第95話
「本を書くって……どういうこと?」
エリーゼは驚きながらも、慎重に問い返した。
対してオリカは、目を輝かせながら語り始めた。
「医学の知識を広めるの。私たちがやってる治療の意味、病気の正体、それを“本”にまとめて、市民に知ってもらうの!」
ルシアンは腕を組んだまま、冷静に呟く。
「……それって、要するに“教育”ってことか?」
「そうよ! みんな病気に対して無知だから、怖がる。魔法に頼るしかないと思ってる。でも、違うのよ。“病”は見えない敵だけど、正体を知れば、戦い方だって見えてくるのよ!」
オリカは興奮気味に続ける。
「例えば、“黒死病”だって、ただの呪いじゃない。感染経路を知れば、予防もできるはずなのよ!」
「ふーん……」
ルシアンは腕を組んだまま、考え込んだ。
「でもさ、本を書くって言うけど……どうやって?」
「それは……」
オリカは勢いよく口を開いたが、言葉に詰まる。
「……そうよね。どうやって作るか、そこが問題よね……」
◆ 書物の制作方法
ロストンには印刷技術がある。
しかし、現代のような大量生産は難しく、書物は基本的に手書きで写本されるのが一般的だった。
「とりあえず、内容をまとめて、書き出してみるところからよね……」
「そうだな。でも、紙とインクの調達も大変だぜ?」
ルシアンが現実的な指摘をする。
「しかも、オリカがどれだけすごいことを書いても、読めない人が多いだろ?」
「……あっ!」
エリーゼが驚いたように口を押さえた。
「そうよね。この街の人たち、読み書きができる人の方が少ないんじゃ……」
「その通りだ」
ルシアンが頷く。
「貴族や商人は別として、一般の市民は教育を受けてない。文字が読めるのは、一部の知識層や学者、それに一部の職人くらいだ」
「じゃあ、文字が読めない人には……どう伝えたらいいの?」
オリカが考え込む。
「誰かに読んでもらうしかないわね。読み聞かせをするか、識字率の高い人たちを巻き込むか……」
「それなら、教会や学者たちを利用するのがいいかもしれないな」
ルシアンが提案する。
「ロストンには修道院もあるだろ? そこでは子供たちに識字を教えてるって聞いたことがある」
「なるほど……!」
オリカは膝を叩いた。
「つまり、書くだけじゃなくて、“広める仕組み”を作らなきゃいけないってことね!」
◆ “協力者”の存在
「でも、そんな大掛かりなこと、私たちだけじゃ無理よね……」
エリーゼが不安げに呟く。
「だったら、協力してくれる人を探すしかないな」
ルシアンが肩をすくめる。
「書物を作るには、“写本家”が必要だし、内容を監修する人間も必要だ。あと、オリカの医学の知識を分かりやすく書き直す役目もな」
「それなら……!」
オリカの脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。
「ユリウスなら、協力してくれるかもしれない!」
「あいつか……」
ルシアンが渋い顔をする。
「まあ、商人ギルドのトップなら、書物の普及には関心があるかもしれないな」
「彼が無理なら、修道院に相談してみるのもアリね」
エリーゼも頷いた。
「じゃあ、一旦ユリウスのところに行ってみましょう!」
オリカは勢いよく立ち上がった。
◇
「……まあ、君なら、何かやるとは思っていたがな」
ユリウスは苦笑混じりにワインのグラスを傾けた。
商人ギルドの執務室。
ロストンの経済の中枢を担うこの場所で、オリカたちは再びユリウスと向き合っていた。
「つまり、“医学の本”を書いて、それを広めたい、と?」
「そう! 医療の知識を多くの人に知ってもらいたいの!」
オリカは力強く頷いた。
「私たちは今まで、“目の前の命”を救うことに全力を尽くしてきた。でも、それだけじゃ足りないのよ」
「……足りない?」
ユリウスは目を細めた。
「病気は“無知”から生まれる。何も知らないから、迷信や誤解で苦しむ人が多すぎる。だったら、その無知をなくせばいい——そう思ったのよ」
オリカの言葉に、ユリウスは少し考える素振りを見せた。
「……ふむ」
「で、ユリウスさんなら、その“広める手段”を持ってるんじゃないかって思って」
ユリウスはワインのグラスを置き、指を組んでオリカを見つめた。
「……たしかに、商人ギルドには情報を流通させる手段はある。だが、そのためには、それなりの“価値”が必要だ」
「価値……?」
「そうだ」
ユリウスは微笑を浮かべたまま、指を一本立てる。
「まず、“写本”ができる人材を確保しなければならない。本を作るには、相応のコストがかかる」
「……やっぱり、お金の話よね」
エリーゼが溜息をついた。
「書籍は高級品だ。本を量産するには、“紙”と“インク”も必要になるが、どちらも貴族や学者が独占している。ましてや、医学書なんてものは前例がない」
「前例がないからこそ、作る意味があるのよ!」
オリカは食い下がる。
「その意気は買おう。だが、どうやって資金を調達する?」
「それは……」
「キミたちは医者だろう?」
ユリウスは言葉を続ける。
「なら、まずは“診療”で資金を集めるのが筋だろう。お前たちの知識が本当に価値あるものなら、それを“形”にするのは難しくないはずだ」
「診療所の経営を軌道に乗せろ、ってこと?」
「そういうことだ」
ユリウスは笑みを深める。
「もっと言えば、“医学の書物”に価値を持たせるために、まずはお前たちの診療所が“ロストンで確固たる地位”を築くことが先決だ」
オリカは拳を握りしめた。
「……そうね。まずは、信頼を得なきゃ」
「それができれば、俺も協力しよう」
ユリウスは立ち上がった。
「医学の書物……面白いアイデアだ。だが、ただ書くだけじゃ意味がない。お前たちが“認められた存在”にならなければ、誰も読もうとはしないだろう」
「……わかったわ。ありがとう、ユリウスさん!」
オリカは力強く頷いた。
「さっそく動きましょう!」
商人ギルドを後にしたオリカたちは、夕暮れのロストンの街を歩いていた。
「……まずは、診療所の経営を安定させること、か」
オリカは呟くように言った。
「そもそも、最近患者が減ってるんだよな?」
ルシアンが眉をひそめる。
「ええ。おそらく、例の“悪い噂”が広まってるせいでしょうね」
エリーゼが腕を組みながら答えた。
「黒死病の治療をしてるせいで、逆に危険視されてるって話か」
「でも、診療所がやってることは、間違いなく“正しい”ことのはずよ」
オリカは足を止めた。
「だからこそ、それを“見せなきゃ”いけないのよね」
「見せる?」
ルシアンが首を傾げる。
「そう。まずは、診療所が本当に“信頼できる場所”だってことを、市民たちに知ってもらわなきゃダメなのよ」
オリカは、目の前の通りを見渡した。
商店街には活気が戻りつつあったが、まだ“異変”は完全には拭い去られていない。
「なあ、だったらもっと積極的に市民と関わるのはどうだ?」
ルシアンが提案する。
「どういうこと?」
「例えば……無料で診察をしたり、街の広場で“健康相談”みたいなことをやるんだよ」
「なるほど、それなら市民も気軽に立ち寄れるわね」
エリーゼも納得した様子で頷く。
「……いいわね! そういうイベントなら、今まで診療所を敬遠してた人たちも足を運びやすいかも!」
オリカの顔が明るくなった。
「よし、じゃあまずは広場で相談会を開く準備をしましょう!」
「お、おい、今決めたのかよ!」
ルシアンが驚いたように言うが、オリカはすでに次の行動を考えていた。
「場所の手配はヴィクトールさんにお願いするとして……道具や薬は診療所から持ってくればいいわね」
「本当にやる気なんだな……」
ルシアンは呆れたように肩をすくめた。
「やるわよ! ロストンの市民たちに、医療の大切さを知ってもらうの!」
オリカの決意に、エリーゼとルシアンは顔を見合わせ、そして苦笑した。
「……ま、仕方ないな。付き合うよ」
「私も手伝うわ」
「ありがとう!」




