第89話
診療所 「うさぎのおうち」 を開業して、数ヶ月が経った。
ロストンの朝は、いつものように活気に満ちている。
港町の潮風に混じって、パン屋から漂う甘い焼きたての香りや、果物屋の店主が呼びかける賑やかな声が、街の通りを彩っていた。
——そして、そんな街の一角にある、小さな診療所。
「うさぎのおうち」
可愛らしい名前に反して、そこはロストンで唯一、魔法と医術を併用する“異端”の診療所だった。
だが、その“異端”は次第に人々の間に溶け込みつつあった。
開業当初は物珍しさと警戒の目が向けられていたものの、今では常連の患者も増え、「魔法医療」を受けに来る人々が後を絶たなかった。
「先生、今朝の診察、もう始めますよ!」
診療所の受付にいる助手のマーサが、奥の部屋に向かって声をかけた。
「わかってるー!」
奥の診察室から、オリカの気の抜けた声が返ってくる。
彼女は相変わらず朝が苦手だった。
「……はぁ。先生、いつになったら朝ちゃんと起きられるんでしょうね」
マーサは呆れたように息をつきつつ、準備を進める。
とはいえ、診療所がここまで軌道に乗るとは、最初は誰も想像していなかった。
「オリカ先生のおかげで、助かったよ」
「魔法医療ってすごいのね! もっと早く知りたかったわ」
そんな声が日常的に聞こえるようになり、ロストンの住人たちは少しずつ、オリカの診療所を信頼するようになっていた。
***
「……ふぁ〜……朝って、どうしてこんなに眠いんだろう……」
診察室の机に頬をつけたまま、オリカはぼんやり呟いた。
「先生、朝の診察始まりますよ!」
マーサの声に、オリカは顔をしかめながら伸びをする。
「よーし、今日も頑張りますか……」
寝ぼけ眼を擦りながらも、診察室のドアを開けた瞬間、彼女は一気に覚醒する。
——そこには、朝から待っていた患者たちの列ができていた。
「……え、ちょっと待って、今日多くない!?」
「ええ、最近ますます評判が広がっていますからね」
マーサは笑顔で答える。
「ほら先生、サボってる暇ありませんよ!」
「うぅ……朝からこの人数はキツい……」
そんなオリカの愚痴にも構わず、診療所の仕事は淡々と進んでいく。
***
午前の診察が終わる頃、オリカは椅子にぐったりともたれかかっていた。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
「先生、午後もありますよ?」
「知ってる……知ってるけど……」
オリカが虚ろな目で天井を見上げていると、厨房からいい香りが漂ってきた。
「お昼できましたよー!」
厨房から顔を出したのは エリーゼ だった。
「うわぁぁぁ……エリーゼのご飯……!」
「そんなゾンビみたいな顔しないでください」
エリーゼの料理は、診療所のスタッフにとって欠かせない癒しの時間だった。
彼女が作る食事は美味しく、栄養もしっかり考えられている。
食堂に集まったスタッフたちは、昼食を囲みながら、和やかに談笑する。
「最近、本当に忙しくなってきましたね」
エリーゼが呟くと、マーサが頷いた。
「ええ。私たちのところに来る患者さん、どんどん増えてますもんね」
「嬉しい悲鳴ってやつかなぁ……?」
オリカはスプーンをくわえたまま、ぼんやりと呟く。
***
診療所は順調だった。
街の人々からの信頼も厚くなり、患者も増えた。
ロストンにおける「魔法医療」の価値は、確実に高まりつつあった。
——だからこそ。
この繁栄が、決して誰からも歓迎されるものではないことを、
このときのオリカはまだ知らなかった。
「うさぎのおうち」の繁栄と共に、忍び寄る“影” もまた、静かにその輪郭を深めつつあった——。




