第90話
朝の空気は、いつもと変わらないはずだった。
陽が昇るとともに、診療所 「うさぎのおうち」 の扉が開かれ、今日もまた、患者たちが訪れる。
オリカは白衣の袖を軽くまくりながら、受付に向かった。
「おはようございます、先生!」
マーサが明るい声で迎えてくれる。
「おはよう、マーサ。今日の予約は?」
マーサはカルテをめくりながら、少しだけ首を傾げた。
「……いつもより、少ないですね」
「そう?」
オリカもカルテを覗き込んだ。
確かに、昨日までの混雑ぶりと比べると、どこか静かだった。
「まあ、たまたまかな?」
そんなふうに軽く考えながらも、
心の奥底で、微かな違和感が広がっていく。
午前の診察が始まると、患者たちは順番に診療室へと入ってきた。
薬を受け取り、簡単な問診を済ませる。
オリカが話しかければ、いつも通りの笑顔が返ってくる。
「先生、いつもありがとうね」
「ここの治療は本当に助かるわ」
そんな言葉を交わすたびに、安心する。
——けれど。
どこか、ほんの少しだけ。
「空白」が生まれていた。
以前は、受付の前に長蛇の列ができていたはずなのに。
混雑を防ぐため、人数制限をかけた日もあったのに。
今は——
「……ねえ、なんか、待合室が広く感じない?」
昼休憩の合間、オリカはスタッフルームでマーサに尋ねた。
「先生も、そう思ってました?」
「やっぱり……?」
「最近、急に患者さんが減ってる気がするんですよね」
「うーん……季節の変わり目だからかな?」
「……かもしれませんけど」
マーサは、ほんの少しだけ言い淀む。
そして、小さく呟いた。
「この間、患者さんが言ってたんです。“あんまりここに来ないほうがいいって、言われた”って」
「……誰に?」
「それは分かりません。でも、そんな話を聞くの、これが初めてじゃないんですよ」
オリカの胸の奥に、小さな違和感の棘が刺さる。
「……誰かが、何かを言ってるってこと?」
マーサは答えず、ただ黙ってカルテをめくる。
不安を打ち消すように、紙の擦れる音だけが響いていた。
***
街の空気に漂う“何か”
午後の診察を終えた後、オリカは少し時間を作り、街へ出ることにした。
「エリーゼ、ちょっと付き合ってくれる?」
「ええ、いいですよ。何か気になることでも?」
「ちょっと、商人ギルドに行こうと思って」
薬草や医療品の仕入れ先に、何か変化があるかもしれない。
薬草によっては、時期によって入手が難しくなる品物もある。
それを確認するためだった。
ロストンの街並みは、いつもと変わらない。
港町らしい潮の香りが風に乗り、石畳の道を行き交う人々の声が響く。
通りを進むうちに、オリカは市場の賑やかな声の中に、ふと気になる言葉を拾った。
「——最近、あの診療所に行くのをやめたんだ」
「え、どうして?」
「なんかさ……あそこ、“外科師”が治療してるんだろ? ちょっと怖くてさ」
「……ああ、確かにな。噂によれば、体を切ったりするんだろ?」
「そうそう。この前大怪我を負った坑夫がいたらしいんだが、…なんつーか痛々しい姿になってたらしいぜ?」
オリカは思わず足を止めた。
「それにさ、どんな病気もすぐ良くなるっていうけど……本当に“治ってる”のか分からないじゃん」
「それどころか、逆に“何か”されてるんじゃないかって噂もあるよ」
「“何か”って……?」
「……魔女の診療所、って聞いた」
「えっ」
エリーゼが横目でオリカを見る。
「……誰がそんな話、広めてるの?」
「さあ? でも、貴族の人たちの間では、特にそういう話が出てるみたいだよ」
貴族——。
オリカは知らず知らずのうちに拳を握っていた。
「オリカ……これってもしかして…」
エリーゼの声が、冷静に響く。
オリカの診療が評判を呼び、多くの人に求められるようになった。
以前街中で話しかけられたことがある。
“アレクシス家と共に滅びる覚悟がおありか?”
その言葉が、頭の中に残っている。
診療所。
修道院とは違った、「医学」へのアプローチ。
それを快く思わない者がいる——?
「……まだ確信は持てないけど、気をつけたほうがいいかもね」
オリカは、ゆっくりと歩き出した。
心の奥に、静かな警戒を抱えながら。
診療所の中庭に、秋の風がそっと吹き抜けた。
ロストンの街が少しずつ冷え込む季節。澄んだ空気の中、陽が落ちるのが日増しに早くなっていく。
「先生、今日の診察は終わりました」
受付のマーサが、診療記録をまとめながら報告する。
「ありがとう。今日はどうだった?」
「……やっぱり、患者さんが少なかったですね」
マーサは、控えめに言葉を選んでいるようだった。
オリカも気づいていた。
——日を追うごとに、患者の数が減っている。
これまでは朝から行列ができるほどだったのに、今は待合室にぽっかりと空白の時間が生まれることが増えた。
診察が早く終わること自体は悪くない。
けれど、それが不自然な静けさであることを、誰もが感じ取っていた。
「先生、やっぱり何か起きてるんじゃないですか?」
マーサの言葉に、オリカはゆっくりと息を吐いた。
「……まだ確証はないけど」
彼女の頭の中には、昨日商人ギルドで聞いた言葉がこびりついていた。
「魔女の診療所」
誰が、何の目的で流しているのかは分からない。
だが、それが影響を与え始めているのは間違いなかった。
「外の様子を見てくる」
オリカは白衣を脱ぎ、エリーゼとともに診療所を出た。
ロストンの街は、夕方の賑わいを見せていた。
魚市場では、漁師たちが今日の獲物を売りさばいている。
パン屋からは香ばしい匂いが立ち込め、通りの商人たちが活気よく客を呼び込んでいた。
——一見すると、何も変わらない。
けれど、空気の色が違っている。
人々の会話の中に、聞き慣れない単語がちらほら混ざっていた。
「あの診療所、大丈夫なのか?」
「魔法を使う医者なんて、やっぱり怖いよな」
「治療っていうより、呪いをかけられてるんじゃ……」
オリカは足を止めた。
「……ねえ、エリーゼ。今の、聞こえた?」
「ええ……」
エリーゼの表情が険しくなる。
ただの噂話ならば、気にする必要はない。
けれど、これは——
「…やっぱり」
エリーゼが小さく唇を噛んだ。
誰かが意図的に流している。
そして、それを信じる人間が増え始めている
***
街の路地裏で、二人の男が低く話していた。
「……診療所の人間か?」
「そうらしい」
「へぇ……まあ、しばらく様子を見るとするか」
男たちは暗がりに溶け込むように姿を消した。
彼らは「監視者」だった。
グレゴリアン公爵家が送り込んだ者たち。
目的はただ一つ。
——オリカとアレクシス家の動向を探ること。
“貴族”の手が、確実に迫ってきている。
だが、そのことをまだオリカは知らない。
彼女は、ゆっくりと診療所へ戻る。
胸の奥に、微かな警戒を抱えながら——。




