朝だというのに、すでに砂漠の熱気が肌を焼く。
ベルナークは昼間ともなれば灼熱地獄だ。
夜明けのこの時間帯が最も快適なのだが……
「どこが“快適”だっつーの……」
フィオナは額の汗をぬぐいながら、
巨大な荷車の上にどさっと腰を下ろした。
彼女の青髪は陽光を浴びて煌めき、竜族特有のツノがその輪郭を縁取る。
細身の体躯に不釣り合いなほどの巨大な斧を背負い、
獣皮で仕立てられた軽装の服が、彼女の活動的な性格をよく表していた。
そんな彼女の目の前では——
「おい!値段をつり上げすぎだろう!」
「いいや、これは昨夜の砂嵐で仕入れが減ったからだ!」
——どこかの商人が、激しく言い争っていた。
ベルナーク交易市場において、値引き交渉は戦争 である。
ひとつの取引が成功するか否かで、一家の運命が左右されることすらある。
フィオナはその様子を横目に見ながら、荷車の上で足をブラブラとさせた。
「ま、商売ってのはどこもこんなもんか……」
彼女自身は商売人ではない。
——少なくとも、一般的な意味では。
彼女は 「情報屋」 だった。
ベルナーク交易市場には、金や物だけでなく——情報 も飛び交っている。
どこそこの商人が密輸をしているだの、
どこどこの領主が秘密裏に取引をしているだの、
市場の片隅では、そうした 「言葉の価値」 こそが最も高値で取引されるのだ。
「さてと……今日も仕事しますかね〜」
フィオナは大きく伸びをすると、
市場の喧騒の中へと歩き出した——。
◇
【青き竜の娘、ベルナークを駆ける】
朝焼けの光がベルナーク交易市場の石畳を優しく撫でる。
市場はすでに活気に満ち、荷馬車が軋む音や行商人たちの威勢のいい掛け声が交錯していた。
「新鮮な果物はいらんかね! 今日のは特に甘いぞ!」
「塩漬け肉、安くしとくよ! これから冬支度するなら今のうちだ!」
雑踏の中を軽やかに歩くのは、一人の少女。
青い髪を風に靡かせ、片手には小さな袋をぶら下げている。
フィオナ・アズレーン——彼女の姿を見て、通りの商人たちは親しげに声をかける。
「おっ、フィオナじゃねえか。今日は何の情報を探してる?」
「まーた妙な仕事してんのか? ヤバい橋は渡るなよ」
「安心しろって」と、フィオナはにやりと笑い、コインを指で弾いた。
「情報屋ってのは、どこにどんな橋があるのか知ってるからこそ、落ちずに歩けるんだよ」
周囲から笑いが漏れる。
彼女は交易市場にとって、なくてはならない存在だった。
商人たちの間を行き来し、時には耳よりな情報を提供し、時には秘密を握り込む。
その駆け引きの中で、彼女は自分の立場を築いてきた。
だが、今日の市場には、妙な違和感があった。
「禁制品の取引が近いうちに行われるらしい」
そんな噂が、裏の情報筋から流れてきていたのだ。
フィオナは人々のやり取りを観察しながら、慎重に足を進める。
そして、その途中で、彼女はある少年と目が合った。
埃まみれの衣服に、やせ細った手足。
ベルナークの市場には、家を持たずに暮らすストリートチルドレンが少なくない。
フィオナは彼らの顔を覚えていたが、その少年——エリオの表情は、どこか怯えていた。
「……どうした?」
フィオナが声をかけると、エリオはぎゅっと唇を噛んだ。
「……いや、なんでもねえよ」
そう言って背を向けたが、その足取りは不安定だった。
フィオナはその場で少し考えた後、静かに彼の後を追うことにした。
彼女はまだ知らなかった。
この時すでに、自らが大きな渦に足を踏み入れつつあることを——。




