第105話
ギルバートの屋敷に通う日々が続いていた。
診療所での業務をこなしながら、オリカたちは毎日欠かさず彼の元を訪れた。
それは決して楽な日々ではなかった。
街に飛び交う噂の影響で、依然として減少し続ける患者、商人ギルドを巡る貴族の圧力、そして、オリカ自身の心の疲弊——。
けれど、それでも彼女は歩みを止めることはなかった。
「おはようございます」
いつものようにギルバートの寝室へ入ると、ベッドに横たわる彼が微かに目を向ける。
その瞳はまだ深い病の色に染まっていたが、以前のような険しさはどこか薄らいでいた。
「今日も様子を見させていただきますね」
オリカはいつも通り、穏やかな声で告げる。
ギルバートは無言のまま頷いた。
——彼はまだ、オリカたちが何者なのかを知らない。
彼女たちが修道院の関係者ではないことは理解していた。
しかし、だからといって、ただの医者とも思えなかった。
——今まで経験したこともない治療。
——魔法ではない、確かな「手」。
——そして、不思議なほどの安心感。
いったい、この医者たちは何者なのか——?
そんな疑問を抱きながらも、ギルバートは静かに治療を受け続けていた。
「……咳の頻度は減ってきていますね」
オリカは聴診器を当てながら、ギルバートの呼吸音を注意深く確認する。
肺の奥にまだ雑音は残っているが、以前より明らかに澄んでいる。
「痰の色も、少しずつ薄くなってきている……これはいい兆候ですね」
エリーゼがそっと微笑む。
ギルバートは微かに目を細めた。
その瞳の奥に、これまで見せたことのない色が宿っていた。
「……治るのか?」
かすれた声だった。
オリカは一瞬、驚いた。
彼が初めて、自らの状態について問いかけたのだ。
「ええ、時間はかかりますが、良くなります」
「……本当に?」
「ええ」
オリカは迷いなく答えた。
それがどれほどの重みを持つ言葉なのか、彼女は知っていた。
医者として、「治る」と告げることがどれほどの責任を伴うものか。
しかし、彼女の言葉には確信があった。
医学と、彼女の知識がある限り、希望は絶対に手放さない——。
「……」
ギルバートは静かに目を閉じた。
魔法のように、一瞬で痛みを消すわけではない。
けれど、彼女たちの治療には確かな温もりがあった。
それが不思議と、心を落ち着かせる。
「……お前たちは、一体何者なんだ……?」
その問いに、オリカは小さく笑った。
「ただの、医者ですよ」
ギルバートの唇が、わずかに緩む。
それが、信頼の兆しであることに、オリカは気づいていた——。
ギルバートの病状は少しずつ改善していた。
それでも、まだ完全に快方に向かっているとは言えない。
「結核に似た症状……でも、それだけじゃない」
オリカはギルバートの血液を採取しながら、慎重に考察を重ねていた。
彼の症状は、単なる結核とは異なるいくつかの特徴を持っていたのだ。
◆ギルバートの症状と、結核との違い
☑︎ 持続する咳と血痰 → 結核の特徴と一致
☑︎ 発熱と倦怠感 → 結核の一般的な症状
☑︎ 筋肉の硬直と異常な震え → ?
☑︎ 神経の異常興奮と幻覚症状 → ?
☑︎ 皮膚に現れる青紫の網目状の発疹 → 結核には見られない異常
「……普通の結核とは違う」
オリカは、ギルバートの血液と痰を確認しながら、何が異なるのかを慎重に分析した。
結核菌であれば、肺に限局した症状が主体となる。
だが、ギルバートの場合は神経系の異常が顕著に見られ、皮膚にも異変が生じていた。
「これは……何か別の感染症と併発している?」
——2種類の感染症が混在している可能性が高い。
そこで、オリカはギルバートの生活環境と感染経路について考えた。
◆感染源の可能性
☑︎ ギルバートは水商売にも関わる商人であり、各地の水源に接する機会が多い
☑︎ 近年、ロストンでは“青痺病”と呼ばれる伝染病が発生していた
☑︎ 青痺病の原因は、神経毒性のある菌類(※オリカはこれを“ネウロバクテリウム・マリス”と名付ける)
「……これだ」
オリカの脳裏に、一つの仮説が浮かび上がる。
『ギルバートの症状は、結核と青痺病の混合感染ではないか?』
◆青痺病
この病は沿岸地域や湿地帯で見られる神経系に影響を及ぼす細菌感染症である。
通常の結核菌とは異なり、肺だけでなく神経や筋肉を蝕み、進行すると幻覚や異常な震え、皮膚の変色を引き起こす。
また、この菌の特徴として、
☑︎ 水や湿った環境で繁殖しやすい
☑︎ 初期症状は結核と酷似しているため診断が難しい
☑︎ 進行すると筋肉の麻痺、神経異常、呼吸困難を引き起こす
「結核治療だけでは不十分……青痺病への対処も必要ね」
◆治療方針
ギルバートの治療を続けるオリカは、改めて診療記録を確認しながら頭を抱えていた。
「結核の治療だけじゃダメ。青痺病に対応する解毒薬が必要……でも、それをどうやって手に入れるか」
青痺病の存在を確認できたのは大きな進展だったが、問題は治療法だった。
通常の結核治療に加え、青痺病に有効な“抗神経毒療法”を組み合わせる必要がある。
つまり、通常の抗生物質の代わりとなる薬草や成分を見つけなければならない。
「……確か、グラン=ファルムで見た資料に、神経毒の抑制に使われる薬草の記述があったわね」
オリカは旅先で集めた医学書を開き、必要な情報を探し始めた。
◆青痺病に対抗するための薬草
過去の資料を読み返していくと、青痺病に似た症状を示す病に対し、有効な植物がいくつか記載されていた。
☑︎ “セラフィムリーフ”—— 神経鎮静作用があり、細菌の増殖を抑制する
☑︎ “ルーンベリー”—— 炎症を抑える効果があり、発熱や筋肉の硬直を緩和する
☑︎ “エルダースパイス”—— 血行を促進し、毒素の排出を助ける
「……神経系に作用する解毒薬が必要。でも……ロストンでは流通していないかもしれない」
これらの薬草は、主にラント帝国北部やカルマーン皇国の交易路で取り扱われているものだった。
ロストンの市場ではほとんど見かけない希少なものだ。
「ヴィクトールなら、この薬草を手に入れる方法を知っているかもしれない」
オリカはすぐに診療所を出て、屋敷へ向かうことにした。
◆アレクシス邸
「薬草の調達、か」
ヴィクトールは顎に手を当てながら、じっくりと考え込んだ。
「確かに、その三種類の薬草なら、カルマーンの商人たちが扱っているはずだ」
「やっぱり……でも、簡単には手に入らないよね?」
「そうだな。ロストンの市場には流通していないし、商人ギルドのルートでも今すぐ手配できるかは怪しい。となると……直接、仕入れに行く必要がある」
ヴィクトールは一枚の地図を広げ、ロストンの南方を指し示した。
「ロストンから東へ向かった先に、“ベルナーク交易市場”という場所がある。そこなら、カルマーン皇国の商人が定期的に交易を行っている」
「ベルナーク交易市場?」
「ロストンとカルマーンの間を結ぶ“中立交易地”のひとつだ。帝国間の政治的な関係は複雑だが、商売においては実利が優先される。カルマーンの商人たちは、ロストンの商人ギルドとは独立した立場で動いている」
「なるほど……つまり、商人ギルドに邪魔されずに薬草を手に入れるチャンスがあるってことね」
「ただし、あそこは商人だけでなく、盗賊やならず者も多く集まる場所だ。それにあくまでロストンの商人との関連が“薄い”というだけで、完全に関係が隔たれているわけではない。貴族派の連中の影響は、カルマーン皇国領内にも及んでいる。とくにベルナーク交易市場は、ラント帝国とも強い繋がりがある場所だ。慎重に行動しなければならない」
「……そうね。でも、行くしかない」
ギルバートの命を救うため、オリカたちはベルナーク交易市場へ向かうことを決意する。