第91話
チュンチュン
チチチ…
「もう、8時か……」
オリカは診療所の扉を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ロストンの街に降り注ぐ朝の日差し。
遠くから市場の賑わいが聞こえ、焼きたてのパンの香ばしい香りが風に乗って流れてくる。
「さて、そろそろ出かけようか」
今日は診療に必要な薬草と薬剤に使う魔法薬の仕入れに行く日だ。
いつもの仕入れ先へ向かうため、オリカはエリーゼとともに市場へと歩き出した。
「今日もいい天気ですね」
色とりどりの果物、スパイスの香り漂う屋台、職人たちが並べたばかりの焼きたてのパン。
エリーゼが空を見上げる。
オリカは頷きながら、いつもの薬草屋『セリウス堂』の店先に足を踏み入れた。
《セリウス堂——港町の小さな薬草屋》
市場を抜け、少し外れた路地に入ると、そこにはひっそりとした佇まいの店がある。
『セリウス堂』——ロストンでも長い歴史を持つ薬草屋だ。
外観は素朴で、煉瓦造りの壁に蔦が絡みつき、木製の看板が風に揺れている。
小さな窓からは、干されたハーブや乾燥させた薬草が吊るされているのが見え、扉を開けると独特の香りが鼻をくすぐった。
——草木の青い香りに、乾燥した土の匂い、薬草のほのかな甘さが混じり合った、どこか落ち着く香り。
店内は決して広くはないが、木製の棚にはずらりと薬草や薬瓶が並べられ、整然と分類されている。
天井から吊るされたドライハーブが、風に揺れて静かにさざめいている。
カウンターの奥には、店主のセリナがいた。
セリナ・グレイヴス——50代半ばの女性で、温厚な性格の持ち主。
肩まである灰色の髪をきっちりと結い上げ、実直そうな表情を浮かべている。
彼女はロストンの薬草屋の中でも特に経験豊富で、代々この店を守ってきた。
オリカが開業してから、何かと親身になってくれる、信頼できる人物だ。
「おはようございます、セリナさん。今日もお願いね」
オリカは笑顔でカウンターへ歩み寄る。
「おや、オリカ先生。毎度ありがとう……と言いたいところなんだけど……」
「え?」
セリナの声音が、いつもより沈んでいた。
「実はね、今月は仕入れが難しくて……」
「……仕入れが難しい?」
オリカの表情が曇る。
「ごめんなさいね、先生。必要なものはわかってるんだけど、どうしても手に入らなくて」
「えっと……それは、どういうこと?」
セリナは申し訳なさそうに視線を落とした。
「私も困ってるのよ。でも、仕入れ元が軒並み取引を渋っていてね。注文しても、なぜか『今月は無理』って断られるの」
エリーゼが腕を組む。
「でも、このリストにある薬草って、特に珍しいものじゃないですよね? 流通が止まるほどの品じゃないはずですが……」
「でしょう? だから私も理由を聞いたんだけど、誰もはっきりしたことを言わなくてね」
「……それは、どう考えてもおかしいわね」
オリカは唇を引き結んだ。
「……仕入れ元が変わったのかしら?」
「それなら話はわかるんだけど……」
セリナは肩をすくめる。
「とにかく、今はどうにもできないの。申し訳ないけど、他を当たってもらえる?」
「……わかったわ」
オリカは釈然としないまま、店を後にした。
「他の店なら、手に入るでしょうか?」
エリーゼが問いかける。
「それを確かめるしかないわね……」
オリカはため息をつきながら、市場の別の薬草店へと向かうのだった。
だが、そこで彼女を待ち受けていたのは、更なる不可解な言葉だった——。
セリウス堂を後にしたオリカとエリーゼは、ロストン市場の中心へと足を向けた。
朝の市場は活気に溢れ、行き交う人々のざわめき、威勢のいい商人たちの声が響き渡っていた。
しかし、オリカの心の中には、重たい疑念が渦巻いていた。
——薬草の仕入れができない。
単なる一軒の店の問題ではなく、仕入れ元全体で滞っているという。
これが偶然の出来事なのか、それとも誰かの意図が働いているのか——
「次はグリムワルド堂に行ってみましょう」
エリーゼが言いながら、視線を巡らせる。
グリムワルド堂はロストン市場の一角にある、中規模の薬草店だ。
セリウス堂ほどの歴史はないが、扱う品目は幅広く、特に交易品の魔法薬の取り扱いに長けている。
オリカたちは店の前に立った。
グリムワルド堂の店構えは堅牢な石造りで、棚には大小様々な薬瓶や乾燥ハーブが並び、奥には保存用の魔法冷蔵庫が置かれている。
店主のバルタザールは恰幅の良い中年男性で、商売上手なことでも知られていた。
「おう、オリカ先生じゃねぇか。今日は何をお探しだ?」
カウンターの奥から、バルタザールが顔を出した。
「いつもの薬草をお願いしたいんですけど……」
「……すまねぇな、先生」
「え?」
オリカは眉をひそめる。
「そちらも仕入れが止まってるんですか?」
「いや……そういうわけじゃねぇ。あるにはあるんだが……ちょっと、俺の立場ってもんがあってな……」
バルタザールは歯切れが悪そうに言葉を濁した。
「立場、ですか?」
「悪いな、先生。これ以上は言えねぇんだ」
「バルタザールさん」
オリカはじっと彼の目を見つめた。
「……何が起きてるんです?」
バルタザールは困ったように目を逸らし、大きなため息をついた。
「……詳しくは言えねぇ。ただ、一つ忠告しとく」
「忠告?」
「この街で商売を続けるなら、慎重になったほうがいい」
バルタザールの声は低く、普段の陽気な態度とは打って変わった真剣なものだった。
「何かが……動いてるんですか?」
「……俺からはそれ以上言えねぇ。だが、お前さんも“商売をする医者“なら、少しは勘が働くだろ?」
オリカは黙り込んだ。
確かに、ここ最近感じていた違和感は、漠然としたものではなくなりつつある。
診療所の客足が減り始めたのも、仕入れが滞り始めたのも、すべて何かの「前触れ」なのかもしれない。
エリーゼがそっと囁く。
「……これは、単なる偶然ではありませんね」
オリカは頷きながら、小さく息を吐いた。
「……わかりました、バルタザールさん。今日は引きます。でも、また来てもいいですか?」
バルタザールは一瞬考えたあと、頷いた。
「お前さんが賢い判断をしてくれるならな」
市場を歩きながら、オリカは思案していた。
「セリウス堂だけじゃなく、グリムワルド堂まで……」
「明らかに何かが起こってますね」
「うん……」
オリカは足を止め、深く息を吸い込んだ。
「……ヴィクトールさんに相談してみよう」
「そうですね。アレクシス家の商人ルートなら、何か掴めるかもしれません」
エリーゼの言葉に頷き、オリカは屋敷の方角を見上げた。




