第100話
ヴィクトールの屋敷を出た帰り道、オリカは冷たい夜風を感じながら深く息をついた。
ギルバート・クラウス——ロストンの商業圏において、貴族に対抗できる数少ない存在。
その彼を診療し、回復させることができれば、診療所の未来も変わるかもしれない。
だが、それは同時に、大きなリスクを伴う挑戦でもあった。
「……考え事?」
隣を歩くルシアンが、オリカの横顔をちらりと見た。
「うん。でも、悩んでても仕方ないし……とにかくやるしかない」
「お前って、本当に前しか見ないよな」
ルシアンは苦笑しながら肩をすくめた。
「それは褒めてる?」
「まぁ、悪い意味ではない」
オリカはふっと微笑んだ。
——診療所の未来を賭けた、一世一代の勝負が始まる。
翌日、オリカたちはヴィクトールの手配でギルバートの屋敷へ向かった。
ロストンの商業地区から少し離れた場所にあるその屋敷は、決して派手ではないが、長年の歴史を感じさせる重厚な佇まいを持っていた。
「……お待ちしておりました。」
玄関で迎えたのは、年老いた執事だった。
オリカたちはその案内で静かに屋敷の奥へと進んでいった。
そして、彼の部屋の扉を開けた瞬間——。
「っ……」
オリカは思わず息を呑んだ。
ベッドの上に横たわるのは、ひどく痩せ衰えた老紳士。
ギルバート・クラウス——ロストン商人ギルドの重鎮。
かつては豪胆な商人として名を馳せた人物だが、今は見る影もなく、顔色は青白く、骨ばった指がシーツを握りしめていた。
「……まさか、ここまでとは」
エリーゼが小さく息を漏らす。
「ご覧の通り、旦那様はかなり衰弱しておりまして……」
執事が申し訳なさそうに頭を下げた。
「これまでも何人もの医者を呼びましたが、誰も満足な治療ができませんでした」
オリカはベッドの側に寄り、そっとギルバートの額に手を当てた。
熱い。
尋常ではない高熱だ。
呼吸も浅く、不規則。
「……肺炎を起こしてるわね」
彼の呼吸音を確認しながら、オリカは冷静に病状を分析した。
「でも、それだけじゃない。これは……」
オリカは彼の腕を取り、皮膚をよく観察した。
血流が悪くなっている。
四肢の先が少しずつ紫色に変色し始めていた。
——敗血症の疑いがある。
放っておけば確実に死に至る。
「これは……まずいな。」
ルシアンが渋い顔をした。
「何かわかったの?」
エリーゼが尋ねる。
「敗血症の可能性が高いわ」
オリカの言葉に、執事の顔が青ざめた。
「そ、それは……助かるのですか?」
「正直に言えば、難しい状況です」
オリカは真剣な眼差しで執事を見た。
「でも、不可能ではありません」
オリカは深呼吸し、ギルバートの状態を整理する。
—— 高熱
—— 呼吸の異常
—— 皮膚の変色
原因となる細菌感染を特定しなければならない。
「まずは、血液検査をさせてください」
「け、検査?」
「はい。体内にどんな菌が繁殖しているか、それを調べる必要があります」
この世界ではまだ「細菌」の概念は知られていない。
だが、オリカは現代医学の知識をもとに、彼を救う方法を考えていた。
「その検査は、どうやって?」
ルシアンが尋ねる。
オリカは静かに答えた。
「魔法と組み合わせて行うわ」
この世界には「治癒魔法」があるが、それは本質的に傷を塞ぐだけの応急処置であり、細菌感染や内臓疾患に対しては根本的な解決にはならない。
しかし——
魔法と科学を融合させることで、それを乗り越える方法を見つけることはできるはず。
そしてその「方法」は、この世界の人たちにも“知識”や“手段”として提供できる可能性がある。
「やってみる価値はある」
オリカは強く頷いた。
「やるしかないわ」
静かな屋敷の中で、オリカの決意が響き渡った——。
「それで、まず何から始める?」
ルシアンが腕を組みながらオリカに尋ねた。
「まずは血液を採取して、体内にどんな菌が入り込んでいるのか調べる必要があるわ」
オリカはギルバートの腕を優しく持ち上げながら、血管を慎重に探した。
「血を……調べる?」
執事が戸惑いながら問いかける。
「そうです。人間の体には無数の細かい生き物……目には見えないけれど、病を引き起こすものが存在します。まずはそれを突き止めないと、どんな治療が有効かもわかりません」
現代医学では、病原菌の特定は血液培養などの検査で行われる。
しかし、この世界には顕微鏡も試験薬もない。
ならば、魔法と組み合わせるしかない。
「エリーゼ、あなたの魔法を貸して」
「私の?」
エリーゼは少し驚きながらも、オリカの意図を理解しようとした。
「あなたの魔法は地属性でしょ? なら、鉱石や土壌の組成を読み取ることもできるはずよね?」
「……ええ、できるわ
「それなら、私が採取した血液を“解析”するのに使えるかもしれない」
エリーゼは考え込んだ。
彼女の魔法は土や鉱物の状態を読み取るのに特化している。
人体の成分を読み取るのは難しいかもしれないが、菌が“異物”として存在しているなら、それを検出することは可能かもしれない。
「やってみる価値はあるわね」
エリーゼは頷き、魔法の準備を始めた。
オリカは慎重にギルバートの腕に針を刺し、血液を採取した。
「エリーゼ、頼むわ」
「……わかった」
エリーゼは魔力を込めた手を血液の上にかざした。
すると——
血液の中に、ごく微細な黒い影が浮かび上がった。
「……これが、病の原因?」
オリカが目を細める。
「たぶんね。おそらく、この黒い影が“菌”の集合体……」
「……確かに、通常の血液とは違う“異物”を感じるわ。まるで、鉱石に含まれる不純物みたいな……」
エリーゼは額に汗を滲ませながら、魔法の効果を維持していた。
「この菌を殺せれば……ギルバートさんは助かるかもしれない」
オリカは呟いた。
「どうやって殺す?」
ルシアンが尋ねる。
「本来なら、抗生物質を使うのが一番いいんだけど……この世界にはないから」
ならば、代用できるものを作るしかない。
「魔法薬を使ってみるわ。強い抗菌作用を持つ薬草を調合して、細菌を抑えられるか試してみる」
エリーゼが魔法を解くと、血液の上に浮かんでいた黒い影がゆっくりと消えていった。
「……少し時間がかかりそうだけど、方法は見えてきたわ」
「頼む……!」
執事は深く頭を下げた。
オリカはギルバートを救うために、すぐに動き出すことを決めた。




