第93話
ロストンの朝はいつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。
市場の活気ある掛け声が街中に響き、商人たちが今日も忙しく商売を繰り広げている。
その中心に聳え立つのが、ロストンの「商人ギルド本部」。
かつて診療所を開業した際、商社登録を行った場所だ。
あれから数ヶ月が経ち、再びこの門を叩くことになるとは——オリカは静かに息を吐いた。
「なんか、前に来たときより圧がすごくない?」
オリカはギルド本部の重厚な扉を見上げながらぼそっと呟く。
「前回は商社登録の手続きでしたからね。今回は申し立て、つまりギルドのルールに異議を唱える手続きです」
エリーゼが冷静に説明する。
「そりゃあ、前と同じ空気じゃないわけだ」
ルシアンはギルドの建物を見上げ、眉をひそめる。
ロストン商人ギルド本部は、堂々たる石造りの建物だ。
三階建ての大構造に、ギルドの象徴である天秤の紋章が刻まれた巨大な扉。
入り口には武装した守衛が立ち、通行人の動きを鋭く見つめていた。
「さ、行きましょ」
オリカは扉を押し開き、ギルドの中へと足を踏み入れた。
ギルドのエントランスホールは、以前訪れたときと変わらぬ豪華さだった。
大理石の床が光を反射し、天井には見事なシャンデリアが吊るされている。
だが、雰囲気は違っていた。
以前は活気に満ちた商談が交わされ、賑やかな笑い声が飛び交っていた。
しかし今は、どこか重苦しい空気が流れている。
オリカたちが入ってくると、微妙な沈黙が生まれた。
何人かの商人たちがこちらをちらりと見て、すぐに目を逸らす。
(……なんか、居心地悪い)
オリカは僅かに眉をひそめた。
以前来たときは、誰もが商社登録を済ませた「新しい事業者」として、親しみを持って接してくれた。
だが今は——明らかに何かを警戒している視線を感じる。
「……まずは受付に行きましょう」
エリーゼが小声で言う。
オリカたちはカウンターへと向かった。
「……申し訳ありませんが、申し立ての受理は現在停止しております」
受付の女性が、どこか申し訳なさそうに言った。
「え?」
オリカは思わず聞き返した。
「どういうことですか? 申し立てをするために必要な書類は全部揃えてきました。それなのに、受け付けてもらえないんですか?」
「……申し訳ありません。ですが、ギルド上層部の判断により、現在新規の申し立て手続きはすべて保留となっております」
「ギルド上層部の判断?」
「……詳しいことは、私たちには分かりません。ただ……申し上げにくいのですが、あなた方の診療所に関する申し立てについては、特に慎重に扱うよう通達が出ております」
「——ッ!」
オリカは受付の女性の言葉に息を呑んだ。
「……それって、つまりどういうこと?」
オリカが鋭い目で詰め寄ろうとしたその瞬間——
コツ……コツ……
奥の通路から、何者かの足音が響いた。
「おやおや、随分とお困りのようだね」
静かで、それでいて芯のある声が、ホール全体に響く。
周囲の商人たちが一瞬息を呑み、緊張感が走る。
「……あなたは」
オリカが振り返ると、そこに立っていたのは——
《商人ギルドの執行官、ユリウス・グランディエ》
現れたのは、一人の男だった。
漆黒のロングコートを羽織り、肩まで伸びた銀髪を後ろで緩く結んでいる。
端正な顔立ちに、鋭い切れ長の瞳。
左耳には銀色の飾りがついた片耳ピアス。
彼の胸元には、商人ギルドの「執行官」であることを示す紋章が光っていた。
「君が……診療所の女医、オリカ・フローライトか」
男はゆっくりとオリカを見下ろしながら、薄く微笑んだ。
「俺の名はユリウス・グランディエ。商人ギルドの執行官にして、取引監査の責任者だ」
「……取引監査?」
オリカが怪訝そうに聞き返すと、ユリウスは優雅に微笑んだ。
「君の診療所に関する申し立ては、現在、上層部で審査中だ」
「審査……? それってどういう……?」
ユリウスは腕を組み、冷静な口調で言った。
「君の診療所は、このロストンの経済圏において、急激に市場に影響を与えている」
「それがどうしたんですか?」
「……君の存在が、一部の勢力にとって“不都合”なんだよ」
「!!」
オリカは言葉を失った。
「このロストンという都市は、自由な交易が認められている。しかし、同時に市場の均衡を守るための管理が必要なんだよ」
「市場の……均衡?」
「そうだ。君の診療所が生み出す利益、そしてそこに依存する人々の数……それがどれだけの影響を与えているか、君は理解しているのか?」
オリカは息を呑んだ。
ユリウスは微笑んだまま、ゆっくりと歩み寄る。
「……君の診療所の存続について、商人ギルドは慎重に判断しなければならない」
「なっ……!? それってつまり——!」
ユリウスの目が、冷ややかに光った。
「——君の診療所の未来は、まだ確定していないということだ」
オリカの胸に、戦慄が走った。
ギルドのホールに張り詰めた沈黙を破ったのは——ルシアンの苛立った声だった。
「ふざけるなよ」
彼はユリウス・グランディエを睨みつけながら、一歩前に踏み出した。
「市場の均衡? だから何だってんだ? こいつは誰かを助けるために診療所をやってるだけだろ。それがどうして“不都合”になる?」
場の空気が一瞬凍りつく。
周囲の商人たちは息を呑み、オリカはルシアンを横目で見た。
(……珍しい。ルシアンがこんなに感情的になるなんて)
ユリウスはそんなルシアンを前にしても、微動だにせず、ただ静かに彼を見つめていた。
「ルシアン、やめて」
エリーゼが素早くルシアンの腕を掴み、小声で制止する。
「こいつが言ってることはおかしいだろ。こんなやり方、どう考えたって——」
「落ち着いて」
エリーゼが真剣な表情で囁くと、ルシアンは奥歯を噛み締めた。
ユリウスは腕を組み、ゆっくりと口を開いた。
「……どうやら、冷静に話ができる場が必要なようだね」
彼の視線がオリカへと向けられる。
「この場では話しづらいこともある。別の場所で話そうか」
「……どこへ?」
オリカは警戒しながら尋ねる。
「ギルドの会議室でもいいし、君たちが望むなら外でも構わない。私は敵ではない。ただ、君たちに“この街の現実”を知ってもらいたいだけだよ」
その言葉には、一切の揺るぎがなかった。
オリカはしばし考えた後、頷いた。
「……わかった。じゃあ、静かに話せる場所に移りましょう」
ユリウスは満足そうに微笑んだ。
「そうこなくては」
オリカたちは、商人ギルドの奥にある会議室へと案内された。
《ギルドの会議室》
ギルドの奥にある会議室は、重厚な雰囲気に包まれていた。
広々とした木製のテーブルに、壁にはロストンの交易網を示す地図がかけられている。
窓の外にはロストンの街並みが一望でき、ギルドの中枢を感じさせる場所だった。
「座ってくれ」
ユリウスが席を促すと、オリカたちは静かに腰を下ろした。
ルシアンは未だ警戒を解かず、腕を組んでユリウスを睨んでいる。
ユリウスは優雅に紅茶を口に運び、一息ついた後、話し始めた。
「まず初めに、私は君たちの診療所を潰そうとしているわけじゃない」
「……なら、どうして?」
オリカがまっすぐユリウスを見つめる。
「簡単なことだよ」
ユリウスは指を組み、穏やかに言った。
「“経済圏において、影響力を持ちすぎるものは、必ず敵を作る”」
オリカは息を呑んだ。
「……私の診療所が?」
「そうだ。君の診療所は、ロストンにおいて異例の速さで人々の信頼を得た。それ自体は素晴らしいことだ。しかし、それはこれまでの医療業界の既得権益を脅かすことになった」
ユリウスの言葉に、エリーゼが小さく眉をひそめる。
「……“既得権益”とは?」
「君の診療所ができる前、この街の医療はどうなっていたか覚えているかい?」
オリカは少し考えた後、答えた。
「……修道院の診療施設や、治癒魔法を使う修道士が中心だったわね」
「その通り。だが、彼らの医療は治癒魔法に依存している。つまり、君のように“外科手術”を取り入れた医療は、これまでのロストンにはほとんど存在していなかった」
ユリウスは軽く指を立てた。
「となると、どうなる?」
「……患者がそっちに流れる」
ルシアンが低く呟く。
「そういうことだ。君たちの診療所が注目され、患者が増えれば、それまでの医療機関は当然影響を受ける。資金繰りが悪化し、経営難に陥る施設が出てくる。そして——」
ユリウスは目を細めた。
「そういった施設を後ろ盾にしている“貴族”がいる」
オリカはハッとした。
「まさか……グレゴリアン公爵家?」
「君は鋭いね」
ユリウスは微笑んだ。
「彼らは長年、この街の医療機関のスポンサーだった。つまり、君の診療所の発展は、彼らの既存の利益と真っ向から衝突することになる」
「……だから、診療所の物資が滞ってるの?」
「そういうことだ。貴族の影響力は強い。商人たちは公爵家の不興を買いたくない。だから、“見えない圧力”によって取引が難しくなっているのさ」
オリカはギュッと拳を握った。
「そんなの……ただの嫌がらせじゃない!」
「そうだとも。だが、経済と権力は、常にそうやって動いている」
ユリウスは淡々と言った。
「……君たちの診療所を潰そうとしているわけではない。だが、“影響力を持ちすぎたもの”には、必ず敵ができる。君がそれを理解しないまま進めば、本当に潰されることになるかもしれない」
オリカは唇を噛みしめた。
「どうすればいいの……?」
ユリウスは、ゆっくりと紅茶を置いた。
「君に選択肢は二つある」
「選択肢?」
「一つは、このまま圧力に屈して、診療所の規模を縮小すること」
「……それは無理」
オリカは即答した。ユリウスは少し微笑んだ。
「ならば、もう一つの選択肢——君の診療所の“価値”を、貴族たちに認めさせることだ」
「価値……?」
「そうだ。経済圏において重要なのは、利益と実績だ。君の診療所が確かな成果を出し、“この街に必要不可欠な存在”であると認められれば、どんな貴族も無視はできなくなる」
オリカはユリウスの言葉を噛み締めた。
「——やるしかないってことね」
ユリウスは微笑んだ。
「そういうことだよ、女医殿」
戦いは、ここから始まる。