表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
115/309

第98話




…………………………………………………………………………


……………………………………


………………………


…………………






オリカの診療所 「うさぎのおうち」 は、広場での公開相談会をきっかけに、多くの市民から信頼を集めつつあった。


しかし、 その影で静かに広がりつつある“噂” に、オリカたちはまだ気づいていなかった。



「先生、最近、黒死病じゃないのに急に亡くなった人がいるって聞いたんですが……」



ある日、診療所を訪れた市民が、戸惑った様子でそう口にした。


オリカは眉をひそめる。


「……それ、本当ですか?」


「ええ……最初はただの偶然かと思ったんですけど……」


エリーゼも横で表情を曇らせた。


「亡くなったのは、診療所に通っていた人?」


「それが……そうみたいなんです。」


オリカは言葉を失った。


診療所の評判が広がり、多くの患者が訪れるようになったのは事実だ。


しかし、その一方で「謎の変死体が見つかっている」という話は、初耳だった。


「まさか……」


頭の中で様々な可能性がよぎる。



病気の悪化?


治療が間に合わなかった?


あるいは……?



しかし、この不安は 単なる噂では済まされないもの になる。







数日後——ロストンの街角で、 第一の変死体 が発見された。


「おい……こいつ、診療所に通ってたやつだぞ」


発見したのは、朝市に向かう途中の商人だった。


路地裏で倒れているその男の顔には、 黒死病とは違う異様な斑点 が広がっていた。


「ただの病死……じゃねえよな?」


「こんな死に方、普通じゃねえ……」


そこに居合わせた人々の顔が、青ざめる。


「ねえ、最近『うさぎのおうち』に通ってた人が、次々と亡くなってるって聞いたことある?」


「まさか、あの診療所の薬に問題があるんじゃ……」


「……っ!」


その場にいた人々の間に、 言い知れぬ不安と疑念が広がっていく。


診療所に通っていた人が亡くなった——


その事実が、人々の間で “不信感” へと変わり始める。




「オリカ、ちょっと大変なことになってる……!」


慌てた様子で診療所に駆け込んできたのは、ルシアンだった。


「……どうしたの?」


「街で噂になってる。『診療所に通ってた患者が死んだ』って……!」


オリカの背筋が凍った。


「それだけじゃない。『黒死病の治療をしてるってことは、何か裏があるんじゃないか?』とか……あとは、『ヴァルキアの人間が関わってる』とか……」


「っ……!」


オリカは思わず息を呑んだ。


ヴァルキアの名が出ている。


つまり、 ただの噂ではなく、誰かが意図的に広めている可能性がある。


エリーゼが顔を曇らせる。


「もしかして……また貴族の仕業?」


「たぶんな。」


ルシアンが険しい顔で頷く。


「ここ最近、商人ギルドからの圧力が強くなってたし……何か仕掛けてくるかもしれないって、俺も思ってた」


診療所の信用が崩れれば、患者が離れていく。


商人ギルドの圧力で薬の供給を止められれば、治療すらできなくなる。


まさに診療所の存在そのものを潰すための計画的な攻撃だった。


オリカは拳を握る。



「……私たちのせいで、街の人を危険に晒してしまった……?」


疑念が脳裏をよぎる。


診療所の薬が原因であるはずがない。


でも、もし貴族が本当に攻撃を仕掛けてきているのだとしたら?


診療を続けることで、逆に市民を危険に晒すことになってしまうのでは——?


「……そんな理不尽なことがあっていいの……!?」


怒りに震える。


貴族の圧力が強まる中で、診療所の意義すら揺らぎかけていた。


しかし、 ここで引き下がれば、貴族の思うつぼだ。


それだけは、絶対に許せなかった。



オリカは決意し、ヴィクトールの元へ向かうことにした。





ヴィクトールの書斎に通されると、彼はすでにこの事態を把握しているかのように、難しい顔をしていた。


「……噂は聞いているよ。診療所の患者が死んだ、という話だな」


オリカは頷き、歯を食いしばる。


「私は……どうすればいいの?」


ヴィクトールはゆっくりと、机に置かれたグラスを傾けた。


「今、できることは限られているかもしれない」


「……どういう意味?」


「下手に動けば、貴族に弱みを握られ、身動きが取れなくなる。お前が正しいことをしていても、それが必ずしも“確かな道”を切り開くとは限らない」


オリカは言葉を詰まらせた。


「でも……だからって、黙っているわけにはいかないわ」


「そうだろうな」


ヴィクトールは微かに微笑んだ。


「だからこそ、俺は聞きたい。貴族と真っ向から戦うには、 市民を味方につけなければならない」


彼はまっすぐにオリカを見据える。


「お前は……戦い続けることができるか?」


その問いに、オリカは息を呑んだ。




オリカはヴィクトールの言葉に返答できず、ただ拳を握りしめた。


“戦い続けることができるか?”


その問いは、まるで鋭い刃のように彼女の心を切り裂いていた。


「……私は、ただ人を助けたいだけなのに」


低く呟くように言った。


「それなのに、診療所を続けることで、逆に市民を危険に晒してしまうかもしれない……」


こんなはずじゃなかった。


自分の知識と技術があれば、少しでも多くの人を救えると思っていた。


だけど、その“正しさ”が敵意を招き、人々をさらに苦しめることになるかもしれないなんて——。


「どうして……」


言葉にならない思考をこぼしたオリカを見つめ、ヴィクトールは静かに口を開いた。


「経済圏は生き物のようなものだ」


「……え?」


思いがけない言葉に、オリカは顔を上げた。


「人が金を動かし、金の流れが街の骨格や“血”を形作る。人が何を求め、何を必要としているか——それを理解することが、この街で生きるために必要なことだ」


ヴィクトールはグラスを軽く揺らしながら、淡々と続ける。


「本当の“信頼”を得るには時間がかかる。大きな木が実るには数十年もかかるように、一朝一夕ではどうにもならないことがあるんだ」


その言葉に、オリカは息を呑んだ。


「正しいと思うことを続けることが、今、お前にできる唯一のことかもしれない」


「……でも、それでまた市民が危険な目に遭ったら?」


「それはお前のせいじゃない」


ヴィクトールはきっぱりと言い切った。


「貴族が市民に危害を加えるのは、貴族の意志だ。お前が罪悪感を抱くことじゃない。むしろ——」


そこで彼は少し間を置き、グラスをテーブルに置いた。


「俺はお前の“医学”が、この街の価値観を変えるだけの力を持っていると思っている。だからこそ、“商人”としてお前に出資したんだ」


その言葉は、どこまでも冷静だった。


オリカはぎゅっと拳を握る。


自分がやっていることは、本当に正しいのか?


人々を救いたい、その思いだけで突っ走ってきた。


でも、それが本当に人々のためになっているのか——?


「……私は……」


自分の胸に問いかける。


ヴィクトールはゆっくりと椅子から立ち上がった。


「お前はどうする?」


鋭い視線がオリカに突き刺さる。


「戦い続けるか、それとも足を止めるか」


オリカはゆっくりと息を吸い込む。


そして、自分の胸にある答えを探しながら——


「……私は、諦めたくない」


静かに、しかし確かな決意を込めて言った。


「この街の価値観を変えられる力があるなら——私は、その力を信じてみたい」


ヴィクトールは満足げに微笑んだ。


「なら、決まりだな」


彼は椅子に座り直し、指を組んだ。


「診療所を続けろ」


「……続ける?」


「そうだ。今やめれば、お前の“医学”はこの街に根付かない。市民にとって、お前の診療所は“なくても困らないもの”になる」


ヴィクトールは指を一本立てた。


「だが、続ければ違う。お前の治療を受けた人々が増えれば増えるほど、診療所は“必要不可欠なもの”になる」


…必要不可欠なものに…?


「続けることで、市民の中に“医療”という概念が根付く。そのためには、どんなに妨害を受けようとも、診療を続けることが何よりも重要だ」


「でも……妨害され続けたら、どうしようもないじゃない」


「それを乗り越えるのが、“商人”の仕事だ。」


ヴィクトールは不敵に笑った。


「お前が医学で市民を救うなら、俺は金と権力でお前を救ってやる」


オリカはしばらく黙り込んだ。


本当に、それでいいのか?

本当に、戦い続ける覚悟があるのか?


……答えは一つだった。


「……診療所を続ける」


はっきりとした口調で、オリカは宣言した。


ヴィクトールは満足げに頷いた。


「いい返事だ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ