第98話
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オリカの診療所 「うさぎのおうち」 は、広場での公開相談会をきっかけに、多くの市民から信頼を集めつつあった。
しかし、 その影で静かに広がりつつある“噂” に、オリカたちはまだ気づいていなかった。
「先生、最近、黒死病じゃないのに急に亡くなった人がいるって聞いたんですが……」
ある日、診療所を訪れた市民が、戸惑った様子でそう口にした。
オリカは眉をひそめる。
「……それ、本当ですか?」
「ええ……最初はただの偶然かと思ったんですけど……」
エリーゼも横で表情を曇らせた。
「亡くなったのは、診療所に通っていた人?」
「それが……そうみたいなんです。」
オリカは言葉を失った。
診療所の評判が広がり、多くの患者が訪れるようになったのは事実だ。
しかし、その一方で「謎の変死体が見つかっている」という話は、初耳だった。
「まさか……」
頭の中で様々な可能性がよぎる。
病気の悪化?
治療が間に合わなかった?
あるいは……?
しかし、この不安は 単なる噂では済まされないもの になる。
◇
数日後——ロストンの街角で、 第一の変死体 が発見された。
「おい……こいつ、診療所に通ってたやつだぞ」
発見したのは、朝市に向かう途中の商人だった。
路地裏で倒れているその男の顔には、 黒死病とは違う異様な斑点 が広がっていた。
「ただの病死……じゃねえよな?」
「こんな死に方、普通じゃねえ……」
そこに居合わせた人々の顔が、青ざめる。
「ねえ、最近『うさぎのおうち』に通ってた人が、次々と亡くなってるって聞いたことある?」
「まさか、あの診療所の薬に問題があるんじゃ……」
「……っ!」
その場にいた人々の間に、 言い知れぬ不安と疑念が広がっていく。
診療所に通っていた人が亡くなった——
その事実が、人々の間で “不信感” へと変わり始める。
「オリカ、ちょっと大変なことになってる……!」
慌てた様子で診療所に駆け込んできたのは、ルシアンだった。
「……どうしたの?」
「街で噂になってる。『診療所に通ってた患者が死んだ』って……!」
オリカの背筋が凍った。
「それだけじゃない。『黒死病の治療をしてるってことは、何か裏があるんじゃないか?』とか……あとは、『ヴァルキアの人間が関わってる』とか……」
「っ……!」
オリカは思わず息を呑んだ。
ヴァルキアの名が出ている。
つまり、 ただの噂ではなく、誰かが意図的に広めている可能性がある。
エリーゼが顔を曇らせる。
「もしかして……また貴族の仕業?」
「たぶんな。」
ルシアンが険しい顔で頷く。
「ここ最近、商人ギルドからの圧力が強くなってたし……何か仕掛けてくるかもしれないって、俺も思ってた」
診療所の信用が崩れれば、患者が離れていく。
商人ギルドの圧力で薬の供給を止められれば、治療すらできなくなる。
まさに診療所の存在そのものを潰すための計画的な攻撃だった。
オリカは拳を握る。
「……私たちのせいで、街の人を危険に晒してしまった……?」
疑念が脳裏をよぎる。
診療所の薬が原因であるはずがない。
でも、もし貴族が本当に攻撃を仕掛けてきているのだとしたら?
診療を続けることで、逆に市民を危険に晒すことになってしまうのでは——?
「……そんな理不尽なことがあっていいの……!?」
怒りに震える。
貴族の圧力が強まる中で、診療所の意義すら揺らぎかけていた。
しかし、 ここで引き下がれば、貴族の思うつぼだ。
それだけは、絶対に許せなかった。
オリカは決意し、ヴィクトールの元へ向かうことにした。
ヴィクトールの書斎に通されると、彼はすでにこの事態を把握しているかのように、難しい顔をしていた。
「……噂は聞いているよ。診療所の患者が死んだ、という話だな」
オリカは頷き、歯を食いしばる。
「私は……どうすればいいの?」
ヴィクトールはゆっくりと、机に置かれたグラスを傾けた。
「今、できることは限られているかもしれない」
「……どういう意味?」
「下手に動けば、貴族に弱みを握られ、身動きが取れなくなる。お前が正しいことをしていても、それが必ずしも“確かな道”を切り開くとは限らない」
オリカは言葉を詰まらせた。
「でも……だからって、黙っているわけにはいかないわ」
「そうだろうな」
ヴィクトールは微かに微笑んだ。
「だからこそ、俺は聞きたい。貴族と真っ向から戦うには、 市民を味方につけなければならない」
彼はまっすぐにオリカを見据える。
「お前は……戦い続けることができるか?」
その問いに、オリカは息を呑んだ。
オリカはヴィクトールの言葉に返答できず、ただ拳を握りしめた。
“戦い続けることができるか?”
その問いは、まるで鋭い刃のように彼女の心を切り裂いていた。
「……私は、ただ人を助けたいだけなのに」
低く呟くように言った。
「それなのに、診療所を続けることで、逆に市民を危険に晒してしまうかもしれない……」
こんなはずじゃなかった。
自分の知識と技術があれば、少しでも多くの人を救えると思っていた。
だけど、その“正しさ”が敵意を招き、人々をさらに苦しめることになるかもしれないなんて——。
「どうして……」
言葉にならない思考をこぼしたオリカを見つめ、ヴィクトールは静かに口を開いた。
「経済圏は生き物のようなものだ」
「……え?」
思いがけない言葉に、オリカは顔を上げた。
「人が金を動かし、金の流れが街の骨格や“血”を形作る。人が何を求め、何を必要としているか——それを理解することが、この街で生きるために必要なことだ」
ヴィクトールはグラスを軽く揺らしながら、淡々と続ける。
「本当の“信頼”を得るには時間がかかる。大きな木が実るには数十年もかかるように、一朝一夕ではどうにもならないことがあるんだ」
その言葉に、オリカは息を呑んだ。
「正しいと思うことを続けることが、今、お前にできる唯一のことかもしれない」
「……でも、それでまた市民が危険な目に遭ったら?」
「それはお前のせいじゃない」
ヴィクトールはきっぱりと言い切った。
「貴族が市民に危害を加えるのは、貴族の意志だ。お前が罪悪感を抱くことじゃない。むしろ——」
そこで彼は少し間を置き、グラスをテーブルに置いた。
「俺はお前の“医学”が、この街の価値観を変えるだけの力を持っていると思っている。だからこそ、“商人”としてお前に出資したんだ」
その言葉は、どこまでも冷静だった。
オリカはぎゅっと拳を握る。
自分がやっていることは、本当に正しいのか?
人々を救いたい、その思いだけで突っ走ってきた。
でも、それが本当に人々のためになっているのか——?
「……私は……」
自分の胸に問いかける。
ヴィクトールはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「お前はどうする?」
鋭い視線がオリカに突き刺さる。
「戦い続けるか、それとも足を止めるか」
オリカはゆっくりと息を吸い込む。
そして、自分の胸にある答えを探しながら——
「……私は、諦めたくない」
静かに、しかし確かな決意を込めて言った。
「この街の価値観を変えられる力があるなら——私は、その力を信じてみたい」
ヴィクトールは満足げに微笑んだ。
「なら、決まりだな」
彼は椅子に座り直し、指を組んだ。
「診療所を続けろ」
「……続ける?」
「そうだ。今やめれば、お前の“医学”はこの街に根付かない。市民にとって、お前の診療所は“なくても困らないもの”になる」
ヴィクトールは指を一本立てた。
「だが、続ければ違う。お前の治療を受けた人々が増えれば増えるほど、診療所は“必要不可欠なもの”になる」
…必要不可欠なものに…?
「続けることで、市民の中に“医療”という概念が根付く。そのためには、どんなに妨害を受けようとも、診療を続けることが何よりも重要だ」
「でも……妨害され続けたら、どうしようもないじゃない」
「それを乗り越えるのが、“商人”の仕事だ。」
ヴィクトールは不敵に笑った。
「お前が医学で市民を救うなら、俺は金と権力でお前を救ってやる」
オリカはしばらく黙り込んだ。
本当に、それでいいのか?
本当に、戦い続ける覚悟があるのか?
……答えは一つだった。
「……診療所を続ける」
はっきりとした口調で、オリカは宣言した。
ヴィクトールは満足げに頷いた。
「いい返事だ」