第103話
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ギルバート・クラウスの屋敷は、ロストンの旧市街に堂々とそびえていた。
長年の歴史を感じさせる荘厳な造り。
高くそびえる屋敷の窓からは、港へと続く街並みが一望できる。
普段なら、そこに広がる景色を楽しむ余裕もあるのだろう。
しかし、オリカの頭には、昨日起きた広場での出来事がこびりついて離れなかった。
「……オリカ」
声をかけられ、ハッとする。
ギルバートの容態を診ていた彼女は、無意識のうちに手を止めていたらしい」
エリーゼが心配そうに覗き込む。
「……ごめん。大丈夫」
そう言って、オリカは再びギルバートの額に手を当てた。
熱は下がりつつある。
薬草の調合も順調に効いているようだった。
だが、それと同時に、胸の奥に重くのしかかる疑念が拭えない。
——私は、本当に「正しいこと」をしているんだろうか?
ギルバートを診ながら、彼女はぼんやりと思い返していた。
昨日の市民たちの目。
広場で飛び交った疑惑の声。
「副作用があるんじゃないか?」
「ヴァルキアから来たって、本当か?」
彼らの不安は、ただの“噂”に過ぎないかもしれない。
でも、その言葉の重みが、オリカの心に深く突き刺さっていた。
(……誰も、信用してくれていない。)
オリカは拳を握る。
彼らにとって、自分は突然現れた“異物”でしかないのだろうか。
確かに、ヴィクトールが言うように、信頼を得るには時間がかかる。
焦る必要はない。
だけど——
(私は「誰」から許可をもらって、治療をしているんだろう?)
修道院の高官の言葉が、頭の中でぐるぐると反響する。
「君たちは“病を診る者”としての資格を、誰から得た?」
オリカは唇を噛みしめた。
そんなの、考えたこともなかった。
前の世界では、医者になるために必要な資格があった。
大学で学び、試験に合格し、国家に認められた者だけが、正式に医療を施すことができる。
だけど、この世界では?
診療所を開く手続きをしたとはいえ、それは「商人ギルド」に登録しただけのこと。
オリカは今、“許可”を得た医者として治療をしているわけではない。
「全部、独りよがりだったのかもしれない……」
「オリカ……?」
エリーゼが眉をひそめる。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
オリカは小さく首を振る。
「ただ、考えごとをしてただけ」
本当に、なんでもない?
いや——違う。
「私は、本当にこの街に必要とされているんだろうか?」
胸の中に生まれた小さな疑念が、静かに広がっていくのを感じながら、オリカはただ、ギルバートの額に冷やした布をそっと当てるのだった。
◇
ギルバート・クラウスの呼吸は浅く、微かに痰が絡んでいる音がした。
オリカは彼の胸元に耳を当て、肺の音を慎重に聞き取る。
(……湿った雑音。咳と微熱、それに体重の減少——。)
彼の診断を続けるうちに、オリカの脳裏に浮かび上がる“ある病”があった。
結核。
この世界にその概念はまだない。
だが、前世の医学知識を持つオリカには、ギルバートの症状がそれに極めて近いものだと直感できた。
——結核とは?
結核(tuberculosis)は、結核菌(Mycobacterium tuberculosis) によって引き起こされる感染症である。
主に肺に感染し、慢性的な咳、発熱、倦怠感、寝汗、体重減少といった症状を引き起こす。
【結核の特徴】
☑︎ 飛沫感染:咳やくしゃみによって菌が空気中に放出され、他者に感染する
☑︎ 慢性的な進行:数ヶ月から数年かけて進行し、放置すれば致死的
☑︎ 肺の病変:肺の組織が壊死し、空洞(結核空洞)を形成することもある
ギルバートの症状と照らし合わせてみる。
☑ 乾いた咳が続く
☑ 微熱が続いている
☑ 体重が減少している
☑ 夜になるとひどく汗をかく
——限りなく結核に近い。
しかし、ここで問題があった。
この世界には「結核菌」という概念がない。
ゆえに、「感染症」という意識も乏しく、治療法も確立されていない。
オリカは小さく息を吐いた。
「……菌を特定する手段がない以上、“症状”を具体的に解明して、治療するしかない」
「どうしたの?」
エリーゼが不思議そうに尋ねる。
「ギルバートさんの病気、たぶんこの世界で“よくある”ものじゃない」
「え?」
「私の世界で言う『結核』に近い病気かもしれないの」
オリカはギルバートの寝顔を見つめながら続ける。
「でも、菌を特定できない以上、根本的な治療はできない。だから、症状を抑えるしかない」
「具体的には?」
「まず、肺の炎症を抑え、免疫力を高める薬草を調合する。あと、彼の部屋の環境を整えなきゃいけない」
結核の基本的な対策は以下の3つだ。
① 安静と栄養補給
- 体力を回復させ、免疫力を強化する
② 換気と衛生管理
- 空気感染を防ぐため、部屋の空気を清潔に保つ
③ 炎症を抑える治療
- 体内の炎症反応を抑え、回復を促す
「まず部屋の換気をすること」
「……換気?」
エリーゼは首を傾げた。
「空気の入れ替えをするの。結核は“飛沫感染”する可能性が高いから、部屋が密閉されてると感染リスクが上がる」
「なるほど……」
「それから、炎症を抑える薬草。ギルバートさんの免疫が落ちているから、自然治癒力を高める必要があるわ」
オリカは、薬草のリストを紙に書きながら言った。
「エリーゼ、ルシアン、手伝ってもらえる?」
2人は頷く。
こうして、ギルバートの“治療”が本格的に始まった。




