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第97話




広場の風は涼しく、澄んだ青空の下で市場の喧騒が響いていた。


週に何度か開かれる公開相談会も、すっかり街の一風景として定着しつつある。


オリカは次の患者を迎えながら、表情を和らげる。


「どうしました? 今日はどんなご相談ですか?」


「えっと……最近、頭が痛くて……」


中年の女性が不安げに額を押さえながら、椅子に座る。


オリカは優しく微笑みながら、脈を測り、いくつかの質問を投げかけた。


「最近、肩や首のこりを感じたり、夜にぐっすり眠れなかったりしませんか?」


「そうなの! ここ数週間、なんだか寝付きが悪くて……」


「それなら、緊張型頭痛の可能性がありますね。肩こりやストレスが原因で起こることが多いんですよ。よかったら、これを試してみてください」


オリカは、リラックス効果のあるハーブティーを手渡しながら、肩の軽いマッサージ方法を教える。


女性の顔がぱっと明るくなる。


「まあ、そんな簡単なことで楽になるのね……ありがとう、先生!」


こんなふうに、オリカたちの診療は順調に進んでいた。——少なくとも、つい最近までは。


しかし、微かな違和感は、確実に広がっていた。



相談会が始まってから数時間後、診察を待つ人々の間で、何かがさざめくように広がっているのをオリカは感じた。


隣のブースで診察していたエリーゼが、ふと声を潜めて言う。


「……なんだか、今日の空気が違いません?」


オリカもまた、視線を向ける。


いつもなら、相談に来る人々の間には安堵の表情が浮かんでいるのに、今日はどこか落ち着かない様子だった。


ざわざわとした声が、不穏な風のように広場を漂っていた。


「——あの薬、本当に大丈夫なの?」


「副作用があるって聞いたけど……」


「先生はヴァルキアの人間だって話もあるし……」


オリカは眉を寄せる。


(……何? ヴァルキア? 副作用?)


まるで根も葉もない噂が、静かに街に浸透していくようだった。



そんな中、若い男性が診察を受けるためにオリカの前に座った。しかし、その表情は明らかに不安げだった。


「どうしました?」


「あの……ちょっと喉が痛くて……」


「なるほど。最近乾燥してるから、炎症を起こしているかもしれませんね」


オリカは診察をしながら、彼に喉の炎症を抑える薬草を調合したものを渡した。


「これをお湯に溶かして飲めば、症状が和らぐはずですよ」


しかし、男性は受け取るのをためらった。


「……この薬、何が入ってるんですか?」


「え?」


「いや、その……最近、この診療所の薬を飲んだ人の中で、体調が悪くなった人がいるって聞いたんです」


オリカは驚いた。


「えっ? そんな話、初めて聞きましたけど……」


「でも、確かにそう言ってた人がいて……もしかして、副作用とかあるんじゃないですか?」


エリーゼが静かに口を開いた。


「薬には適切な用法・用量が必要ですし、体質によって合う・合わないはあります。でも、私たちが提供している薬は全て、商人ギルドの認可を受けているものですよ?」


それでも、男性の不安は晴れないようだった。


「……でも、何かあったら怖いし……ちょっと考えてみます」


そう言って、彼は薬を受け取らずに立ち去ってしまった。


オリカは、手元に残った薬をじっと見つめる。


(……この噂、どこから流れてるんだろう?)



さらに数十分後。


広場の片隅で、主婦らしき数人の女性がひそひそと話しているのが聞こえてきた。


「……あの女医さん、ヴァルキアの出身らしいわよ」


「本当に?」


「ええ、貴族の間でも噂になってるみたい。ヴァルキアからの亡命者なんじゃないかって」


「ええっ……でも、あの診療所、良心的な価格で診てくれるし……」


「それでも、ヴァルキアの人間が関わってるってだけで、何か裏があるんじゃないかしら」


(……ヴァルキア出身? そんな話、一度もしたことないのに……)


オリカは拳をぎゅっと握る。


明らかに「誰かが意図的に流している噂」だった。


噂の発端はわからない。


だが、確実に市民の間に広がりつつある。


エリーゼがオリカの肩にそっと手を置いた。


「まずいですね。これ、放っておいたら広がる一方ですよ」


「……うん。でも、どう説明したらいいの?」


オリカは広場を見渡した。


噂を信じきっているわけではないが、不安げにこちらを窺っている人々の視線。


不確かな情報は、不安と共に膨れ上がる。


彼らを安心させるには、何が必要なのか——。


オリカは静かに、考え始めた。




広場の空気が、じわじわと変わっていくのをオリカは肌で感じていた。


いつもなら感謝の声が飛び交うはずの相談会。


しかし今日は、どこかよそよそしい空気が漂い、患者の足が途切れがちになっている。


「どうぞ、お大事にしてくださいね」


最後の患者を診察し終え、オリカはほっと息をついた。


けれど、その胸にはざわつくものが残っている。



——このままでは、まずい。



エリーゼもまた、周囲を見渡しながら言った。


「オリカ、これ……相当、広まってますよ」


「うん……。エリーゼ、何か聞き込みできそうな人はいる?」


エリーゼは考え込み、視線を市場のほうへ向けた。


「ちょっと、知り合いの商人に聞いてみます。直接の取引先じゃなくても、商人ギルドの動きに詳しい人なら、何か知ってるかもしれません」


「ありがとう、お願い」


オリカはエリーゼを送り出しつつ、広場の隅でルシアンが腕を組みながらこちらを見ているのに気がついた。


「……どう思う?」


「くだらねぇ話だな」


ルシアンは少し苛立ったように言った。


「自分の目で見て判断するわけでもなく、ただ誰かの噂を鵜呑みにする。こういうのは放っておくと、手がつけられなくなるぞ」


「……わかってる。でも、じゃあどうすればいいの?」


「一番手っ取り早いのは、“流してるやつ”を見つけることだな」


ルシアンの言葉に、オリカは少し考え込んだ。確かに噂がどこから出たのかを突き止めれば、対策が打てるかもしれない。


そのとき、遠くからひそひそと話す声が聞こえた。


「……この診療所の先生、ラント帝国の人間じゃないって聞いたわ」


「やっぱり、ヴァルキアの……?」


オリカは、そっと息を吸い込みながら振り向いた。


広場の片隅、噂話をしていたのは二人の主婦だった。


(やっぱり、ヴァルキアに関係があるって噂が流れてる……)


今までそんな話をしたことは一度もない。


オリカ自身、ヴァルキアとはなんの繋がりもないのに。


——誰かが、意図的に情報を流している。


エリーゼが戻ってきたのは、ちょうどその時だった。


「オリカ、話がある」


「何かわかった?」


「ええ。商人ギルドの人たちが、最近、ある貴族からの圧力を受けてるみたい。医療品の仕入れ制限や、一部の薬草の価格高騰。しかも、その貴族の名前を聞いたら……」


エリーゼは少し声を潜め、オリカの耳元で囁いた。


「グレゴリアン公爵家だそうよ」


オリカの心臓が、一瞬強く跳ねた。


「……やっぱり」


ロストンの大商人であるアレクシス家と対立し、街の経済圏を水面下で支配しようとしている一族——グレゴリアン公爵家。


まさか、ここまで露骨に動き出してくるとは。


「オリカ、どうする?」


エリーゼが真剣な顔で尋ねる。


ルシアンもまた腕を組み、静かに言った。


「どっちにしろ、何か手を打たねぇと、向こうの思う壺だな」


オリカは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


(逃げるつもりはない。むしろ、どうにかしてこの流れを断ち切る方法を見つけなきゃ)


じっと自分の手を見つめながら、オリカは考え始めた。


この診療所は、彼女が築いたものだ。



信頼を取り戻すために——。


そして、グレゴリアン公爵家の動きを探るために——。



次の一手を、打たなければならない。



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