第94話
商人ギルドを後にし、ロストンの石畳を踏みしめながら歩く。
街路には夕暮れの陽光が溶け込み、レンガ造りの建物が柔らかな橙色に染まっていた。
オリカ、エリーゼ、ルシアンの三人は、それぞれの思考を巡らせながら無言で歩いていたが、やがてオリカが口を開く。
「……どうすればいいんだろうね」
商人ギルドでのユリウスの言葉は、彼女の胸に重くのしかかっていた。
表面上は穏やかで、多様性に溢れた都市ロストン。
だが、その裏には確固たる伝統が根付いている。
特に「医療」に関しては、長い年月をかけて形成された価値観と文化があった。
「“医療”っていうのは、ただ新しいものを持ち込めば受け入れられるってものじゃない…」
エリーゼが横目でオリカを見ながら言った。
「確かに、あなたの技術はすごいわ。でも、それだけでこの街の人々の信頼を勝ち取れるとは限らない……。特に、上層部が反対してる以上、単なる実績じゃ太刀打ちできないかもしれないわね」
「それは……わかってるけど」
オリカは唇を噛みしめた。
黒死病の治療法を確立し、助けた患者も数えきれないほどいる。
けれど、それでも今、診療所はじわじわと追い詰められている。
仕入れ先の商人たちが態度を曖昧にし、薬の供給も滞り始めた。
何者かが裏で手を引いているのは明らかだった。
「信用の問題なんだよな……」
ルシアンがポツリと呟いた。
「信用?」
「……たとえば、商人たちが供給を渋る理由のひとつは、俺たちの診療所に“後ろ盾”がないからじゃないか?」
「後ろ盾……か」
オリカは考え込む。
商人ギルドに登録したとはいえ、ロストンの医療業界にはもともと強力な既得権益が存在する。
その支配層に睨まれている以上、ただ実績を積むだけでは、現状を覆すのは難しい。
「この街の医療には、長い歴史と文化がある。それを覆そうとすれば、当然反発がある。つまり……」
「敵を作るってことね」
エリーゼが肩をすくめた。
「そういうことだな」
ルシアンも苦笑した。
「敵を作らずにやる方法は……?」
「それこそ“後ろ盾”を作ることだろうな」
ルシアンの言葉に、オリカは眉をひそめる。
「後ろ盾って、そんな簡単に見つかるものじゃないよ?」
「まぁな。でも、俺たちだけで戦うのは難しいんじゃないか?」
「…………」
オリカは立ち止まり、ロストンの街並みを見上げた。
この街で診療所を開いてから、もう数ヶ月が経つ。
最初は勢いで駆け抜けてきた。
でも、今は違う。
ただ新しい医療を持ち込むだけではなく、この街の“文化”や“歴史”そのものと向き合わなければならない。
「……考えないとね」
オリカは静かに呟いた。
「どうすれば、この街に受け入れてもらえるか」
遠く、港の鐘が響く。
この街の灯は、まだ揺らめいていた。
ロストンの街を包む夜の帳は、穏やかでありながらも、どこか不穏な気配を孕んでいた。
潮の香りを運ぶ風が通りを撫で、道端に立つ街灯が仄かに明滅する。
商人ギルドを後にしたオリカたちは、足早に屋敷へと戻っていた。
「はぁ……今日も疲れた」
オリカは肩を回しながら大きく伸びをする。
「考えることが多すぎるわね……」
エリーゼが小さくため息をついた。
「とりあえず、一度整理しないといけないな」
ルシアンも渋い顔で呟いた。
いつもなら、屋敷に戻ると温かい食事と穏やかな談笑が待っている。
しかし、この日ばかりは、誰もが思考に沈み、食卓の上に広げた書類の束を見つめたままだった。
医療品の供給が滞っている。
商人たちの態度も曖昧だ。
このままでは、診療所の運営自体が危うい。
現状の対策として考えられるのは、大きく分けて二つ。
1.供給のルートを見直す。
2.既存の医療体系に食い込む。
だが、どちらも簡単な話ではない。
——打開策はないのか?
食事を終えた後も、オリカは一人考え続けていた。
部屋に戻り、ランプの灯を落とす。
薄暗い光が、机の上に置かれたカルテの束を照らしていた。
「……やれること……できること……」
呟きながら、ペンを指で回す。
知識。
技術。
経験。
この世界の医療は「魔法」と「伝統」に縛られている。
では——それを覆す手段は?
そう考えた瞬間、オリカの脳裏にひらめきが落ちた。
「知識を広める」
「——あっ」
オリカは顔を上げた。
医学を「魔法」ではなく「学問」として根付かせる。
それができれば、偏見や誤解を払拭できるかもしれない。
そもそも、人々は「知らない」から不安になるのだ。
病気の原因がわからなければ、それは恐怖になる。
医療の意義を知らなければ、治療法の価値は伝わらない。
「そうだ……」
手元のカルテに視線を落とす。
そこには、彼女が診てきた患者たちの名前が連なっていた。
「……魔法がないと治らない? そんなの、誰が決めたの?」
この世界の人々は、「魔法による治療」を当たり前のように信じている。
しかし、オリカが持つ「現代医学」の知識は、それに匹敵する治療を可能にする。
ならば——
「医学の知識そのものを広めればいい」
言葉にしてみると、意外なほど単純なことだった。
書物だ。
書物を作り、知識を伝えればいい。
「……でも、どうやって?」
オリカは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
ロストンの街は、夜の闇に包まれながらも、遠く港の方では明かりが灯り続けている。
医療を根付かせるには、時間がかかる。
だが——確実な一歩になる。
翌朝。
オリカは、少し寝不足気味の顔で食堂に現れた。
「おはよう、オリカ。ちょっと顔色悪くない?」
エリーゼが心配そうに声をかけるが、オリカは椅子に座るなり、バンと机を叩いた。
「決めた!本を書く!」
「……は?」
ルシアンとエリーゼが同時にポカンとした顔になる。
「医学書を作るの! それで、人々に医療の知識を広める!」
「ちょ、ちょっと待て。お前、そんな簡単に言うけど……」
ルシアンが眉を寄せた。
「本を書くって言ったって、誰が書くんだよ?」
「私!」
「……お前、文章書いたことあるのか?」
「ない!」
「…………」
ルシアンとエリーゼが、同時に頭を抱えた。




