第101話
◇
「すまない……今日はやっぱり診てもらうのをやめるよ」
昼過ぎになって、一人の老人が診療所の扉を開いたものの、診察を受けずに帰ってしまった。
「どうしてですか?」
オリカが尋ねると、老人は言葉を濁した。
「……あんたの治療は確かにすごい。でもな、街の連中があんまり良く言ってなくてな……」
「……!」
「悪いが、孫に何かあったらと思うと、やっぱり……」
そう言って、老人は申し訳なさそうに去っていった。
「……根も葉もない噂のせいで、みんな怖がっているのね」
エリーゼが唇を噛む。
「仕方ないさ。人間は不安になると、悪い方を信じやすい」
ルシアンが肩をすくめた。
「それに、貴族派は意図的に“恐怖”を煽ってるんだろうぜ。『診療所の治療を受けると危ない』ってな」
「……でも、証拠もないのに」
「証拠がなくても、噂ってのは広まるもんだ」
ルシアンの言葉に、オリカは唇を引き結んだ。
貴族派は、人々の不安を利用している。
そして、それが診療所の信頼を削いでいく。
「このままだと、本当に誰も来なくなるわね」
エリーゼが悔しそうに呟く。
「じゃあ、どうすればいい?」
ルシアンが尋ねると、オリカはゆっくりと息を吐いた。
「……診療を続けるわ」
「え?」
「何を言われても、私はこの場所で治療を続ける。それが、私にできる唯一のことだから」
オリカは力強く言い切った。
「……そうかよ」
ルシアンは苦笑しながら、オリカの覚悟を認めるように頷いた。
だが、その時——
「先生っ、大変です!」
助手の一人が駆け込んできた。
「市場で倒れた人がいて……! すぐに診てほしいって!」
「……!」
オリカはすぐに動き出した。
診療所への風当たりが強まっている今、下手をすれば『オリカの治療を受けたから倒れた』という噂が流れる可能性もある。
だが、それでも……助けなければならない。
「行くわよ、ルシアン、エリーゼ!」
オリカは決意を込めて市場へと走り出した。
今、彼女ができることはただ一つ——医者として、人を救うことだけだった。
市場に駆けつけたオリカたちを待っていたのは、動揺する市民たちの群れだった。
「どいてください! すぐに診ます!」
オリカが声を上げながら人混みをかき分けると、そこには苦しそうにうめきながら地面に横たわる中年の男性がいた。
顔色は青白く、額には玉のような汗が浮かんでいる。
呼吸は浅く、時折激しい咳がこみ上げている。
「苦しい……喉が……」
男は弱々しく胸元を掻きむしる。
この症状……まるで気管が腫れ上がったような……!?
オリカは膝をつき、即座に脈を取る。
「脈が乱れてる……血圧も低い……」
「先生、何かの病気?」
「わからない。でも……この症状は、ただの風邪や疲労とは思えない……」
オリカは直感的にそう感じた。
この男が単に体調を崩しただけならいい。
しかし、もし何者かによる意図的なものだったとしたら?
「——先生、後ろ!」
エリーゼの叫びに、オリカは振り向いた。
そこには数人の男たちが立っていた。
よく見ると、ロストンの市場で影響力を持つ商人たちだった。
「……この男は、診療所で治療を受けた者だそうだな?」
一人の男が険しい表情でオリカを見据える。
「……え?」
「まさかとは思うが、お前の治療で何か問題があったのではないか?」
市場に集まった人々の間に、緊張が走る。
「そんな……そんなはずありません!」
エリーゼが抗議する。
「彼の病状はまだわかりません。でも、診療所で治療したことが原因なんて——」
「ではなぜ倒れた?」
男は冷静に言い放つ。
「我々はただ、安全を確認したいだけだ。ロストンの人々が不安にならないようにな」
「……!」
オリカは息を呑んだ。
これは明らかに、“疑惑”を植え付けるための動きだ。
診療所の治療を危険視させ、信用をさらに失墜させるための——計画的な攻撃。
「……オリカ」
ルシアンが低い声で囁いた。
「これは……貴族派の仕掛けた罠かもしれねぇな」
「……ええ、わかってる」
オリカは拳を握った。
どうすればいい?
ここで下手に動けば、診療所の治療そのものを疑われることになる……
しかし——
「……今は、彼を助けることが最優先よ」
オリカは決意を固め、改めて男に向き直った。
「診察を続けます。どんな病気かわからないのに、不安だけで判断するのはやめてください」
市場の人々がざわつく。
「……いいだろう」
商人の一人が腕を組んで言う。
「その代わり——彼がどうなったか、我々はしっかり見届けさせてもらう」
まるで監視するかのような言葉。
オリカはこの場が戦場であるかのような緊張感を感じながら、改めて診療に集中するのだった。
市場のざわめきの中、オリカは倒れた男の診察に集中していた。
周囲では商人たちが腕を組み、冷ややかな視線を向けている。
「——まず、呼吸状態の確認」
オリカは男の顎を軽く上げ、気道の確保を行った。
——呼吸は浅く、気管が腫れている可能性がある。
彼の皮膚は異常に青白く、手足は冷たくなっていた。
「脈は速いのに、末端の血流が弱い……。ショック症状の可能性があるわ」
ルシアンが険しい表情で言った。
「原因は?」
「アナフィラキシーショックの可能性が高い。何か強いアレルゲンか、毒性の強い物質を体内に取り込んだはず」
エリーゼが目を見開く。
「そんな……誰かが毒を?」
「まだ断定はできないけど、症状の進行が早すぎる。自然発症とは思えない。」
オリカは素早く診療バッグから気管支を広げる効果のある薬草液を取り出した。
「これを舌の下に置くわ。少しずつ吸収されて、呼吸が楽になるはず」
慎重に薬草液を垂らす。
——数秒後、男の荒い呼吸が、わずかに落ち着いた。
「……うっ……」
男が苦しげに喉を鳴らしながら、微かに目を開ける。
効果が出始めた。
だが、完全に危険を脱したわけではない。
オリカはルシアンに目配せし、さらなる処置に移る。
「エリーゼ、毛布を持ってきて。体温が下がりすぎてる。体を温めて、血流を回復させないと」
エリーゼがすぐに市場の露店から布を借りてきた。
——全身を軽くマッサージしながら、男の四肢に血液を巡らせていく。
男の表情がわずかに和らぐ。
「……効いてる……?」
市場の商人たちが息を呑んだ。
「おい、本当に……?」
「まぐれかもしれん」
「だが、このままでは根本的な治療ができないわ」
オリカは立ち上がり、商人たちに向かって強く言った。
「診療所へ運ばせてください。ここでは十分な治療ができません」
しかし——
「……悪いが、それはできない」
市場の商人の一人が険しい表情で言った。
「お前たちの治療を受けたせいで、こんなことになったんじゃないのか?」
「そ、そうだ! 診療所の薬が問題だったのかもしれないだろ!」
「違います!」
オリカはきっぱりと言った。
「彼の症状は、明らかに外部からの毒物摂取によるものです」
「証拠は?」
「……それは……」
オリカは言葉に詰まった。
確かに、傷口はあった。
だが、それが“故意”に刺されたものなのか、それとも自然にできた傷なのかを証明する手段はない。
「俺たちはお前の言葉だけじゃ信用できねぇんだよ」
商人たちの視線は冷たい。
「診療所の治療が原因じゃないって証明できるなら別だが……」
「それができないなら、このまま勝手に運ぶのは許さねぇ」
——完全な不信感。
ルシアンが舌打ちした。
「オリカ、どうする?」
このままでは、男の命が危うい。
だが、診療所の信用を失えば、未来はない。
かといって——